第9話「絡み付く策謀と絶対防壁」
王立魔導学園の廊下は、いつにも増して奇妙な静けさに包まれていた。
レティシアの隣には常にユリアンが立ち、彼の放つ魔力の重圧が周囲の生徒たちから言葉と視線を奪っている。
だがその静寂の裏で、王太子派の焦りは限界に達しつつあった。
ユリアンが放った諜報員たちの暗躍により、セドリックを支持していた貴族たちの間で不可解な失脚や経済的破綻が相次いでいたからだ。
「……随分と、学園の空気が淀んでいるわね」
レティシアが中庭の噴水に目を向けながら呟くと、ユリアンは彼女の指に絡めた自身の手を少しだけ引いた。
「気にするな。ゴミが自らの腐臭に怯えているだけだ」
彼の言葉は冷淡だが、レティシアを見下ろす瞳には彼女しか映っていない。
その時、中庭の入り口から数名の近衛騎士を連れたセドリックが現れた。
彼の顔色は以前の余裕を失い、追い詰められた獣のような険しさを含んでいた。
その後ろには、おどおどとした様子のエラーラが続いている。
「ユリアン」
セドリックは十歩ほど手前で立ち止まり、声を張り上げた。
「これ以上の専横は許されない。辺境の公爵と言えど、王太子派の重鎮たちに不当な圧力をかける行為は、国家への反逆とみなす」
ユリアンは歩みを止めず、ただレティシアを背後に庇うように立ち塞がった。
「圧力をかけた覚えはない。彼らが自らの不正や無能によって自滅しただけのこと。それを私のせいにされては心外だな」
「惚けるな! すべて貴様の差し金であることはわかっている!」
セドリックが激高し、近衛騎士たちが剣の柄に手をかけた。
レティシアは息を詰めたが、ユリアンの背中は微動だにしなかった。
「殿下、お待ちください!」
エラーラがセドリックの袖を引いた。
彼女の緑色の瞳が、悲痛な色を帯びてユリアンに向けられる。
「ユリアン公爵様、どうしてこんなことをなさるのですか。あなたの魔力は、誰かを傷つけるためのものではないはずです。どうか、その怒りを鎮めて……私の光で、あなたの心を……」
エラーラが一歩踏み出し、両手を胸の前で組んだ。
彼女の周囲から柔らかな光の粒子があふれ出し、中庭の空気を無理やり温めようとする。
ゲームの強制力。
ヒロインの善意が、周囲の敵対心を浄化し、彼女を絶対的な正義として君臨させる力。
近衛騎士たちの顔つきが和らぎ、セドリックでさえも一瞬、その光に魅入られたように動きを止めた。
だが。
「……不愉快だ」
ユリアンの低い声が、その光の波紋を根本から断ち切った。
彼の足元から凄まじい冷気が噴出し、中庭の石畳が瞬く間に白く凍りつく。
噴水の水が空中で静止し、無数の鋭い氷の棘となってエラーラの光の粒子を物理的に撃ち落とした。
「きゃっ……!」
エラーラは光を掻き消され、その場にへたり込んだ。
「二度目はないと警告したはずだ。貴様のその薄気味悪い光を、私の視界に入れるな」
ユリアンの言葉には、微塵の同情もなかった。
ヒロインの持つ周囲を感化する力は、彼がレティシアに向けている狂おしいほどの執着の前では、何の効力も持たなかったのだ。
「貴様……本気で王家に弓引くつもりか!」
セドリックが青ざめた顔で叫ぶが、ユリアンは彼を一瞥しただけで、再びレティシアの手を取った。
「弓を引くなどという大層なつもりはない。私はただ、私のものを守るだけだ。それを邪魔する者には、相応の代償を払ってもらう」
ユリアンは近衛騎士たちを一瞥もせず、レティシアを伴ってその場を後にした。
凍りついた噴水と、呆然と立ち尽くすセドリックたちを残して。
「ユリアン様」
回廊を歩きながら、レティシアはそっと彼の冷たい指先を握り返した。
「本当に、よろしいのですか。あのような態度をとれば、ますます王家の反感を買うことになります」
「構わない。あの程度の有象無象が何百集まろうと、私とお前の間に指一本触れさせる気はない」
ユリアンの瞳の奥で、暗い熱が揺らめいた。
「それに、あの愚か者は近いうちに自滅する。私が手を下すまでもない」
その言葉の通り、事態はレティシアの預かり知らぬところで急激に動き始めていた。
数日後、学園に一つの衝撃的な報せが駆け巡った。
王太子セドリックが、王室の資金を不正に流用し、私的な討伐軍を編成しようとしていた証拠が明るみに出たのだ。
さらに、その軍隊の目的が辺境公爵の暗殺であったことも暴露され、王家はセドリックの独断専行として彼を厳しく追及することになった。
証拠をリークし、世論を操作したのは、言うまでもなくユリアンの放った影の者たちである。
セドリックの権威は地に落ち、彼を支持していた者たちも次々と掌を返した。
光のヒロインであるエラーラもまた、不正な資金援助を受けていた疑いがかけられ、学園での居場所を失いつつあった。
「……すべて、あなたが仕組んだのですね」
公爵邸の執務室で、レティシアが紅茶を淹れながら尋ねると、ユリアンは書類から目を上げずに答えた。
「私は事実を白日の下に晒しただけだ。彼らが自ら掘った墓穴に落ちたに過ぎない」
「ユリアン様は、過保護でいらっしゃる」
レティシアが微笑みながらティーカップを置くと、ユリアンはようやくペンを置き、彼女の腕を引いて自身の膝の上に座らせた。
「お前を脅かす可能性のあるものは、すべて排除する。当然のことだ」
彼の冷たい腕が、レティシアの腰を強く抱きしめる。
「これで、お前を煩わせる虫は消えた。これからは、お前のすべてを私が独占する」
耳元で囁かれる甘く、そして重い宣告。
レティシアは彼の首に腕を回し、その冷たい肌に自らの体温を預けた。
盤面は裏返り、断罪されるはずだった悪役令嬢は、今や王国最強の公爵の腕の中で、この上なく甘美な保護を享受していた。




