第8話「氷の底の焦燥」
夜会からの帰路。
馬車の中は、行きとは打って変わって重苦しい沈黙に包まれていた。
ユリアンは隣に座るレティシアの肩を抱いたまま、窓の外の暗闇を凝視している。
彼の腕の力は先ほどよりもさらに強く、まるで少しでも力を緩めればレティシアがどこかへ消えてしまうとでも思っているようだった。
「ユリアン様……」
レティシアが小さく声をかけると、彼はようやく視線をこちらに向けた。
「お前は、私が恐ろしくないのか」
低くかすれた声には、怒りではなく、どこか怯えに似た響きが混じっていた。
「あのような場で、私は王太子を殺そうとした。魔力に飲まれ、理性を失いかけた。私は、やはり化け物だ」
彼の青い瞳が、かすかに揺れる。
王都に来てから、彼がこれほどまでに感情を露わにしたのは初めてだった。
自分の中の狂気を自覚し、それがレティシアを傷つけるのではないかという恐怖。
レティシアは身じろぎして彼に向き直り、その冷たい両手で彼の頬を包み込んだ。
「あなたは化け物ではありません。私のために怒ってくださった、ただ一人の大切な人ですわ」
「……だが」
「私は、あなたから決して逃げません。あなたがどれほど魔力を暴走させようと、私が必ず止めてみせます。だから、ご自分を責めないでください」
レティシアの親指が、彼の頬をそっとなでる。
ユリアンの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、彼は縋るようにレティシアの身体を強く抱きしめた。
「お前がいないと……私は、正気を保てない」
耳元に落ちる彼の吐息は、熱く、そしてひどく脆かった。
「お前を貶める言葉を聞いただけで、目の前が真っ白になった。あの女の光がお前に触れると思うだけで、腸が煮えくり返る」
彼はレティシアの首筋に顔を埋め、その匂いを確かめるように深く息を吸い込んだ。
「誰にも見せたくない。誰にも触れさせたくない。このまま、お前を氷の檻に閉じ込めてしまいたいとすら思う……私は、狂っているのか」
それは、彼の内奥にある、底なしの独占欲と執着の吐露だった。
レティシアの背筋を、甘美な痺れが駆け抜ける。
画面越しに見ていた最推しの感情が、今、自分だけに向けられ、これほどまでに生々しく暴走している。
恐ろしいはずのその言葉が、レティシアにとってはどんな愛の囁きよりも甘く響いた。
「狂ってなどいませんわ。私は、あなたのそのすべてを受け入れます。檻でも何でも、あなたの望む場所に私を置いてください」
レティシアが彼の背中に腕を回して抱き返すと、ユリアンの身体がかすかに震えた。
「……その言葉、絶対に忘れさせるな」
彼の唇が、レティシアの耳たぶをかすかに噛んだ。
鋭い痛みと、それを上回る熱が全身を駆け巡る。
ユリアンの愛執は、もはや後戻りできない深さまで到達していた。
翌日からの学園生活は、さらに異様なものとなった。
ユリアンのレティシアに対する束縛は、物理的なレベルにまで及んだ。
講義の合間すら、彼はレティシアの手を決して離そうとしない。
彼女が他の生徒と視線を合わせることすら許さず、話しかけようとする者がいれば、無言の圧力でその場から凍りつかせて排除した。
「ユリアン様、これでは私が息苦しいのではと、皆様が誤解してしまいますわ」
中庭のベンチで、レティシアが苦笑混じりに言うと、ユリアンは彼女の指に自身の指を絡ませながら冷たく言い放った。
「他人の誤解などどうでもいい。お前の視界に私以外の男が入ることの方が、よほど問題だ」
彼の青い瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
一方、セドリックとエラーラの陣営は、夜会での一件以来、表立った行動を控えるようになっていた。
だが、それは彼らが諦めたことを意味しない。
ユリアンの諜報員からの報告によれば、王太子派は水面下で、辺境公爵の魔力暴走を理由にした討伐軍の編成を計画しているという。
「愚かな。自ら破滅の道を歩もうとは」
執務室で報告を受けたユリアンは、冷笑を浮かべた。
「討伐軍が編成される前に、王太子派の要人をすべて社会的、あるいは物理的に消去しろ。証拠は残すな」
「御意」
ユリアンは、レティシアを守るためならば、国を滅ぼすことすら躊躇わない。
彼の冷徹な牙は、レティシアのあずかり知らぬところで、彼女の敵を次々と暗闇に葬り去っていく。
物語は、ヒロインの光が届かない、深く冷たい氷の底で、確実に結末へと向かい始めていた。




