第10話「暗闇の蠢動と最後の足掻き」
王太子派の崩壊は、王都の勢力図を塗り替えた。
セドリックは王宮の一室に軟禁状態となり、エラーラは特待生の資格を剥奪され、学園の片隅で孤立を深めている。
ユリアンの圧倒的な力と知略の前に、彼らは手も足も出なかった。
これで平穏が訪れたかに見えた。
だが、追い詰められた人間が最後に何をするか、ユリアンは熟知していた。
だからこそ、彼のレティシアに対する警戒と束縛は、以前にも増して苛烈なものとなっていた。
「今日は、学園を休め」
朝、朝食の席でユリアンが唐突に告げた。
「休む? でも、今日は重要な魔導史の講義が……」
「私が教えよう。今日一日、この屋敷から一歩も出るな」
ユリアンの青い瞳には、有無を言わせぬ響きがあった。
彼の視線はレティシアを捉えながらも、同時に見えない敵の気配を探っているように鋭い。
「何があったのですか?」
「……ネズミが、最後の足掻きを見せようとしている」
ユリアンはそれだけ言うと、立ち上がって執務室へと向かってしまった。
その日、公爵邸の周囲には、普段の数倍の護衛が配置され、屋敷全体が目に見えない強固な氷の結界で覆われていた。
レティシアは自室で本を読みながら、窓の外の不穏な空気を感じ取っていた。
夕刻。
空が赤黒く染まり始めた頃、屋敷の正門付近で鈍い爆発音が響いた。
「っ!」
レティシアが窓に駆け寄ると、正門を破って数台の馬車が強引に侵入してくるのが見えた。
馬車から飛び出してきたのは、王宮の近衛騎士の制服を着た男たち。
だが、その瞳は尋常ではない充血を見せ、動きもどこか人間離れしている。
「魔薬……」
禁忌とされる魔力増強薬を投与された兵士たちだ。
おそらく、セドリックが軟禁を抜け出し、背水の陣で差し向けてきた暗殺部隊だろう。
彼らは氷の結界に阻まれながらも、捨て身の攻撃で少しずつ屋敷へと近づいてくる。
部屋の扉が乱暴に開かれた。
「ユリアン様!」
飛び込んできたのは、漆黒の戦闘服に身を包んだユリアンだった。
彼の全身からは、かつてないほどの冷気が立ち上っている。
「ここから動くな。私が終わらせてくる」
「いけません、ユリアン様! あれは正気ではありません。あなたが怪我を……」
レティシアが彼に駆け寄ろうとすると、ユリアンは彼女の肩を掴み、その場に留まらせた。
「私を誰だと思っている」
彼の声は低く、そしてひどく冷ややかだった。
「あの程度のゴミ屑に、私が遅れをとるはずがない。だが、万が一にもお前に傷がつけば……私は、この国ごとすべてを凍らせてしまうかもしれない」
ユリアンの瞳の奥にあるのは、純粋な狂気だった。
レティシアを守るためなら、世界を壊すことも躊躇わない。
その深すぎる愛執が、彼の魔力を極限まで高めていた。
「だから、おとなしく待っていろ。すぐに戻る」
ユリアンはレティシアの額に短く唇を落とすと、身を翻して部屋を出て行った。
直後、屋敷の外から凄まじい地鳴りが響いた。
レティシアが窓から下を見下ろすと、庭園を埋め尽くしていた暗殺部隊の兵士たちが、一瞬にして巨大な氷柱に貫かれ、絶命していく光景が広がっていた。
ユリアンが庭の中央に立ち、ただ片手を振るうだけで、数十人の兵士が次々と氷の彫像へと変えられていく。
圧倒的。
文字通り、次元の違う力だった。
魔薬で強化された兵士たちでさえ、彼に触れることすら叶わない。
だが、その時。
ユリアンの背後にある木々の陰から、一筋の強い光の矢が放たれた。
「ユリアン様!」
レティシアが叫んだ瞬間、光の矢はユリアンのまとう氷の結界を貫通し、彼の左肩をかすめた。
鮮血が舞う。
ユリアンがかすかに顔を歪め、光の放たれた方向を睨みつけた。
そこに立っていたのは、ボロボロの衣服をまとったエラーラだった。
彼女の手には、王家の宝物庫から持ち出したと思われる、強力な魔導具の杖が握られている。
「ユリアン公爵……。どうして、どうしてわかってくれないの!」
エラーラが狂乱したように叫ぶ。
「私はただ、あなたを救いたかっただけなのに! その冷たい場所から、連れ出してあげたかっただけなのに! 全部、全部あの女のせいだわ!」
彼女の緑色の瞳は濁り、かつての清廉な面影はどこにもない。
物語の強制力が崩壊し、彼女自身の執着と嫉妬が暴走しているのだ。
「消えなさい、悪女! あなたさえいなければ!」
エラーラが杖をレティシアのいる窓へと向け、最大の光の魔力を放とうとした。
だが。
「……私の女に、気安く口を利くな」
地獄の底から響くような声とともに。
エラーラの足元から、巨大な氷の壁が瞬時にそびえ立った。
光の魔力は分厚い氷の壁に阻まれ、四散する。
ユリアンは肩から血を流したまま、ゆっくりとエラーラに向かって歩み寄った。
彼の周囲の空間が、極低温によって歪んで見える。
「ひっ……!」
エラーラは恐怖に顔を引き攣らせ、後ずさろうとしたが、彼女の足元はすでに床に張り付くように凍りついていた。
「お前のその独りよがりな光は、ひどく目障りだ。二度と私の視界に入るな」
ユリアンが手をかざした瞬間、エラーラの持つ杖が粉々に砕け散り、彼女自身も強力な冷気にあてられて気を失い、その場に崩れ落ちた。
静寂が戻った庭園。
ユリアンは冷酷に周囲を一瞥すると、ゆっくりと屋敷の中へと踵を返した。
彼の歩む後には、赤い血の跡が点々と残されていた。




