第11話「溶け出す境界と甘やかな罰」
公爵邸の庭園を血に染めた夜から、数日が経過した。
王宮に軟禁されていたはずのセドリックが、禁忌の魔薬に手を染めて引き起こした襲撃事件。
その事実は瞬く間に王都全土に知れ渡り、王家はかつてないほどの威信失墜に直面することとなった。
セドリックは王位継承権を剥奪され、幽閉の身となる。
そして、彼に唆されて襲撃に加担し、自らも魔導具を暴走させたエラーラは光の魔力を失い、平民として王都から追放された。
本来辿るはずだった運命の筋書きは、ここに崩壊したのだ。
レティシアの破滅は回避され、彼女を脅かす存在はすべて、ユリアンの強大な力によって盤上から取り除かれた。
だが、その代償は決して小さなものではなかった。
「……また、傷口が開いていますわ」
薄暗い寝室で、レティシアはユリアンの左肩に巻かれた包帯を解きながら、小さく息を吐いた。
襲撃の夜、エラーラの放った光の矢がかすめたように見えた傷は、思いのほか深く彼の肉体をえぐっていた。
ユリアン自身の強大な氷の魔力が、治癒魔法の温かな光を無意識に弾いてしまうため、傷の治りがひどく遅いのだ。
「大した傷ではない。数日もすれば塞がる」
ベッドの縁に腰掛けたユリアンは、痛みを堪える素振りも見せず、ただ冷ややかな声で答えた。
だが、レティシアの指先が傷口の周辺に触れると、彼の肩の筋肉がかすかに強張るのがわかる。
「痛むのでしょう? ご無理をなさらないでください」
「お前の手が触れている限り、痛みなど感じない」
ユリアンの右手が伸びてきて、傷の手当てをするレティシアの指をそっと包み込んだ。
彼の指先は相変わらず氷のように冷たかったが、その奥にある熱量は、以前にも増して重く、切実なものへと変化している。
「あの夜、私はお前を失うかもしれないという恐怖を、生まれて初めて知った」
低くかすれた声が、静寂の部屋に溶けていく。
「お前は、私がすべてから守ると誓った。だが、私の油断が、お前を危険に晒した。その事実が、どうにも許しがたい」
ユリアンは自分の左肩の傷を、忌々しそうに見下ろした。
それは、彼がレティシアを守りきれなかったという、彼自身の定義による敗北の刻印なのだ。
「そんな風に考えないでください。ユリアン様が身を呈してくださったからこそ、私はこうして無事でいられるのです」
レティシアは彼の手のひらに自分の手を重ね、その冷たさを全身で受け止めるように指を絡ませた。
「あなたは、私の英雄ですわ」
その言葉が落ちた瞬間。
ユリアンの青い瞳の奥で、何かが決定的に弾けた。
彼はレティシアの腕を引き、そのまま彼女の身体をベッドへと押し倒した。
「あっ……!」
シーツに背中が沈み込み、視界が反転する。
上から覆い被さるようにして、ユリアンの長身がレティシアを影の中に閉じ込めた。
彼の銀色の髪が、レティシアの頬に触れる。
「英雄などという、綺麗な言葉で私を飾るな」
耳元に落ちる声は、地鳴りのように低く、ひどく甘かった。
「私が欲しているのは、そんな崇高な称号ではない。ただ、お前のすべてだ」
ユリアンの冷たい指先が、レティシアの首筋をなぞり、鎖骨のくぼみへと滑り落ちる。
その微細な感触に、レティシアの背筋を甘美な痺れが駆け抜けた。
「お前は、私から逃げないと言ったな」
「はい……」
「ならば、その言葉の重さを、今ここで身体に刻み込んでやる。私がどれほどお前に狂っているか、骨の髄まで理解しろ」
彼の唇が、レティシアの首筋に触れた。
吸い付くような、だが決して傷つけない程度の絶妙な力加減。
冷たい肌と熱い吐息のコントラストが、レティシアの感覚を狂わせていく。
「ユリアン様……んっ」
こぼれ落ちそうになった甘い吐息を、ユリアンの唇が塞いだ。
それは、これまでのような不器用な触れ合いではなく、明確な所有欲を伴った深い口付けだった。
息継ぎの隙間すら与えられず、彼の冷たい舌がレティシアの口内を深く探り、彼女のすべてを奪い尽くそうとする。
(ああ、この人は、本当に……)
レティシアは抵抗することなく、彼の背中に腕を回し、その冷たい身体に自らの熱を預けた。
ゲームの中で、孤独に凍えていた最推し。
彼が今、自分という存在に依存し、狂おしいほどの熱情をぶつけてきている。
その事実が、レティシアに抗いがたい背徳的な悦びをもたらしていた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
ユリアンがようやく唇を離した時、二人の呼吸は荒く乱れ、部屋の空気は奇妙な熱気に包まれていた。
「……これで、お前は私のものだ」
ユリアンの瞳は、もはや隠しようのない愛執に濡れている。
「明日、領地へ帰るぞ」
彼はレティシアの耳元で、低く囁いた。
「この澱んだ王都には、もう用はない。辺境の、誰にも邪魔されない深い雪の中で、お前を永遠に閉じ込めてやる」
それは、甘やかな罰であり、逃げ場のない檻への最終宣告だった。
「はい、ユリアン様。どこへでも、お供いたします」
レティシアは微笑み、再び彼に唇を重ねた。
二人の境界は溶け合い、冷たくて熱い、歪で完璧な世界が完成しようとしていた。




