第6話「水面下の攻防と忍び寄る影」
王都の生活は、表面的には平穏そのものだった。
ユリアンの圧倒的な魔力と権力が、レティシアに近づくあらゆる不純物を弾き飛ばしている。
学園の講義、昼食、放課後の茶会に至るまで、ユリアンは常に彼女の視界の端に存在し、彼女を取り巻く環境を完璧にコントロールしていた。
だが、その完璧な防壁の裏側で、水面下の攻防が静かに繰り広げられていることに、レティシアは気づいていなかった。
ある日の夕暮れ。
公爵家の別邸の執務室で、ユリアンは部下からの報告書に目を通していた。
窓の外では、王都の街並みが沈みゆく太陽の光に赤く染まっている。
「……王太子派の動きが、活発になっているようだな」
ユリアンは報告書を机に放り投げ、冷ややかに呟いた。
「はい。セドリック殿下は、レティシア様を奪還すべく、様々な工作を仕掛けておられます」
黒装束に身を包んだ諜報員が、感情を排した声で報告する。
「学園内でのレティシア様の孤立を煽るための噂の流布、公爵家の領地における不穏分子の扇動、さらには、光の魔力を持つエラーラ・ミントを利用した、公爵様の社会的信用の失墜計画……」
「愚かしい」
ユリアンは鼻で笑った。
「その程度の小細工で、私から彼女を奪えると思っているのか」
ユリアンの指先が机を叩く。
そのリズムに合わせて、室内の気温が急激に下がり、窓ガラスに白い霜が広がり始めた。
「殿下が差し向けた密偵は、すでに三名ほど処理いたしました。流言飛語の出処となっているサロンには、経済的な圧力をかけて沈黙させています」
「手ぬるい。レティシアの耳に少しでもノイズが届く前に、すべて根絶やしにしろ」
「御意」
諜報員が深く頭を下げ、影に溶けるように姿を消した。
ユリアンは一人残された執務室で、窓の外の景色を見つめた。
彼の脳裏に浮かぶのは、レティシアの無防備な笑顔だけだ。
彼女は、自分がどれほど深い愛執の対象となっているか、そしてその裏でどれほどの血が流れているかを知らない。
(それでいい。お前は何も知らなくていい)
ユリアンは立ち上がり、窓ガラスに触れた。
冷たいガラス越しに、王宮の尖塔が見える。
「セドリック……。貴様が彼女を手放したのだ。今更這いつくばって許しを乞おうと、私は絶対に渡さない」
彼の瞳の奥で、暗い炎が揺らめいた。
それは、純粋な愛情というよりは、もはや狂気に近い独占欲。
レティシアという唯一の光を失えば、自分は魔力の暴走に呑まれ、破滅する。
だからこそ、彼女を脅かすあらゆる存在は、自分の手で粉砕しなければならない。
翌日の学園。
レティシアは、珍しくユリアンの姿が見えないことに気づいた。
「ユリアン様は、王宮からの呼び出しで少し席を外されるそうです」
護衛の騎士からそう告げられ、レティシアは一人で図書室へと向かった。
ユリアンがいないと、周囲の空気が少しだけ軽く感じられる。
だが同時に、心にぽっかりと穴が空いたような寂しさも感じていた。
図書室で本を探していると、ふと、背後から声をかけられた。
「やあ、レティシア。奇遇だね」
振り向くと、そこにはセドリックが立っていた。
彼の金色の髪は完璧にセットされ、王太子としての威厳に満ちている。
だが、その青い瞳には、以前のような傲慢さだけでなく、どこか焦りのようなものが混じっていた。
「殿下……。何かご用でしょうか」
レティシアは本を胸に抱き、警戒して一歩後ずさった。
「そんなに怯えないでくれ。ただ、少し君と話がしたかっただけだ」
セドリックは穏やかな笑みを浮かべ、レティシアに近づいてきた。
「君が辺境公爵の元へ行ってから、随分と経つ。あの冷たくて恐ろしい男の側で、君がどれほど辛い思いをしているか……私には痛いほどわかるよ」
「……」
「強がらないでいい。君は、私への当てつけのために彼を利用しているだけだろう? もう十分だ。私がすべてを許してやる。私の元へ戻ってきなさい」
セドリックの手が、レティシアの肩に伸びる。
その指先が触れる寸前。
図書室の空気が、急激に冷え込んだ。
「気安く触れるなと言ったはずだ、セドリック」
地鳴りのような低い声。
いつの間にか、セドリックの背後にユリアンが立っていた。
彼の青い瞳は、絶対零度の殺気を放ち、セドリックを射抜いている。
「ユリアン……。王宮での用事はもう済んだのか」
セドリックは舌打ちをして、レティシアから距離を取った。
「貴様のような小物が仕掛けた罠など、数分で片付く。それよりも、私の留守を狙って這い出てくるとは、随分と卑しい真似をするものだな」
ユリアンはセドリックを一瞥もせず、レティシアの側に寄り添い、彼女の肩を抱き寄せた。
「怪我はないか」
「はい。ユリアン様が戻ってきてくださったから」
レティシアが微笑むと、ユリアンは短く息を吐き出し、セドリックの方へ向き直った。
「二度と彼女に近づくな。次はないと思え」
それは、明確な死の宣告だった。
ユリアンの全身から放たれる圧倒的な魔力の圧力に、セドリックは顔を青ざめさせ、足を引きずるようにして図書室から逃げ出していった。
ユリアンはレティシアの手を引き、その場を後にする。
彼の手のひらは氷のように冷たかったが、そこにはレティシアを誰にも渡さないという、恐ろしいほどの熱がこもっていた。
水面下の攻防は、いよいよ激しさを増していく。
そして、その中心にいるレティシアだけが、その深淵の闇を知らないまま、甘い檻の中で微笑んでいた。




