第5話「光の罠と見えない防壁」
学園での生活が本格的に始まってから、レティシアの周囲には奇妙な空白地帯が形成されている。
本来であれば、王太子から婚約破棄された令嬢など、格好の嘲笑の的になるはずだ。
すれ違いざまの嫌味や、私物がなくなるなどの些細な嫌がらせは、貴族の学園においては日常茶飯事である。
だが、レティシアの身にはそうした類の被害が一切及んでいなかった。
彼女が講義室に足を踏み入れれば、周囲の生徒たちは蜘蛛の子を散らすように距離を取り、誰も彼女に直接話しかけようとはしない。
(ユリアン様の威光、恐るべしね)
昼休みの図書室で、レティシアは分厚い魔導書をめくりながら内心で苦笑した。
彼女が一人で行動している間も、ユリアンの見えない魔力が常に彼女の周囲を取り巻いている。
それは物理的な冷気として現れるわけではないが、魔力を感知できる上位貴族たちにとっては、不用意に近づけば即座に命を刈り取られるような、凄まじい威圧感として機能していた。
図書室の奥まった席で本を読んでいると、ふと、視界の端で光の粒子が揺らぐのが見えた。
顔を上げると、書架の陰からエラーラがこちらを窺っている。
彼女の緑色の瞳は、レティシアを見つけると、安堵したように細められた。
「あの、レティシア様。少しだけお時間よろしいでしょうか」
エラーラは周囲を気にしながら、小刻みな足取りでレティシアの席に近づいてきた。
彼女の周囲だけ、空気が不自然なほどに温かく、甘い香りが漂っているように感じられる。
光の魔力特有の、人を無意識のうちに惹きつけ、警戒心を解かせる力。
ゲームの主人公である彼女が持つ、最強の武器だ。
「何かご用かしら」
レティシアは本を閉じず、視線だけで彼女を牽制した。
「その……先日の入学式では、私の不注意でユリアン公爵様にご迷惑をおかけしてしまって。改めて謝罪させていただきたくて」
エラーラは指を絡ませながら、上目遣いでレティシアを見つめた。
「ユリアン様は、とてもお辛そうに見えました。あんなに冷たい魔力に縛られて、ずっと一人で苦しんでいらっしゃるんじゃないかって。私の光の魔力なら、きっと彼を温めて差し上げられると思うんです。だから、その……レティシア様から、彼に会わせていただけるようお口添えをお願いできないでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、レティシアの胸の奥で、冷たい何かがスッと通り抜けた。
善意の仮面を被った、無自覚な傲慢さ。
自分なら彼を救えるという、光の魔力を持つ者特有の思い上がり。
「お断りしますわ。ユリアン様はあなたに会うことを望んでいらっしゃいません」
レティシアは冷たく切り捨てた。
「どうしてですか? 私はただ、彼を助けたいだけなのに。もしかして、レティシア様が彼を独占したいから、私を遠ざけているのですか?」
エラーラの声のトーンが、わずかに高くなる。
周囲の席で本を読んでいた生徒たちが、二人のやり取りに気づき、ひそひそと囁き交わし始めた。
「元婚約者の王太子殿下を私に奪われそうになった腹いせに、今度は公爵様を縛り付けているという噂は本当だったのですね。彼が可哀想です!」
図書室という静寂を重んじる場所で、エラーラの声は不自然なほどよく通った。
彼女の言葉には、聞く者の感情を揺さぶり、彼女の側に立たせようとする魔力がかすかに混じっている。
レティシアは静かに立ち上がった。
反論しようとした、その時だった。
パリンと音が鳴る。
図書室の窓ガラスが、粉々に弾け飛んだ。
鋭い破片が床に散らばり、生徒たちの悲鳴が上がる。
吹き込んできたのは、季節外れの冷たい突風だった。
その風は、エラーラの周囲に漂っていた甘い香りと光の粒子を一瞬にして凍りつかせ、粉々に砕き散らした。
「ひっ……!」
エラーラは顔を青ざめさせ、後ずさって書架に背中を打ち付けた。
突風の出処は、開かれた図書室の扉だった。
そこに、ユリアンが立っていた。
彼の青い瞳は、エラーラではなく、レティシアだけを真っ直ぐに見据えている。
「迎えに来た。こんな埃っぽい場所に長居する必要はない」
ユリアンは静かに歩み寄り、レティシアの手を取った。
彼の指先は氷のように冷たかったが、そこには確かな熱情が込められている。
「ユリアン様……」
「お前の時間を、無価値なものに消費させるな」
ユリアンはレティシアを引き寄せると、周囲の生徒たちを一瞥した。
その視線だけで、図書室の気温がさらに下がる。
誰もが息を止め、二人の姿から目を逸らした。
エラーラだけが、震える唇を動かして何かを言いかけていたが、声にならなかった。
ユリアンは彼女を一瞥もせず、レティシアを伴って図書室を後にした。
廊下に出ると、ユリアンはレティシアの手を引く力を少しだけ強めた。
「怪我はないか。あの女の薄汚い魔力に当てられていないか」
「平気です。あなたが来てくださったから」
レティシアが微笑むと、ユリアンは小さく息を吐き出し、立ち止まった。
彼の大きな手が、レティシアの頬に添えられる。
「私は、お前が誰かに嘲笑われることも、理不尽な悪意に晒されることも許さない」
耳元に落ちる声は、地を這うように低く、そして重い。
「お前の視界に入るものは、すべて私が管理する。お前はただ、私の側で微笑んでいればいい」
それは、保護という名目を借りた、強烈な支配の宣言。
だがレティシアは、その檻の冷たさを心地よいと感じていた。
「はい、ユリアン様」
レティシアは彼の冷たい手のひらに頬をすり寄せ、その熱を全身で受け止めた。




