第4話「王都の喧騒と氷の結界」
辺境から王都へ続く街道を、公爵家の紋章を掲げた馬車が進んでいく。
車内は分厚いビロードのカーテンが引かれ、外の景色を遮断していた。
車輪が石畳の段差を越えるたびに生じるわずかな振動すら、幾重にも敷き詰められたクッションによって吸収されている。
「気分は悪くないか。寒ければ温度を上げるが」
向かい側の席に座るユリアンが、探るような視線をレティシアに向けた。
「大丈夫ですわ、ユリアン様。これ以上なく快適です」
レティシアが微笑むと、ユリアンは短く息を吐き、隣の席へと移動してきた。
彼が腰を下ろしたことで、車内の空間が一気に狭く感じられる。
長い足がレティシアのドレスの裾を押し潰し、彼の冷たい体温が布越しに伝わってくる。
ユリアンの長い指が伸びてきて、レティシアの耳元の髪をそっとなでた。
「王都の空気は淀んでいる。余計な虫が寄ってこないよう、常に私の側を離れるな」
「はい。承知しております」
学園の入学式を翌日に控え、王都にある公爵家の別邸へ向かっている最中だった。
王太子との婚約を自ら破棄し、辺境の公爵のもとへ走った悪役令嬢。
社交界がレティシアをどのような目で見るか、想像に難くない。
だが、隣に座るこの圧倒的な存在感を持つ青年がいる限り、いかなる悪意も自分には届かないという確信があった。
翌朝、王立魔導学園の大講堂。
歴史を感じさせる石造りの巨大な空間に、新入生と見物の上級生たちが集まっている。
レティシアがユリアンと連れ立って講堂に足を踏み入れた瞬間、さざ波のように広がっていたざわめきが、水を打ったように静まり返った。
貴族たちの視線が、一斉に二人へと突き刺さる。
好奇、嘲笑、そして何よりも、ユリアンに対する明確な恐怖。
彼が歩を進めるたびに、周囲の空気が数度下がり、石床の表面にかすかな霜が走る。
誰もが道を空け、二人から距離を取ろうと後ずさった。
レティシアは背筋を伸ばし、堂々と前を見据えて歩く。
ユリアンの冷たい手が、レティシアの腰に回され、彼女を自身の身体に引き寄せるようにして守っていた。
その手から伝わる魔力の波動が、目に見えない結界となってレティシアを包み込んでいる。
遠くから、彼らを値踏みするような視線が向けられていることに気づく。
貴賓席に座る、王太子セドリック。
彼の青い瞳が、レティシアの腰に回されたユリアンの腕を見て、かすかに細められるのが見えた。
入学式は滞りなく進み、新入生代表の挨拶が始まった。
壇上に上がったのは、柔らかな金髪と新緑のような瞳を持つ少女。
平民でありながら特待生として入学を許可された光の魔力の持ち主、エラーラ・ミント。
ゲームにおける本来の主人公である。
彼女の放つ澄んだ声と、その身を包むかすかな光の粒子が、講堂内の空気を和らげていく。
レティシアは、エラーラの姿を静かに見つめていた。
本来のシナリオであれば、自分はこの時点で彼女に対して強烈な嫉妬を抱き、嫌がらせを始める手はずになっている。
だが今のレティシアの心にあるのは、傍観者としての冷ややかな感情だけだった。
式が終わり、新入生たちが各教室へと移動を始めた回廊でのことだった。
人混みを避けるように歩いていたレティシアとユリアンの前に、不意に小柄な影が立ち塞がる。
「あの……!」
エラーラだった。
彼女の緑色の瞳が、ユリアンを真っ直ぐに見上げている。
「私、エラーラ・ミントと申します。ユリアン公爵様ですね」
ユリアンは足を止め、虫けらでも見るような冷え切った視線を彼女へ下ろした。
「……何用だ」
「公爵様の周りを取り巻く魔力が、とても苦しそうに見えて……。私の光の魔力なら、少しだけその冷たさを和らげることができるかもしれません。あの、よろしければ……」
エラーラが一歩踏み出し、ユリアンに向けて小さな手を伸ばす。
それは本来の運命が辿るはずだった道筋。
孤独な氷の公爵が、初めて他者からの温かな善意に触れ、彼女に興味を抱く始まりの出来事だ。
レティシアは息を詰めた。
だが。
エラーラの指先がユリアンの衣服に触れる寸前。
バンッと破裂音が回廊に響き渡った。
ユリアンの足元から放射状に放たれた強烈な冷気の波動が、目に見えない壁となってエラーラを乱暴に弾き飛ばしたのだ。
「きゃあっ!」
エラーラは床に倒れ込み、肩を抑えて顔を歪めた。
「気安く触れるな」
地を這うような、恐ろしいほどの怒気を孕んだ声。
ユリアンの青い瞳は、エラーラの善意を一切理解しようとせず、ただ絶対的な拒絶だけを突きつけていた。
「私の魔力に干渉できるのは、この世界でレティシアただ一人だ。二度とその薄汚い光を私に向けるな」
講堂の出口付近から、その騒ぎを聞きつけた者たちが集まってくる。
人だかりを割って、金髪の青年が足早に近づいてきた。
セドリックだった。
彼は倒れているエラーラを一瞥すると、鋭い視線をユリアンに向けた。
「辺境の公爵ともあろう者が、平民の少女に暴力を振るうとは。随分と野蛮になったものだな、ユリアン」
セドリックの言葉に、ユリアンは鼻で笑った。
「無作法に触れようとした犬を払っただけだ。王太子殿下こそ、首輪の管理をしっかりとなされるべきでは?」
二人の間に、火花が散るような緊張感が走る。
セドリックの視線が、ユリアンの傍らに立つレティシアへと移った。
「レティシア。君もこんな粗野な男の側にいては、身が持たないだろう。今からでも遅くはない、私の元へ戻ってこい」
恩着せがましいセドリックの言葉。
レティシアはユリアンの前に半歩踏み出し、セドリックを真っ直ぐに見据えた。
「お気遣いには感謝いたしますわ、殿下。ですが、私は今の生活にこれ以上ない幸福を感じております。ユリアン様は、私を世界で一番大切に扱ってくださいますから」
一切の迷いのない、冷ややかな声音。
セドリックの顔に、明確な屈辱の色が浮かんだ。
ユリアンの腕が、背後からレティシアの肩を抱き寄せる。
「聞いたか、王太子。こいつは私のものだ」
ユリアンはレティシアの耳元に唇を寄せ、周囲に見せつけるようにわざとらしく低い声で囁いた。
「行くぞ、レティシア。このような澱んだ空気の中にいては、お前の肌が汚れる」
ユリアンはセドリックたちを一瞥もせず、レティシアを庇うようにして回廊を歩き去っていく。
背中に突き刺さる嫉妬と憎悪の視線を、彼のまとう氷の魔力がことごとく遮断していた。
馬車へと向かう道すがら、ユリアンはレティシアの肩を抱く腕の力を、骨が軋むほどに強めた。
「お前は、私だけの光だ」
執着に塗れた呟きが、レティシアの髪に落ちる。
王都のざわめきを遠ざけ、二人だけの氷の結界の中で、物語は新たな軌道を描き始めていた。




