第3話「氷の檻と不器用な熱」
温室のガラスを叩く冷風の音が、遠くで鳴っている。
ユリアンの腕の中に閉じ込められたまま、レティシアは彼の冷たい体温と、それに反比例するような強い鼓動を耳元で聞いていた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
ふと、ユリアンの腕の力がわずかに緩み、彼の視線が下へと向けられた。
レティシアのドレスの裾が、先ほどまで荒れ狂っていた氷の棘によって無残に引き裂かれている。
剥き出しになったふくらはぎから、一筋の赤い血が白い肌を伝って床へと滴り落ちていた。
その鮮烈な赤を見た瞬間、ユリアンの周囲の空気が再び凍りついた。
彼の呼吸が浅く、不規則なものに変わる。
「……私の、せいだ」
かすれた声が空間に落ちる。
「私の力が、お前を」
彼の手が、怯えたようにレティシアの背中から離れようとした。
自分が近づけば相手を傷つけるという、彼の中に深く根付いた呪いのような強迫観念。
レティシアは咄嗟に彼の手首を掴み、その冷たい肌を両手で包み込んだ。
「違います。これは私が不注意で掠っただけです。ユリアン様は何も悪くありません」
「嘘をつくか。現に血が流れているではないか」
ユリアンは自身の罪を突きつけられたように青ざめ、レティシアの足元を見つめたまま動けなくなっていた。
次の瞬間、彼は無言のまま片膝をつき、自身のまとっていた分厚い漆黒の外套を脱ぐと、それをレティシアの肩からすっぽりと被せた。
そのまま彼女の膝の裏と背中に腕を差し入れ、羽毛でも持ち上げるかのように軽々と抱き上げる。
「ユリアン様?」
「喋るな。傷口が開く」
足早に温室を出る彼の歩幅は大きく、レティシアは外套の重みと彼の腕の冷たさに身を委ねるしかなかった。
廊下ですれ違う使用人たちが、主人の見慣れない姿に道を譲る。
ユリアンは誰の顔を見ることもなく、真っ直ぐに自身の寝室へと向かった。
天蓋付きの広大なベッドにレティシアをそっと降ろすと、彼は部屋の隅の戸棚から医療用の木箱を取り出し、再びベッドの傍らに膝をついた。
「人を呼びますか?」
「不要だ。他人に触れさせる気はない」
低い声には、有無を言わせぬ響きがあった。
ユリアンは薬品の瓶の栓を抜き、清潔な白い布に液体を含ませる。
ハーブの鼻を突くような鋭い匂いが漂った。
「少し、染みるぞ」
彼の手がレティシアの足首を掴む。
氷のように冷たい指先が素肌に触れ、レティシアの肩がかすかに跳ねた。
その微細な反応に、ユリアンの手がピタリと止まる。
彼は顔を上げ、痛みを堪えようとするレティシアの呼吸を確かめるように見つめた。
青い瞳の底に、ひどく脆い後悔が揺らいでいる。
「……痛むか」
「いえ、冷たくて、気持ちがいいくらいです」
強がりのようなレティシアの言葉に、ユリアンは短く息を吐き出し、先ほどよりもさらに慎重な手つきで血の跡を拭い始めた。
傷口を洗浄し、薬を塗り、包帯を巻く。
その一連の動作は恐ろしいほどに丁寧で、彼の指先が触れるたびに、レティシアの肌には奇妙な熱が集まっていくようだった。
「……終わりましたか?」
「ああ」
だが、ユリアンは包帯を巻き終えても、レティシアの足首から手を離そうとしなかった。
彼の親指が、包帯の端からわずかに覗く白い肌をなぞるように動く。
視線は包帯の上に落ちたままで、彼が何を考えているのか読み取ることはできない。
ただ、触れている指先の冷たさとは裏腹に、そこには重く、息苦しいほどの執着が宿っていることだけが伝わってきた。
「ユリアン様」
レティシアが小さな声で呼ぶと、彼はようやく顔を上げた。
「お前は、私から逃げないと言った」
「はい」
「私の側にいると、そう誓った」
「誓いましたわ」
ユリアンの手が足首を離れ、今度はレティシアの頬に添えられる。
彼の大きな手のひらが視界の半分を覆い、逃げ道を塞ぐように顔が近づいてきた。
鼻先が触れ合いそうな距離。
彼の吐息が、レティシアの唇をかすめる。
「ならば、お前のすべては私の管理下に置かせてもらう。お前を傷つけるあらゆるものから、私が隔離する」
それは保護という名目を借りた、強烈な独占の宣言だった。
レティシアの胸の奥で、甘やかな痺れと、未知の領域に踏み込んだことへの微かな震えが同時に湧き上がる。
彼女は目を伏せ、彼の冷たい手のひらに自らの頬をすり寄せるようにして応えた。
その日から、辺境公爵邸におけるレティシアの生活は一変した。
ユリアンの過保護ぶりは、メイドたちが影で息を潜めるほどに徹底されていた。
朝目覚めると、部屋の温度はレティシアが起き出しやすいように微細に調整され、彼女の口に入る食事はすべて、ユリアンが事前に毒見と温度確認を済ませたものだけが運ばれてきた。
日中、ユリアンが執務を行う部屋にはレティシア専用の長椅子が運び込まれ、彼女は常に彼の視界の端に置かれた。
レティシアが少しでも咳き込めば、ユリアンはペンを放り出して駆け寄り、彼女が庭を散歩したいと望めば、彼自身が仕事を投げ打って必ず隣を歩いた。
彼の氷の魔力は、レティシアの周囲数メートルだけは決して近づかないよう、恐ろしいほどの精度で制御されるようになっていた。
まるで、透明な檻の中に大切に飾られた硝子細工のような扱いだ。
息苦しさを感じてもおかしくない状況だったが、レティシアにとってそれは、画面越しに見つめ続けてきた最愛の彼が、自分だけに向けてくれる不器用で狂おしいほどの愛情の証に他ならなかった。
数週間が経過したある日。
執務室の机の上に、王室の紋章が押された封蝋で封じられた一通の書状が置かれていた。
レティシアが長椅子から身を起こしてそれを見つめていると、部屋に戻ってきたユリアンが冷ややかな手つきでその封を切った。
羊皮紙に目を走らせる彼の眉間に、深い皺が刻まれる。
室内の空気が急激に冷え込み、窓ガラスに薄い霜が広がり始めた。
「……王都の、王立魔導学園への入学通知だ」
ユリアンは忌々しそうに羊皮紙を机に放り投げた。
「対象年齢に達した上位貴族の義務。本来なら無視するところだが、ご丁寧にお前と私の両名の名が記載されている」
レティシアは息を詰めた。
ゲームの本来のシナリオが、いよいよ動き出そうとしている。
光の魔力を持つヒロイン、エラーラと、王太子セドリックが待ち受ける王都の学園。
断罪の舞台となるはずだった場所への招待状。
さらに、封筒の中からはもう一枚、別の便箋が滑り落ちていた。
セドリックからの私信だった。
そこには、流麗な文字でこう記されていた。
『辺境の寒さに耐えかねて、君が王都の空気を懐かしんでいる頃だろう。学園での再会を楽しみにしている』
未練とも挑発ともとれる文面に、レティシアが眉をひそめた瞬間。
パキリ、と甲高い音が鳴った。
ユリアンの指先から放たれた魔力が、机上の便箋を瞬く間に凍結させ、次の瞬間には細かな氷の粉となって空中に散らしたのだ。
「ユリアン様……」
「くだらない」
ユリアンは氷の粉を払うこともなく、真っ直ぐにレティシアを見据えた。
その瞳の奥には、氷点下の怒りと、彼女を誰の目にも触れさせたくないという暗い欲望が渦巻いている。
「王都へ行く。そして、あの愚か者にわからせてやろう。お前が誰のものかを」
レティシアは立ち上がり、彼の冷たい手をとった。
「私はどこへも行きません。あなたの隣にしか、私の居場所はありませんから」
ユリアンの手が、レティシアの指を痛いほどに強く握り返す。
彼らを取り囲むように、室内を舞う氷の粉が、シャンデリアの光を反射して冷たく輝いていた。




