第2話「凍てつく公爵の熱を帯びる瞳」
辺境の朝は、王都とは比べ物にならないほど早く、そして冷え込む。
分厚い羽毛布団の中で目を覚ましたレティシアは、見慣れない天蓋を見つめて数秒まばたきをした。
(そうだ。私、間違いなくユリアン様の屋敷にいるんだわ)
事実を再認識した途端、布団を跳ね除けて立ち上がっていた。
窓の隙間から入り込む冷気すら、今の彼女にとっては心地よい刺激だった。
用意されていた簡素だが上質なドレスに袖を通し、鏡の前で身だしなみを整える。
契約婚約の申し出から一夜。
ユリアンは客間を一つ与え、「好きにしろ」と言い残して自室に籠もってしまった。
使用人たちの態度は、決して失礼ではないものの、遠巻きにして様子を窺っているのがありありとわかる。
王都からやって来た、いわくつきの令嬢。
しかも、誰もが恐れる化け物のような公爵に自ら嫁ごうとする変わり者。
そう思われて当然だ。
部屋を出て、廊下を歩く。
屋敷の中は静まり返っており、人の気配が希薄だった。
ユリアンの魔力の影響か、壁の燭台や窓枠には、かすかに白い霜が降りている。
(これだけ広くて冷たい屋敷で、ずっと一人で……)
ゲームの知識として知っていた彼の設定が、現実の冷気となって肌に触れる。
胸の奥がチクリと痛むのを覚えながら、レティシアは迷わず彼の執務室へと向かった。
分厚いオーク材の扉をノックする。
「……入れ」
低い声に促され、扉を開けた。
執務室の中は、廊下以上に冷え切っていた。
吐く息が白く染まるほどの低温の中、ユリアンは書類の山に埋もれるようにしてペンを走らせていた。
銀色の髪が額にかかり、青い瞳は紙面から動かない。
「おはようございます、ユリアン様」
「……何用だ。客間でおとなしくしていろと言ったはずだが」
顔を上げることもなく、彼は冷たく言い放つ。
「婚約者として、少しでもあなたのお役に立ちたいと思いまして。領地の書類整理でしたら、私にも手伝えます」
ユリアンはピタリとペンの動きを止め、ようやくレティシアの方を見た。
その視線には、明らかな警戒と疑念が混じっている。
「私の仕事に口出しする気か。王家のスパイとしての役目を果たそうとでも?」
「違います。純粋に、あなたを支えたいだけです」
「……無駄な真似を。私に関われば、お前も凍りつくぞ」
ユリアンは苛立たしげに吐き捨て、再び書類に視線を落とした。
その瞬間、彼の指先から青白い冷気が漏れ出し、机上のインク瓶を瞬時に凍結させた。
ピキリ、とガラスが軋む音。
日常的に魔力の制御が乱れている証拠だった。
普通の人間なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
だが、レティシアは静かに近づき、凍りついたインク瓶を両手で包み込んだ。
「何をしている」
「溶かしています。これでは、仕事が続けられませんから」
レティシアの体温で、ガラスの表面の霜がゆっくりと溶け、水滴となって彼女の手を濡らす。
ユリアンは、信じられないものを見るような目で彼女の手元を見つめていた。
「私の魔力に触れれば凍傷を引き起こす。離れろ」
「平気です。ユリアン様の魔力は、ただ冷たいだけで、人を傷つけようとする悪意はありませんから」
レティシアは微笑みながら、溶けたインク瓶を机に戻した。
嘘ではなかった。
彼の魔力は強大ゆえに制御が難しいだけで、彼自身は誰よりも傷つけることを恐れている。
ゲームのシナリオでも、彼は決して無抵抗な者を自ら攻撃することはなかった。
ユリアンの青い瞳が、揺れた。
これまで、彼の魔力を見て逃げ出さなかった者はいなかった。
恐怖に歪む顔ばかりを見てきた彼にとって、微笑みながらその冷たさを受け入れるレティシアの存在は、全く理解の範疇を超えていた。
「……狂人め」
吐き捨てるように言った彼の声は、しかし先ほどよりもかすかにかすれていた。
それから数日、レティシアはユリアンの側に張り付いた。
執務室での書類仕事の補佐、食事の際の話しかけ、散歩への誘い。
ユリアンは鬱陶しそうにしながらも、ことごとく彼女を拒絶することはしなかった。
ある日の午後。
レティシアは、ユリアンを探して屋敷の裏手にある広大な庭園を歩いていた。
本来なら美しい花が咲き誇るはずの庭園だが、ユリアンの魔力の影響で、植物の多くは成長を止め、霜に覆われている。
その奥の温室に、彼がいるという話をメイドから聞いたのだ。
ガラス張りの温室に近づくと、異様な冷気が肌を刺した。
周囲の木々がパキパキと音を立てて凍りついていく。
魔力の暴走だ。
レティシアは足早に温室の扉を開けた。
中は、まるで吹雪の只中のような惨状だった。
白く渦巻く冷気の中央で、ユリアンが膝をつき、肩で荒い息をしていた。
彼の周囲の地面から、鋭い氷の棘が次々と生え出ている。
「ユリアン様!」
レティシアの叫び声に、彼が弾かれたように顔を上げた。
「来るな……! 近づけば、殺すぞ!」
苦痛に歪んだ顔。
自分自身の中に渦巻く強大な力に耐えきれず、それが周囲を破壊してしまうことへの恐怖が、彼の瞳ににじんでいた。
逃げろ、と全身が警告している。
だが、レティシアの足は真っ直ぐに彼へと向かっていた。
氷の棘がスカートの裾を引き裂き、肌を掠めて細い血の筋を作る。
冷気が肺を焼き、呼吸が苦しい。
それでも彼女は止まらなかった。
「来ないでくれ……頼むから……」
懇願するような、ひどく脆い声。
レティシアは彼にたどり着き、その凍てつく身体を力強く抱きしめた。
「大丈夫です、ユリアン様。私がここにいます」
「離れろ……お前まで、壊れてしまう」
「壊れません。あなたの力は、私を傷つけない」
衣服越しに伝わる彼の体温は、恐ろしいほどに冷たかった。
だが、レティシアは自分の体温をすべて分け与えるように、さらに腕に力を込める。
耳元に落ちる彼の荒い吐息が、かすかに震えているのがわかった。
「……なぜ」
かすれた声が、空間に溶ける。
「なぜ、私を恐れない。なぜ、逃げないんだ」
「あなたのことが、好きだからです」
無意識の、だが確信に満ちた言葉だった。
推しキャラクターへの愛着という枠をとうに超え、目の前で震える一人の青年を、心から救いたいと願っていた。
その言葉が落ちた瞬間。
吹き荒れていた冷気が、嘘のようにピタリと止んだ。
氷の棘が音を立てて崩れ落ち、温室の中に静寂が戻る。
ユリアンの腕が、ゆっくりとレティシアの背中に回された。
逃げ道を塞ぐように、強く、きつく引き寄せられる。
「……好き、だと?」
耳元で囁かれる声は、先ほどまでの怯えを失い、どこか底知れぬ熱を帯びていた。
「ええ、とても」
レティシアが見上げると、そこには凍てつく湖面ではなく、暗い炎が揺らめくような青い瞳があった。
「その言葉の重さを、お前はわかっていない」
ユリアンの指先が、レティシアの頬に触れた。
冷たかったはずの指が、ひどく熱く感じられる。
「私を恐れないと言ったな。私を拒まないと、そう言ったな」
「はい」
「ならば、二度と私の側から離れることは許さない。お前が自ら望んだのだ。私という化け物の、鎖になることを」
それは、宣告だった。
これまで誰にも向けられなかった彼の内奥の飢えが、レティシアという唯一の光を見つけ、強烈な執着へと変貌した瞬間。
レティシアは小さくうなずいた。
彼が編み上げた甘く逃げ場のない檻が、音を立てずに閉ざされていく。




