第1話「断罪の前に盤面をひっくり返す」
冷めた紅茶の水面に、シャンデリアの光が鈍く反射している。
「本当に、これで後悔はないのだな」
分厚いマホガニーのデスクを挟み、セドリックが不機嫌そうに低い声を落とした。
レティシアは背筋を伸ばし、わずかに顎を引く。
「はい。殿下のお手を煩わせるまでもありません」
卓上に置かれた羊皮紙には、すでに王家と公爵家の紋章が並んで押印されている。
婚約解消の合意書。
本来であれば、一年後の学園の卒業パーティーで、数々の罪状を読み上げられた末に叩きつけられるはずだった破滅の証だ。
セドリックの金糸の髪が、かすかに苛立ちを孕んで揺れた。
「君の方から白紙に戻すと言い出すとは、思いもしなかった。あれほど王太子妃の座に執着していたというのに」
「私のわがままですわ。殿下には、もっと相応しい方がいらっしゃるはずですから」
薄く微笑みを浮かべ、レティシアは静かに立ち上がった。
シルクのドレスが衣擦れの音を立てる。
セドリックの青い瞳が、信じられないものを見るように細められた。
彼にとっては、長年自分にまとわりついていた煩わしい婚約者が、あっさりと身を引いたことが理解できないのだろう。
プライドの高い彼のことだ。
自分から切り捨てるならともかく、相手から願い下げられたという事実に、かすかな不満を抱いているのかもしれない。
しかし、レティシアにとってそんなことはどうでもよかった。
(これで、ようやく自由になれる)
王宮の重苦しい空気を背に、彼女は足早に廊下を進む。
磨き上げられた大理石の床を叩くヒールの音が、抑えきれない高揚感を刻んでいた。
乙女ゲーム『光の導きと五つの王冠』の世界に転生していると気づいたのは、つい半年前のことだ。
自分が、ヒロインをいじめ抜いた末に国外追放される悪役令嬢レティシアであると理解した瞬間は、確かに血の気が引いた。
しかし、記憶が整理されるにつれ、恐怖よりも別の感情が勝った。
この世界には、彼がいる。
ゲームの中で、レティシアが画面越しに狂おしいほどの情熱を捧げた最推しのキャラクター。
王国最強の魔力を持ちながら、その強大すぎる力ゆえに周囲から化け物と恐れられ、北の辺境に追いやられている若き公爵、ユリアン。
本来のシナリオでは、彼はヒロインの攻略対象の一人であり、心を閉ざした氷の貴公子として登場する。
だが、ヒロインと結ばれるルート以外では、彼は孤独なまま命を落とすか、狂気に呑まれて破滅する運命にあった。
(そんな結末、絶対に許さない)
王宮の門を抜け、待たせていた馬車に乗り込む。
「北の、辺境公爵邸へ」
御者に告げる声が、かすかに上ずっていた。
車輪が石畳を転がる振動が全身に伝わる。
セドリックとの婚約は、ユリアンに近づくための最大の障害だった。
王太子の婚約者という身分では、辺境に引きこもる公爵と関わりを持つ理由すら作れない。
だからこそ、レティシアは自ら盤面をひっくり返した。
断罪のイベントを待たず、王家との縁を断ち切ることで、自由な手札を手に入れた。
窓の外を流れる王都の景色が、次第に冷ややかな空気へと変わっていく。
北へ向かうにつれ、季節外れの冷たい風が馬車の隙間から忍び込んできた。
ユリアンの持つ、規格外の氷属性の魔力。
その余波が、領地の気候すら変質させているのだと噂に聞いたことがある。
馬車が巨大な鉄格子の門を抜け、凍てつくような静寂に包まれた屋敷に到着した。
石造りの荘厳な館は、まるで主の心を映すように冷たい威容を誇っている。
出迎えた老齢の執事の案内で、レティシアは応接室に足を踏み入れた。
暖炉の火は燃えているはずなのに、室内は肌を刺すような冷気に満ちていた。
「王太子の元婚約者殿が、このような最果てに何の用だろうか」
声は、氷の底から響くように低く、ひどく冷たかった。
部屋の奥、影に沈むソファーから、ゆっくりと一つの人影が立ち上がる。
月明かりを溶かしたような銀色の髪。
そして、凍てつく湖面のような、鋭く美しい青の瞳。
ユリアンだった。
画面越しに何度も見た姿よりも、ずっと背が高く、肩幅も広い。
そして何より、彼から放たれる魔力の重圧は、呼吸すら苦しくなるほど圧倒的だった。
周囲の空気がかすかに凍りつき、パキリという硬質な音が鳴る。
威嚇。
明確な拒絶の意志が、空間そのものを支配していた。
普通の令嬢であれば、立っていることすらできずに逃げ出していただろう。
だが、レティシアは両手を胸の前で強く組み、その重圧を真っ直ぐに受け止めた。
(本物だ……!)
恐怖など微塵もなかった。
ただ、彼が今ここに生きて存在しているという事実に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
震えそうになる膝を叱咤し、レティシアは一歩、彼の方へ足を踏み出した。
「初めまして、ユリアン様。レティシアと申します」
ユリアンの眉が、かすかに動いた。
自分の魔力にあてられても倒れない令嬢など、初めて見たのだろう。
「用件を聞いている」
「単刀直入に申し上げます。私と、婚約していただけないでしょうか」
沈黙が降りた。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、不自然に大きく響く。
ユリアンは目を細め、値踏みするようにレティシアの全身に視線を這わせた。
「狂ったか? 王太子に捨てられた腹いせに、今度は化け物と名高いこの私に縋ろうというのか」
「捨てられたのではありません。私から解消いたしました。殿下との関係は、これからの私には不要なものでしたので」
「……何?」
「ユリアン様。あなたの持つ強大な魔力は、王家にとって常に脅威として映っています。だからこそ、あなたは辺境に封じ込められている」
レティシアは真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返す。
「私は元王太子の婚約者であり、公爵家の長女。私との婚約という事実があれば、王家もあなたを無碍には扱えなくなります。私はあなたに、政治的な『盾』を提供できる」
ユリアンは鼻で笑った。
「その対価として、貴女は何を求める? 王家への当てつけか? それとも、底なしの富か?」
「私が求めるのは、あなたのお側にいる権利だけです」
「……」
「それ以外には、何も望みません。私を、この屋敷に置いてください」
ユリアンは答えなかった。
ただ、探るような視線がレティシアの顔に突き刺さる。
嘘や計算を見透かそうとするような、ひどく冷徹な瞳。
しかし、レティシアの心にあるのは、隠しようのない純粋な熱意だけだった。
どれほどの時間が流れただろうか。
ふと、部屋を満たしていた凍てつくような魔力の圧が、わずかに緩んだ。
「……面白い」
ユリアンは低く呟き、ゆっくりとレティシアに近づいてきた。
長身が彼女を見下ろす。
至近距離で嗅ぐ彼の匂いは、雪のように透明で、どこか寂しげだった。
「その言葉、後悔しても遅いぞ」
「後悔など、決して致しませんわ」
レティシアが即座に答えると、ユリアンは初めて、かすかに口元を歪めた。
「ならば、契約を結ぼう。王太子の元婚約者殿」
彼の差し出した冷たい手が、レティシアの手に触れる。
その瞬間、レティシアの心臓は早鐘のように打ち鳴らされた。
盤面は、完全にひっくり返った。
ここから先は、誰にも邪魔させない。
(愛する最推しを、必ず幸せにしてみせる)
レティシアは、繋いだ彼の手を強く握り返した。




