番外編「氷の公爵の秘められた独占欲」
◇ユリアン視点
執務室の机には、領地の冬期物資調達に関する決裁書類が山積みになっている。
本来であれば、領民の生活に関わる重要な案件であり、真っ先に目を通すべきものだ。
だが、今の私の意識の九割は、部屋の片隅に置かれた長椅子で微睡むレティシアに向けられていた。
彼女の規則正しい寝息が、静寂の執務室にかすかなリズムを刻んでいる。
膝に掛けられた毛布から、柔らかな金色の髪がこぼれ落ちていた。
私はペンを置き、無音で立ち上がって彼女の元へ歩み寄った。
屈み込み、彼女の寝顔を至近距離から見つめる。
(なぜ、こんなにも無防備でいられるのか)
私の放つ魔力は、この屋敷の空気を常に氷点下近くまで冷やしている。
並の人間であれば、私と同じ空間にいるだけで震え上がり、まともに呼吸をすることすらできない。
それなのに、彼女は私の魔力を一切恐れず、むしろ心地よい冷気だとでも言うように、私の側で安らかに眠っているのだ。
彼女の無自覚な好意が、私の内奥にある飢餓感をどれほど煽っているか、この女は全く理解していない。
私が初めて彼女に出会った日、彼女は自ら王太子との婚約を破棄し、この最果ての辺境までやってきた。
最初は、王家が差し向けたスパイか、あるいは私を利用して王太子に当てつけをしようとしている愚かな令嬢だとばかり思っていた。
だが、彼女の瞳には、打算も恐怖もなかった。
ただ純粋な、狂信的とも言える熱意だけで、私という化け物に歩み寄ってきたのだ。
『私が求めるのは、あなたのお側にいる権利だけです』
その言葉を聞いた瞬間、私の内で何かが致命的に狂った。
これまで、私の強大な力は誰からも忌み嫌われ、私自身もまた、その力で他者を傷つけることを恐れてきた。
だからこそ、誰も近寄れないように自らを氷の壁で囲い、孤独の中で死んでいくことだけが、私に許された唯一の運命だと信じていたのだ。
だが、彼女はその氷の壁を、あっさりと素手で叩き壊してしまった。
私の凍てつく魔力を受け入れ、私の存在そのものを肯定した。
その瞬間から、私は彼女なしでは生きていけない身体になってしまったのだ。
(レティシア……)
彼女の頬に指先を伸ばそうとして、ふと手を止めた。
私の指は、常に氷のように冷たい。
彼女の温かな肌に触れれば、この安らかな眠りを妨げてしまうかもしれない。
自分の体温の低さを、これほどまでに呪わしく思ったことはなかった。
私は指を引っ込め、代わりに彼女のずり落ちた毛布をそっと掛け直した。
その時、彼女がかすかに身じろぎし、私の名をつぶやいた。
「……ユリアン、様」
夢の中でも私を呼んでいる。
その事実が、私の胸の奥で燻っていた独占欲に火を点けた。
彼女は、自分がどれほど私の理性を削り取っているか知らない。
学園での生活において、私がどれほどの殺意を周囲の男たちに向けていたか。
彼女に視線を向ける者、彼女の声を聴く者、彼女の存在を認識するすべての人間を、この世界から消し去ってしまいたいという衝動と、私は常に戦っていた。
王太子が彼女を取り戻そうと足掻いた時など、私は本気で王都を火の海……いや、氷の墓標に変えてやろうかとすら考えたのだ。
彼女がそれを望まないからこそ、私は辛うじて理性を保ち、水面下での工作という回りくどい手段を選んだに過ぎない。
「……お前は、罪深い女だ」
私は誰にも聞こえない声で呟き、彼女の髪に短く口付けた。
彼女が私を最推しなどという奇妙な言葉で呼び、無条件の愛情を注いでくれることは知っている。
だが、私の愛情は彼女のそれとは質が違う。
もっと重く、暗く、息苦しいほどの執着だ。
お前の視界に入るものは、すべて私が選び取る。
お前の耳に届く声は、私の声だけでいい。
お前の体温を感じられるのは、この世界で私ただ一人だ。
そんな歪んだ支配欲を、彼女は『過保護』という言葉で肯定し、喜んで受け入れている。
(ならば、もう二度と逃がさない。この雪に閉ざされた辺境で、お前を永遠に私の檻に閉じ込めてやる)
私は執務机に戻り、再びペンを執った。
彼女との結婚式の手配、王家との不可侵条約の最終調整、領地の防衛網の強化。
すべては、彼女との完璧な世界を構築するための作業だ。
窓の外では、季節外れの雪が降り始めている。
この雪がすべてを白く覆い隠し、私たちだけの世界を永遠に隔離してくれることを、私は強く望んでいた。




