第9話 野営の焚き火
森を抜けるまで、二日を要した。
街道からわずかに逸れた獣道を選んで進んでいるせいもあるが、それ以上に、結月の体力が予想以上に足を引っ張っていた。神社の手伝いで鍛えられていたつもりでも、慣れない山道を一日中歩き通すのは、まるで違う種類の疲労を伴う。
「もう少しだ。今夜はあの岩陰で休む」
レインが指し示した先には、大きな岩が庇のように張り出した場所があった。焚き火の跡らしきものも残っている。おそらく、旅人が休憩に使う場所なのだろう。
荷を下ろし、レインが手早く火を熾す間、結月は近くの小川で水を汲んだ。組紐を結んだ手首を水面に映しながら、村を出てからの数日を振り返る。
「疲れた顔してるね」
いつの間にか隣に来ていたノアが、水面を覗き込むようにして言った。結月は苦笑を返す。
「わかりやすい?」
「わかりやすいよ。でも、悪い疲れじゃなさそうだ」
結月は水筒に水を満たしながら、小さく頷いた。悪い疲れではない。むしろ、自分の足でここまで歩いてきたという事実が、不思議な充足感を伴っていた。
焚き火のそばに戻ると、レインが干し肉を炙っていた。パチパチと火の粉が爆ぜる音が、静かな森に響く。結月は焚き火の反対側に腰を下ろし、暖かさに息をついた。
「レインさん」
「何だ」
「聖堂騎士団だった、って言ってましたよね」
レインは干し肉を裏返しながら、ちらりとこちらを見た。表情に拒絶の色はない。結月はその様子に、少し勇気を出して続けた。
「どうして、辞めたんですか」
しばらくの沈黙があった。焚き火の爆ぜる音だけが、二人の間を埋めていく。レインはやがて、干し肉を皿代わりの葉に載せ、結月に差し出しながら口を開いた。
「五年前、俺は北方の国境沿いにある『門』の警護についていた」
「門……正規の境界の抜け道、ですよね」
「そうだ。白門教会が管理する、魔界エレボスとの正式な交易路。表向きは、貴重な鉱石や薬草を輸入するためのものだと聞かされていた」
レインは炎を見つめたまま、淡々と語り続けた。
「だがある夜、俺は警護中に、荷馬車の積み荷が違うことに気づいた。鉱石でも薬草でもない。人間だった。子供も交じっていた」
結月は息を呑んだ。
「連れてこられたのは、辺境の孤児院から『引き取られた』はずの子供たちだった。教会に献上される、という名目でな」
「それって……」
「魔界エレボス側の勢力と、教会上層部との間に、何らかの取引があるはずだ。詳細までは知らない。ただ、俺は上官に真相を問い質そうとして、逆に始末されかけた」
レインは自嘲するように、口の端を歪めた。
「逃げるので精一杯だった。それ以来、五年間、身分を隠して各地を渡り歩いている」
結月はしばらく言葉を発せなかった。ただの宗教組織だと思っていたものの奥に、そこまで深い闇が広がっているとは、想像もしていなかった。
「レインさんは、その子供たちを助けられなかったんですか」
問いかけた声が、自分でも思ったより硬くなった。レインは目を伏せ、小さく頷いた。
「助けられなかった。俺一人の力では、どうにもならなかった」
その言葉には、後悔と諦めが入り混じっていた。結月は膝の上で拳を握りしめた。
「わたし、その子たちのことは知らないけど……レインさんが今も、それを引きずってるのは、伝わります」
「引きずってる、か」
「はい。だから、わたしを助けてくれたんですよね。もう、目の前で誰かを見捨てたくないから」
レインは驚いたように目を見開き、それから静かに視線を逸らした。焚き火の炎に照らされた横顔に、初めて見る種類の柔らかさが浮かんでいる。
「……買いかぶりすぎだ」
「そうかな」
「そうだ」
結月は小さく笑った。会話はそこで途切れたが、気まずさはなかった。むしろ、これまでよりも少しだけ、二人の間の距離が縮まったような気がした。
「僕からも、話しておきたいことがある」
それまで黙って耳を傾けていたノアが、焚き火の脇から顔を出した。
「教会が子供を集めているという話、僕にも心当たりがある。三百年前の大崩壊戦争の後、境界を安定させるための『生贄』の風習が、密かに続いているという噂だ」
「生贄……」
結月の声が震えた。ノアは炎を見つめながら、静かに続ける。
「継ぎ手の乙女が命を懸けて縫い直した境界を、教会は都合よく利用し続けているのかもしれない。もしそれが本当なら――君の力は、その仕組みそのものを揺るがす存在になる」
結月は自分の両手を見つめた。傷を塞ぎ、柱を修繕した、あの温かな光の感触を思い出す。その力が、誰かの命を救うためでなく、誰かを踏みにじる仕組みを暴くためにも使えるのだとしたら。
「わたし、知りたいです。この世界で、本当は何が起きているのか」
結月の声には、迷いよりも、確かな決意が滲んでいた。レインとノアは、しばらく無言でその横顔を見つめていたが、やがてどちらからともなく、小さく頷いた。
焚き火の炎が、三者の影を岩肌に長く伸ばしていた。夜の森は静かで、けれど誰の胸の内にも、これから向かうべき道のかたちが、少しずつ形を成し始めていた。
第9話 了




