第10話 追手
森を抜けた三日目の朝、異変に気づいたのはノアだった。
「――止まって」
先を歩いていたノアが、不意に足を止めた。声色がこれまでと違う。結月は反射的に立ち止まり、レインも同時に腰の剣に手をかけた。
「どうした」
「後方、およそ半刻の距離。馬蹄の音が三つ。統制の取れた動きだ。ただの旅商人じゃない」
結月の胸に、冷たいものが走った。街道を外れて獣道を進んできたはずなのに、正確に追いつかれている。
「追跡術式か……面倒な」
レインが苦い顔で呟いた。
「魔石を使った痕跡追跡だ。柱を直したときの魔力、あるいはこの数日で使った小さな力の残滓を辿られている可能性がある」
「わたしのせい、ですか」
「お前のせいというより、力の使い方に慣れていないせいだ。今はそれを責めても仕方ない」
レインは短くそう言うと、周囲の地形を見渡した。開けた草原の先に、細い川が流れている。渡れば追跡は多少乱れるかもしれないが、根本的な解決にはならない。
「ノア、奴らの数と装備は」
「三騎。鎧の意匠からして、聖堂騎士団の下級隊員だろう。指揮官クラスではない」
「なら、まだ間に合う」
レインはそう言うと、結月に向き直った。
「川を渡って、東の丘まで走れ。俺が引きつける」
「――だめです」
結月は即座に首を振った。
「一人で三人相手にするつもりですか」
「下級隊員なら何とかなる」
「なりません。わたしも戦います」
レインは眉根を寄せたが、結月の目に宿る強さを見て、それ以上の反論を呑み込んだ。ちょうどそのとき、街道の向こうに土煙が上がり、白い甲冑を纏った騎兵の姿が見え始めた。
「見つかったか」
「――対応しなければ」
三騎の騎士が、まっすぐにこちらへ向かってくる。先頭の騎士が槍を構え、遠くから声を張り上げた。
「そこの女、教会の名の下に確保する! 抵抗すれば実力行使も辞さん!」
結月は息を吸い、両手を構えた。膝が震えているのがわかる。だが、逃げるという選択肢は、もう頭になかった。
「ノア、力を貸して」
「もちろん」
最初の騎士が槍を突き出した瞬間、結月は地面と空気の境目に意識を伸ばした。これまでの修行で培った感覚を頼りに、槍の穂先の軌道――その進む先の空間に、薄い膜を張る。
槍が膜に阻まれ、わずかに軌道を逸れた。その隙を突いて、レインが疾風のように踏み込み、騎士の脇腹を峰打ちで打ち抜く。騎士は短い呻き声を上げて落馬した。
「二人だ、注意しろ!」
残りの二騎が左右に散り、挟撃の構えを取る。結月は素早く視線を巡らせ、二人の騎士の間にある距離を測った。まだ、あの技術を実践で使ったことはない。だが、今しかない。
結月は右手を地面に、左手を宙にかざした。境界の輪郭を、無理やり手繰り寄せるように意識を集中させる。ノアが呼応するように、結月の周囲に淡い光の粒子を漂わせた。
「そこの空間と、あちらの空間――繋いで」
結月の視界の中で、右手の先にあった空間と、レインの後方数メートルの空間が、一瞬だけ歪んだ。小さな、扉のようなものが生まれる。
突進してきた騎士の一人が、その扉に足を踏み入れた瞬間、体ごと数メートル先――もう一人の騎士の目の前へと転送された。二人の騎士が驚愕の声を上げ、互いにぶつかりかける。
「今だ!」
レインがその隙を逃さず、二人の騎士の間合いに斬り込んだ。剣の腹で叩き伏せ、二人ともあっという間に地に伏せる。戦闘は、始まってからものの数十秒で決着していた。
結月はその場に膝をつき、荒い息を吐いた。頭の芯が痺れるような疲労感が押し寄せてくる。だが、今回は境獣のときほど消耗していない。制御を覚えたことの証だと、ぼんやりした頭の隅で理解した。
「今のは……」
「扉、だと思います。空間と空間を繋ぐ、境界を」
結月は震える声で答えた。ノアが満足げに、しかしどこか驚いたように尾を揺らす。
「まだ教えていない技術だ。よく咄嗟に成功させたね」
「必死だっただけです」
レインは倒れた騎士たちを縄で縛り上げながら、結月の方を振り返った。
「この様子だと、報告が入るのは時間の問題だ。ここからは、追われる速度が変わる」
「本格的に、狙われるってことですね」
「ああ」
レインは短く頷き、縛った騎士を街道脇の木陰に運んだ。結月は立ち上がり、震える両手を見つめた。境界を繋ぐ扉――今はまだ、咄嗟にしか使えない不安定な力だ。だが、確かに自分の中に、新しい可能性が芽生えている。
「行くぞ。次の町までは、まだ距離がある」
レインの声に、結月は頷いた。空はいつの間にか高く晴れ渡り、遠くの山の稜線がくっきりと浮かび上がっている。追われる身であることに変わりはない。それでも、結月の足取りには、これまでにはなかった確かな強さが宿り始めていた。
第10話 了




