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境界の乙女  作者: みぎみみ


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第8話 村を発つ夜

「出ていく、ということですか」


 結月の問いに、レインは黙って荷物を纏め始めた。狭い部屋の中、壁に立てかけていた剣を腰に佩き直し、床に広げていた外套を丁寧に畳んでいく。


「あの調査官は、また来ると言った。次に来たとき、今度こそお前の力に気づく」


「でも、村を守った柱の修繕が、村の人たちを危険にさらしてるなら――」


「柱はもう、正規の理由で説明がつく範囲だ。だが、お前がここに居続ければ、いずれ理由づけが追いつかなくなる」


 レインの声には、有無を言わせぬ響きがあった。結月は俯いて、両手を握りしめた。せっかく馴染み始めた村を、こんな形で離れることになるとは思っていなかった。


「わたしがいなくなれば、村は安全なんですか」


「少なくとも、教会の関心が向く理由は消える」


 結月はしばらく黙り込んだ。ミアの笑顔、井戸端で交わした片言のやり取り、少しずつ覚えてきた村人たちの顔。それらを思い浮かべると、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。


「……わかりました。出ていきます」


 その夜、日が沈んで村が寝静まった頃、結月はレインと共に村の外れへ向かった。荷物は最小限、村長から分けてもらった保存食と、水筒、それに使い古された外套が一枚。決して十分とは言えない支度だったが、これ以上長居すれば、村人たちに迷惑がかかる。


「ユヅキ」


 村の入り口で、聞き覚えのある小さな声がした。振り返ると、ミアが寝間着のまま、裸足で駆けてくるところだった。その腕には、丸くなったコハクが抱えられている。


 境獣に襲われた夜からこの数日、コハクはミアの家によく懐き、すっかり居着いていた。言葉の通じない結月とミアの間を取り持つように、いつも二人のそばに寄り添っていた猫だった。


「コハクも、一緒に来たの?」


 結月が声をかけると、コハクは腕の中から顔を上げ、小さく鳴いた。それから、ミアの胸に頭をすり寄せる。まるで、自分はここに残る、と告げているようだった。


 結月はしゃがみ込んで、コハクの頭をそっと撫でた。


「そう、あなたはミアと一緒にいるのね。……ありがとう、今まで」


 異世界に渡る境目をくぐり抜けたときから、ずっとそばにいてくれた猫だった。名残惜しさはあったが、この村に、この子を必要としてくれる子がいる。それでいいのだと、結月は思った。


「ミア……起きてたの?」


 言葉はまだ完全には通じない。だがミアは何かを察したのか、目に涙を浮かべながら、小さな包みを結月に押し付けた。開けてみると、中には手編みの組紐が入っていた。不揃いだが、色とりどりの糸が丁寧に編み込まれている。


「ありがとう」


 結月はしゃがみ込んで、ミアの頭を撫でた。ミアは何か言葉を発したが、結月にはまだ聞き取れない。それでも、その声色に込められた気持ちだけは、はっきりと伝わってきた。


「わたしも、忘れない」


 結月はミアの手を握り、それからゆっくりと立ち上がった。振り返らずに、レインの後を追う。振り返れば、決心が鈍る気がした。


 村を出て、月明かりの下の街道を歩き始める。二つの月――大きな白い月と、小さな緑の月が、並んで夜空にかかっていた。結月はふと足を止め、遠ざかっていく村の灯りを見つめた。


「後悔してるか」


 レインの声に、結月は首を振った。


「いいえ。ただ、これでよかったのかな、って」


「正解なんて、その場ではわからないものだ」


 レインは短くそう言うと、再び歩き出した。結月はミアからもらった組紐を、そっと手首に結びつけながら、その背中を追いかけた。


     *


 街道を歩き始めて数時間、空が白み始める頃、二人は小さな森の入り口で足を止めた。ノアが茂みから姿を現し、結月の足元に寄り添う。


「後をつけられている気配はない。今のところは」


 ノアの言葉に、レインが小さく頷いた。


「今のところは、な。奴らは執念深い」


「教会の追手って、そんなに怖いんですか」


「白門教会には、聖堂騎士団という直属の武力がある。異物狩りを専門にする部隊もな。並の兵士とは訳が違う」


 結月はその言葉に、背筋を伸ばした。あの白い外套の男は、あくまで調査官――前哨に過ぎないということだろう。本格的に狙われれば、もっと危険な相手が来る。


「レインさんも、元は……」


 言いかけて、結月は口をつぐんだ。柱を直したあの夜、教会の男がレインの剣を見て「見覚えがある」と言っていたことを思い出したからだ。踏み込んでいい話題なのか、迷いがあった。


 レインはしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。


「ああ。俺は元々、聖堂騎士団の一員だった」


 その告白に、結月は目を見開いた。ノアが何も言わずに、じっとレインを見つめている。


「詳しい話は、いずれする。今は、休める場所を探すのが先だ」


 レインはそう言って、話を切り上げた。結月はそれ以上尋ねることをせず、ただ小さく頷いた。無理に聞き出すことではない。いつか、レイン自身が話したいと思ったときに聞けばいい。


 朝日が森の梢の間から差し込み始める。結月は疲れた足を引きずりながらも、前を歩くレインの背中を見つめ続けた。この背中の向こうに、どんな過去があるのか。それを知る日が来るまで、自分にできることを積み重ねていこうと、結月は静かに心に決めた。


第8話 了


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