第7話 白い外套の男
境獣の一件から二日、サレイユ村の空気は目に見えて明るくなっていた。
「ユヅキ、これ持っていって」
井戸端で、あの日泣いていた女の子――名前はミアということが、ようやく聞き取れるようになった――が、焼きたてのパンを差し出してきた。結月は驚きながらも受け取り、たどたどしい発音で礼を言う。
「ありがとう」
ミアは笑って駆けていった。この数日で、結月に対する村人たちの態度は明らかに変わっていた。見慣れない異国の少女、というだけの存在だったのが、畑を守った「あの子」として、少しずつ受け入れられ始めている。
「調子に乗るなよ」
背後からレインの声がした。振り返ると、井戸端の陰から、いつもの仏頂面がこちらを見ている。
「調子になんて乗ってません」
「顔がにやけてる」
結月は思わず自分の頬に手をやった。レインは小さく息を吐き、村の入り口の方角に視線を向けた。その表情に、先ほどまでとは違う硬さが混じっているのに、結月は気づいた。
「どうかしましたか」
「……いや」
レインは言葉を濁したが、視線は入り口の方角から動かない。結月もつられてそちらを見た。丘の向こうから、一台の馬車がゆっくりと村に近づいてくるのが見える。荷馬車ではない、装飾の施された、明らかに公的な意匠の馬車だった。
「あれ、何の馬車ですか」
「教会の巡回車だ」
レインの声が、一段低くなった。結月の背筋に、冷たいものが走る。
「まさか、この間の……」
「わからん。だが、用心はしろ。俺の後ろにいて、余計なことは言うな」
馬車は村の広場で止まり、中から白い外套を纏った男が降り立った。年齢は四十前後だろうか、身なりは清潔に整えられているが、その目つきには村人を値踏みするような冷たさが滲んでいる。護衛らしき兵士が二人、馬車の脇に控えた。
「サレイユの村長はどちらに」
男の声は柔らかいが、有無を言わせぬ響きがあった。村長が慌てた様子で駆け寄り、深く頭を下げる。結月はレインの背後に隠れるようにして、その様子を窺った。
「この村の結界柱に、不自然な魔力の反応があったと報告を受けた。調査に来た」
男の言葉に、結月の心臓が跳ねた。柱を修繕したときに使った、あの光の膜――誰かが、それを感知していたのだ。
「不自然、と申しますと……」
「魔石の摩耗が、規定より早く進行している割に、境界の維持力が異様に安定している。誰かが手を加えたとしか考えられない」
男は懐から小さな水晶を取り出し、周囲にかざした。水晶がわずかに光を放つ。村長の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「い、いえ、我々にはそのような術に心当たりは……」
「隠し立ては、身のためにならんぞ」
男の視線が、村の中をゆっくりと巡っていく。結月は息を潜め、レインの外套の裾を軽く握った。心臓の音が、耳の奥で大きく響いている。
「――俺だ」
沈黙を破ったのは、レインだった。前に一歩踏み出し、男に向き直る。結月は驚いて顔を上げた。
「な……」
「境界術の心得がある。柱の劣化が急だったから、応急で手を入れた。それだけのことだ」
レインの声は落ち着いていたが、結月はその背中にわずかな緊張が走っているのを感じ取った。男はレインを頭から爪先まで眺め回し、疑わしげに目を細める。
「お前の名は」
「レイン。流れの傭兵だ」
「傭兵風情が、結界術式に手を出せるとはな」
男の視線が、ふとレインの腰に佩いた剣に向いた。その柄の意匠に、何かを認めたような、微かな変化が男の顔に浮かぶ。
「……その剣。見覚えがある」
レインの表情が、わずかに強張った。結月はその変化を見逃さなかった。何かを、隠している。
「気のせいだろう」
「そうか。まあいい」
男はそれ以上追及せず、懐に水晶をしまった。だが、去り際にちらりと結月の方に視線を投げる。値踏みするような、探るような一瞥だった。結月は思わず目を伏せた。
「この村には、また来る。異常があれば、すぐに報告するように」
男はそう言い残し、馬車に乗り込んだ。護衛の兵士たちも後に続き、馬車は来た道を戻っていく。村人たちが安堵の息を吐く中、結月とレインだけが、その場に張り詰めた空気を残していた。
「レインさん、今の……」
「話は家で」
レインは短くそう言うと、結月の返事を待たずに歩き出した。結月は小走りでその後を追いながら、先ほどの男の視線を思い返していた。
あの目は、ただの調査官の目ではなかった。何かを探し出し、決して見逃さないという、狩人の目だった。
自分の存在が、どこかで確実に、教会の網の端に触れてしまったのだと、結月は肌で感じ取っていた。丘の向こうに消えていく馬車を、結月はいつまでも見つめ続けた。
第7話 了




