第6話 綻びた畑
サレイユ村に不穏な空気が流れ始めたのは、それから五日後のことだった。
「今朝も三畝、やられていた」
村長の家に集まった大人たちの声を、結月は台所の隅で聞いていた。言葉の意味の半分ほどは、この数日でノアの助けを借りながら少しずつ覚え始めている。焦土のように荒らされた畑、夜のうちに現れる何か、増える被害。断片をつなぎ合わせるだけで、事態の深刻さは伝わってきた。
「境獣か」
レインが低い声で尋ねると、村長は険しい顔で頷いた。白髪交じりの髭を撫でながら、疲れの滲む声で答える。
「村の結界柱が、先月から調子が悪い。魔石の力が弱まっているようで、修繕を頼んでも、教会の術士が来るのは早くて半月先だと言われた」
「結界柱……」
結月は思わず呟いた。レインがちらりとこちらを見て、小声で説明を加える。
「村の四方に立てられた柱だ。中に魔石を埋め込んで、境獣が入り込まないように結界を張っている。魔石の力が切れれば、当然、境界は薄くなる」
その言葉に、結月の胸がざわついた。境界が薄くなる――祖母が言っていたのと、同じ現象がここでも起きている。
「わたし、見てみたいです。その柱」
結月がそう申し出ると、レインは眉をひそめた。
「目立つ真似はするなと言ったはずだ」
「でも、放っておいたら村の人たちが危ないんですよね。畑も荒らされてるし、このままだと」
「教会の目が――」
「教会の術士が半月来ないなら、その間に何人が怪我をするかわからない、ってことですよね」
結月の言葉に、レインは口をつぐんだ。その沈黙の間に、村長が困惑した様子でこちらを見ている。異国の少女が何を言っているのか、正確には理解できていないのだろう。だが、真剣な表情だけは伝わったようだった。
結局、レインは深いため息をひとつついてから、渋々といった様子で頷いた。
「……見るだけだ。何かするなら、必ず俺を通せ」
「はい」
結月は小さく頷き返した。内心では、初めて誰かの役に立てるかもしれないという高揚が、緊張の奥でちりちりと燃えていた。
*
村の北端に立つ結界柱は、思ったよりも古びていた。石造りの柱の頂点に、拳大の魔石が埋め込まれている。近づくと、結月にはその石が発する光が、明らかに弱々しく点滅しているのがわかった。
「ノア、これ」
小声で呼びかけると、足元の草陰からノアが姿を現した。周囲には結月とレイン以外、誰もいない。
「魔石の中の力そのものは、まだ残っている。ただ、石と柱――境界を作る術式と、その触媒との『繋ぎ目』が緩んでいるんだ」
「繋ぎ目が緩んでる、って直せる?」
「君の力なら、できるかもしれない。でも、無理に押し込もうとすると、逆に石が割れる」
ノアの言葉に、結月は柱に向き直った。手のひらを魔石にかざし、五日間の修行で覚えたやり方を思い出す。強く動かそうとしない。輪郭をなぞる程度で十分。
目を閉じ、意識を集中させる。柱と魔石、その境目に触れる感覚が、指先から伝わってきた。確かに、そこは緩んでいる。まるで結び目が解けかけた紐のように、境界の形が崩れかけていた。
「……見つけた」
結月は小さく呟き、意識をそっと押し出した。境目をなぞり、緩んだ結びを、ほんのわずかに締め直すようなイメージを描く。強すぎず、弱すぎず。ちょうど、祖母が注連縄を綯うときの手つきを思い出しながら。
魔石の点滅が、少しずつ安定していった。
「……お、おお」
レインが小さく驚きの声を漏らす。柱全体を薄い光の膜が包み込み、やがてその光は柱に吸い込まれるように消えていった。魔石は、先ほどまでの弱々しい光ではなく、落ち着いた輝きを取り戻している。
「できた……」
結月は膝に手をついて、荒い息を吐いた。境獣を止めたときほどではないが、それでも全身から力が抜けるような疲労感がある。
「上出来だ」
ノアが満足げに尾を振った。だが、その声に応えるように、結月の背後から低い唸り声が響いた。
振り返ると、畑の方角から、灰色の毛皮に黒い筋の入った獣が――境獣が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。柱の修繕中、周囲の境界が一時的に不安定になったのを、獣が嗅ぎつけたのかもしれない。
「結月、下がれ!」
レインが剣を抜き放ち、結月の前に躍り出た。獣との距離はあっという間に縮まる。だが結月は、下がる代わりに両手を構えた。
「レインさん、右から援護します」
「――は?」
レインが驚いた声を上げる間もなく、結月は境獣の進路を読み、その足元の地面と空気の境目に意識を伸ばした。完全な結界を張るほどの余力はない。だが、獣の足を一瞬だけ滑らせる程度なら。
地面がわずかに揺らぎ、境獣の前脚が空を切った。体勢を崩した獣に、レインの剣が的確に打ち込まれる。獣は短い断末魔を上げて、地に伏した。
静寂が戻る。結月は膝から崩れ落ちそうになるのを、辛うじて堪えた。
「無茶をするな」
レインが剣を鞘に納めながら、結月の隣にしゃがみ込んだ。声には怒りよりも、呆れと、それを上回るわずかな安堵が滲んでいた。
「でも、間に合いました」
「ああ、間に合った」
レインはそう言うと、結月の肩に軽く手を置いた。それだけの仕草だったが、結月にはその重みが、これまでとは違う何かを伝えているように感じられた。
畑の向こうから、異変に気づいた村人たちが駆けてくる足音が近づいてくる。結月は立ち上がり、乱れた息を整えながら、今の自分にできることの意味を、静かに噛みしめていた。
第6話 了




