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境界の乙女  作者: みぎみみ


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第5話 継ぎ手の乙女

「継ぎ手の乙女、って何ですか」


 結月は雛鳥をそっと女の子に返してから、村の外れ――ノアと名乗った銀色の狐がいる切り株まで足を運んだ。人目を避けるように、森の際まで移動してから、改めて向き合う。


「言葉のままだよ。世界の境目を縫い、綻びを継ぐ者。三百年前、大崩壊戦争を終わらせたと伝わる、たった一人の存在」


 ノアは前脚を揃えて座り、尾の先で地面をとんと叩いた。声は軽やかだが、語る内容には結月を圧倒するだけの重みがあった。


「大崩壊、戦争……」


「魔界エレボスと呼ばれる領域との境目が、大規模に乱れた時代の話さ。境目が崩れれば、あちらの魔物がこちらに溢れ出す。逆に、こちらの人間があちらに引きずり込まれることもある。三百年前は、その乱れが世界規模で起きた」


 結月は息を呑んだ。祖母の言っていた「境目が薄くなると、何かが紛れ込みやすくなる」という言葉が、頭の中で鮮明に蘇る。あれは決して大げさな言い伝えではなかったのだと、今さらながら実感した。


「当時の継ぎ手の乙女は、自分の力で世界中の綻びを縫い直して、戦争を終わらせた。けれど、その代償に彼女自身は――」


 ノアはそこで言葉を切った。青い瞳が、一瞬だけ遠くを見るように細められる。


「代償に、何?」


「今はまだ、話す時じゃない。君にはまだ早すぎる話だ」


 はぐらかされたことに、結月は小さな苛立ちを覚えた。だが、ノアの表情――狐の顔にどこまで表情と呼べるものがあるかは怪しいが、少なくともその瞳の揺らぎには、隠し事というより、何か配慮のようなものが滲んでいた。


「わたしが、その継ぎ手の乙女の生まれ変わりとか、そういうことですか」


「違う。生まれ変わりとか血筋とかいう話じゃない。継ぎ手の力は、そういう仕組みでは選ばれない」


「じゃあ、どうして」


 ノアは首を傾げるように小さく揺らした。


「境界に対して公正であろうとする心――それが、力を呼び覚ます条件だと僕は考えている。線を引くべきところに、きちんと線を引こうとする意志。曖昧なまま誤魔化さない性根」


 その言葉に、結月は思わず苦笑した。声の大きい方が正しいことになるのが嫌だと感じてきた、これまでの自分の性分と、あまりにも重なっていたからだ。


「わたし、境界だけに敏感な子供だったから」


「それでいい。それが君を選んだんだ」


 ノアはそう言って、切り株からひらりと飛び降りた。地面に降り立った拍子に、その足元にわずかな光の粒が散る。結月はその光景に見入った。


「今から、力の使い方の基本を教える。レインからは『力を使うな』と言われているんだろうけど――使い方を知らないまま抑え込む方が、よほど危ない」


「危ない、って?」


「境獣に襲われたとき、君は無意識に膜を張った。あれは君の中の力が、生存本能に従って暴走気味に発動した結果だ。制御を覚えなければ、次はもっと不安定な形で出てしまうかもしれない」


 結月はその言葉に、昨夜の記憶を思い返した。膜を保ち続けたときの、あの底なしの消耗感。あれが「制御された状態」ですらないというのなら、確かに恐ろしい話だった。


「わかりました。教えてください」


 結月がそう言うと、ノアは満足げに尾を振った。


「まず、両手を前に出して。そして、自分の周りにある『境目』を探すんだ。地面と空気の境目、光と影の境目、何でもいい」


 結月は言われるままに両手を前に出し、目を閉じた。最初は何も感じない。だが、意識を集中させていくうちに、足元の地面と、足の裏の感覚との間に、確かに「境」と呼べる感触があることに気づいた。


「感じたら、それをほんの少しだけ、ずらしてみて。強く動かそうとしなくていい。ただ、輪郭をなぞる程度で十分だ」


 結月は集中を保ったまま、地面と足裏の境目を、そっとなぞるようなイメージを描いた。すると、足の裏にちりっとした感触が走り、地面がわずかに柔らかくなったような錯覚を覚えた。


「……今、何か」


「うん、いい兆候だ。焦らなくていい。今日はそれだけで十分」


 目を開けると、ノアがどこか嬉しそうにこちらを見上げていた。結月は自分の手のひらを見つめる。まだ何も変わっていないように見えるが、確かに、自分の中に何か新しい感覚の芽が生まれた気がした。


「ノアは、これまでも……その、継ぎ手の乙女、と一緒にいたんですか」


「三百年前の彼女とも、共にいたよ。今の僕は、その頃よりずっと力を失っているけれどね」


 ノアの声に、初めてわずかな翳りが混じった。結月はそれ以上踏み込むことを躊躇い、話題を変えることにした。


「これから、どうすればいいんでしょうか」


「まずは基礎を身につけること。次に、教会の目を欺きながら、この世界での立ち位置を作ること。焦らず、一歩ずつでいい」


 ノアはそう言うと、結月の足元にすり寄り、体を擦り付けるようにした。温かい体温が、少しだけ結月の緊張をほぐしてくれる。


「大丈夫。君は一人じゃない」


 その言葉に、結月は初めて、この見知らぬ世界で小さな安堵を覚えた。二つの月が消えた空の下、白い太陽の光が森の隙間から差し込み、結月とノアの影を長く地面に伸ばしていた。


第5話 了


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