第4話 サレイユの朝
三日が経つ頃には、結月はレインの家の勝手にも少しずつ慣れ始めていた。
村サレイユは、王国の外れにある小さな集落だった。石造りの家々が緩やかな丘に沿って並び、村の中央には井戸を囲む広場がある。畑仕事に精を出す人々の姿は、結月が思い描いていた「異世界」のイメージよりも、ずっと生活の匂いが濃かった。
問題は、言葉だった。
「これは……何と言うんですか」
結月が井戸端で洗い物を手伝いながら、隣にいた老婆に木桶を指して尋ねる。老婆は不思議そうな顔をして、聞いたこともない単語を返した。結月にはその音の羅列が、意味を持った言葉としてまるで像を結ばない。
けれど不思議なことに、レインの言葉だけは、なぜか半分ほど理解できた。正確には、単語の意味はわからないのに、話の輪郭だけがぼんやりと伝わってくるという感覚だった。
「それは俺の言葉じゃなくて、お前の中の何かが働いているんだろうな」
朝食の席で、レインはそう言ってスプーンを置いた。木のテーブルには、麦の粥と干し肉が並んでいる。質素だが、身体には染み渡るような温かさがあった。
「わたしの中の、何か?」
「境獣の爪を素手で止めた力だ。あれは単なる防御の魔法じゃない。境界そのものに干渉する力――そう考えるのが筋が通る」
レインは淡々とした口調でそう続けた。表情の変化は少ないが、言葉の端々に、結月への警戒とは別種の緊張が滲んでいる。
「言葉と言葉の境、意味と音の境。お前はまだ無自覚に、そういうものに触れているのかもしれない」
「そんなこと、できるんですか、普通」
「普通はできない。だからこそ、聞かれたら面倒なことになる」
その一言に、結月はスプーンを持つ手を止めた。レインの目に、初めて見る種類の鋭さが宿っている。
「面倒なこと、って」
「この国には、白門教会という組織がある。表向きは各地の『門』――正規に境界を越えるための施設を管理している宗教団体だが、実態はもっと大きい。境界に関わる異常――お前のような存在を『異物』と呼んで、見つけ次第、確保するか、始末する」
「始末……」
結月の声が掠れた。レインはそれに頷きも否定もせず、ただ淡々と続けた。
「教会の目に留まれば、お前の意思など関係なく連れていかれる。良くて監禁、悪ければ、実験体だ」
「実験、体……」
背筋が冷たくなる。祖母が言っていた「境目が薄くなる」という言葉が、急に現実味を帯びて胸に迫ってきた。自分はもう、ただの高校生としてこの世界に立っているわけではないのだと、否応なく突きつけられた気がした。
「だから、当面は目立った真似をするな。境獣に襲われでもしない限り、力は使うな」
「……わかりました」
結月は俯いて頷いた。だが、内心では別の疑問がくすぶっていた。使うなと言われても、あの力の正体すら自分にはわかっていない。どうやって制御すればいいのかも、何が引き金になるのかも。
朝食を終えて外に出ると、村の空気はすっかり冷え込んでいた。二つの月はすでに沈み、白い太陽が丘の向こうから昇り始めている。結月は深く息を吸い込んだ。空気の匂いすら、故郷とは違う。
畑の方から、子供たちの声が響いてきた。数人の子供が、井戸端で何かを囲んでいる。結月がそちらに目をやると、輪の中心にいた小さな女の子が、しゃがみ込んで泣いているのが見えた。
「どうしたの?」
結月が近づくと、子供たちは一瞬警戒するように身を引いた。見慣れない旅人――しかも異国の顔立ちをした結月に、好奇と警戒の入り混じった視線を向けてくる。
女の子の足元には、小さな鳥の雛が横たわっていた。翼の一部が不自然な角度に折れている。子供たちの言葉はわからないが、状況は一目でわかった。
結月はしゃがみ込んで、雛にそっと手を伸ばした。触れる寸前、レインの「力を使うな」という声が頭をよぎる。だが、これくらいなら――そう思う自分と、迷う自分がせめぎ合った。
結局、結月は雛を両手で優しく包み込むようにして持ち上げただけだった。魔法は使わない。ただ、傷ついた小さな命を、そっと守るように。
女の子が涙目でこちらを見上げる。結月は自分の胸を指して、たどたどしく発音した。
「ユヅキ」
女の子は瞬きをして、それから小さな声で何かを呟いた。おそらく、自分の名前なのだろう。結月にはまだ聞き取れなかったが、その響きを頭の中で繰り返し、覚えようとした。
言葉が通じなくても、伝わるものはある。境目のこちらとあちらでも、それだけは変わらないのかもしれない。結月はそう思いながら、雛を抱えたまま立ち上がった。
そのとき、視界の隅で何かが動いた。
村の外れ、畑と森の境にある古い切り株の上に、小さな影が座っている。狐に似た輪郭をしていたが、毛並みは見たこともない銀色に光り、目だけが宝石のような深い青色をしていた。
結月と目が合うと、その影は人の言葉で――はっきりとした、聞き取れる言葉で――口を開いた。
「ようやく見つけた。ずいぶん探したんだよ、継ぎ手の乙女」
結月は雛を抱いたまま、その場に立ち尽くした。子供たちには、その影はまるで見えていないかのように、誰一人反応しない。結月にだけ聞こえる声、結月にだけ見える姿。
「……あなたは」
「僕はノア。境界に仕える者――と言えば、少しは信じてもらえるかな」
銀色の狐は、切り株の上でゆっくりと尾を揺らした。その目には、悪意はない。ただ、長い時を待ち続けた者だけが持つような、静かな期待の色が浮かんでいた。
第4話 了




