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境界の乙女  作者: みぎみみ


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第3話 名もない境界線

 茂みが割れて、姿を現したのは獣だった。


 体長は大型犬の倍ほどもあり、灰色の毛皮のあちこちに、まるでひび割れたガラスのような黒い筋が走っている。四肢は異様に長く、月明かりの下でも、その眼だけが赤黒く光っているのがわかった。


 結月は喉の奥で息を止めた。逃げなければ、と頭ではわかっている。だが足が動かない。獣と目が合った瞬間、体の奥から凍りつくような感覚が這い上がってきた。


 コハクが結月の足元で、毛を逆立てて低く唸る。


「……っ、来ないで」


 声が震えた。獣はゆっくりと頭を下げ、地を這うような姿勢を取った。飛びかかる前の構えだと、本能的に理解する。結月は後ずさろうとしたが、踵が木の根に引っかかり、体勢を崩した。


 その一瞬を、獣は見逃さなかった。


 地を蹴る音。結月は咄嗟に両腕を顔の前で交差させた。もうだめだ、と思う暇すらなかった。ただ、体の内側で何かが弾けるような感覚があった。


 目を開けると、獣の爪は、結月の体に届く寸前で止まっていた。


 いや、正確には――止められていた。結月と獣の間、ほんの数十センチのところに、薄い水面のような膜が張っている。夜の光を吸い込んで、淡く青白く発光するその膜に、獣の爪が食い込んだまま動かない。


「な……」


 結月は自分の両手を見た。指先が、その膜と同じ光を纏っている。理解が追いつかないまま、体は勝手に動いていた。両手を突き出すようにして、意識を膜そのものに向ける。


 ――ここまでは、こちら。そこから先は、あちら。


 なぜかそんな言葉が、頭の中に自然と浮かんだ。まるで最初からそう決まっていたかのように。膜はわずかに厚みを増し、獣の爪をじりじりと押し返し始める。


 獣が苛立たしげに咆哮した。膜越しに伝わる衝撃で、結月の腕が痺れる。それでも、両手を下ろすことができなかった。下ろせば、境界が消えてしまう。そんな確信だけがあった。


「はぁ……っ、はぁ……」


 息が上がる。全身から汗が噴き出し、視界の端が白くちらつき始めた。境界を保ち続けることが、想像以上に体力を削っていく。膜の厚みは、獣の爪の圧力とぎりぎり拮抗している状態だった。


 このままでは、保たない。


 そう悟った瞬間、横合いから鋭い風切り音が走った。


 一閃。銀色の光が獣の首筋を薙ぎ、獣は短い悲鳴とともに横倒しに崩れ落ちた。膜にかかっていた圧力が消え、結月は膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちる。


「――大丈夫か」


 低く落ち着いた声だった。結月が霞む視界を上げると、剣を提げた人影がこちらを見下ろしていた。長い外套を纏い、腰には使い込まれた鞘。月明かりに照らされたその顔は、まだ若い――結月と同世代というよりは、もう少し年上に見える青年のものだった。灰色がかった髪と、こちらを警戒するように細められた目が印象的だった。


「境獣に、素手で結界を張っただと……?」


 青年は独り言のように呟き、片膝をついて結月の顔を覗き込んだ。その視線は鋭いが、乱暴さは感じられない。むしろ、値踏みするような、慎重な色があった。


「お前、どこの者だ。こんな夜更けに、境獣の縄張りの真ん中で何をしている」


「わたし……」


 答えようとしたが、声が出なかった。全身から力が抜け、瞼が異様に重い。境界を保ち続けた反動が、今になって押し寄せてきているのだと、ぼんやりとした頭の隅で理解した。


「おい、しっかりしろ」


 青年の声が遠くなる。結月の視界の隅で、コハクが青年の足元にすり寄るのが見えた。まるで、この人物なら大丈夫だと訴えるように。


 結月の意識は、そこで途切れた。


     *


 次に目を覚ましたとき、結月は見知らぬ天井を見上げていた。


 木の梁がむき出しになった、簡素な造りの部屋だった。体には粗い布の毛布が掛けられている。窓の外はまだ薄暗く、遠くで鶏の鳴く声が聞こえた。


「……ここ、は」


 体を起こそうとして、全身の筋肉に鈍い痛みが走る。まるで一晩中走り続けた後のような疲労感だった。呻き声を漏らすと、部屋の隅の椅子に座っていた人影が動いた。


「起きたか」


 声の主は、昨夜結月を助けた青年だった。外套は脱いでいるが、腰の剣は変わらず携えている。テーブルの上には、湯気を立てる木のカップが置かれていた。


「あなたは……」


「レイン。それだけ覚えておけばいい」


 レインと名乗った青年は、椅子から立ち上がり、カップを結月の枕元に置いた。中身は薬草茶らしい、独特の香りがする。


「飲め。体力を消耗しているはずだ」


 結月は震える手でカップを受け取り、一口すすった。苦みの中に、わずかな甘さが混じっている。喉を通る温かさに、少しだけ意識がはっきりしてきた。


「わたし、あの獣に……」


「境獣だ。境界の乱れが濃い場所に湧く化け物のことを、こちらではそう呼ぶ」


 境界。その言葉に、結月は昨夜の記憶を反芻した。裏山の祠、揺らぐ空間、そしてコハクを追いかけて飛び込んだ、あの光の渦。


「あの……わたし、日本から来たんです。神社の裏山で、猫を追いかけていたら、急に……」


「日本?」


 レインは眉をひそめた。聞いたことのない地名だと、その表情がはっきりと語っている。結月は自分の言葉が、この世界では通じないのだと悟った。


「ここは、どこですか」


「エルミラ大陸、ヴェルダリア王国の外れ。この村の名はサレイユという」


 結月はその名前を頭の中で繰り返した。エルミラ。ヴェルダリア。サレイユ。どれも、聞いたことのない響きだった。膝の上で、毛布を握る手に力がこもる。


「わたし、帰れるんでしょうか」


 その問いに、レインはすぐには答えなかった。窓の外に視線をやり、しばらくの沈黙の後、静かに口を開く。


「わからない。だが、ひとつだけ確かなことがある」


「……何ですか」


「お前は昨夜、素手で境界を張った。境獣の爪を止めるほどの結界を、だ」


 レインの目が、まっすぐに結月を捉えた。値踏みするようなその視線には、昨夜と同じ警戒と、それ以上に隠しきれない緊張が滲んでいた。


「それがどういう意味を持つか、お前はまだ知らないんだろうな」


 結月は答えられなかった。ただ、自分の両手を見つめる。あの光の膜の感触は、まだ指先に残っている。あちらとこちらを分ける、あの境目の手触りが。


 窓の外で、夜明けの光が二つの月を薄れさせていく。見慣れない村の匂い、聞き慣れない言葉、そして自分の中に芽生えた、名前も知らない力。


 結月の異世界での日々は、その朝から静かに動き出していた。


第3話 了


※ 「はじまりの森で、拾われました。」

  という、少女が主人公の異世界冒険恋愛ものの投稿を開始しました。

  良ければ、一度お読みいただければ嬉しいです。

  https://kakuyomu.jp/works/2912051606207709228

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