第2話 月が翳る夜に
午後九時を過ぎた頃から、月は少しずつ欠けていった。
結月は縁側に座り、空を見上げていた。隣には汐里が立ち、手には古い鈴と、結月が今まで見たことのない形の御幣を持っている。柄の部分が二又に分かれていて、まるで小さな鳥居のような形をしていた。
「おばあちゃん、それは?」
「今夜だけ使うもの。長い年月食のときにしか出さないの」
汐里はそう言うと、境内の中央、ちょうど拝殿と裏山を結ぶ直線上に立った。月はすでに三分の一ほど欠け、地上に落ちる光の色が、心なしか赤みを帯び始めている。
「結月は境内で待っていて。裏山には近づかないでね」
「うん、わかった」
結月は素直に頷いたが、内心では落ち着かない気持ちを抱えていた。祖母の背中が、いつもよりずっと小さく、それでいて張り詰めて見えたからだ。
鈴の音が、静かな境内に響き始めた。汐里が唱える言葉は、結月の知らない古い言い回しで、意味までは聞き取れない。ただ、声のリズムだけが規則正しく続いていく。
月が半分以上欠けたとき、空気が変わった。
肌にまとわりつくような、じっとりとした感触。それでいて、耳鳴りにも似た高い音が、どこか遠くから聞こえてくる。結月は反射的に両耳を押さえたが、音は外からではなく、頭の中で鳴っているようだった。
「……っ」
目眩に似た感覚に、結月は縁側の柱に手をついた。視界の端――裏山へと続く小道の入り口が、ふっと歪んで見えた。空気そのものが、水面のように波打っている。
昼間、祠で見たのと同じ揺らぎだった。だが今度は、比べ物にならないほど大きい。
鈴の音が一段と強くなる。汐里の声も張り詰め、額には玉のような汗が浮かんでいた。結月はその横顔を見て、初めて祖母の「怖れ」を見た気がした。
そのとき、足元で悲鳴のような鳴き声が上がった。
「――コハク!」
雉猫が、境内の隅から一直線に裏山の小道へと駆けていく。結月は反射的に立ち上がった。
「結月、動かないで!」
汐里の声が飛んだが、遅かった。コハクは小道の入り口――あの揺らぎの中へと、迷いなく飛び込んでいく。結月は考えるより先に走り出していた。
「結月っ!」
背後で祖母の悲鳴に近い声が響いたが、振り返る余裕はなかった。木々の間を抜け、祠へと続く小道を駆け上がる。夜目に慣れた目に、木の根や石の位置は幼い頃から何度も通った道として刻まれている。だが今夜は、いつもと何かが違った。
空気が重い。足を踏み出すたびに、見えない水の中を歩いているような抵抗を感じる。
「コハク、どこ!」
叫んだ声が、やけに反響して聞こえた。結月は祠のある広場にたどり着いた。杉の大木の根元――昼間、注連縄を掛け替えたその場所に、コハクが座っていた。だが、その周囲の空間が、明らかにおかしい。
揺らぎは、もはや水面などという生易しいものではなかった。祠を中心に、円形にひび割れた空間が、薄闇の中でぼんやりと光を放っている。ひびの奥には、境内の景色とはまったく違う、見たこともない紫紺の空が覗いていた。
結月は息を呑んで立ち止まった。
「コハク、こっちにおいで」
声を抑えて呼びかける。だがコハクは動かない。むしろ、ひび割れの縁に体を寄せるようにして、じっと奥を見つめている。まるで何かに誘われているようだった。
「だめ、そっちに行っちゃ――」
結月が一歩踏み出した瞬間、ひびが大きく脈打った。空気を切り裂くような音がして、周囲の木々の葉が一斉に震える。コハクの体が、ふわりと宙に浮いた。
「コハク!」
結月は迷わず手を伸ばした。猫の体を抱きとめようとした指先が、毛並みに触れる寸前――視界が、真っ白に染まった。
*
後で思い返せば、あのとき自分がどんな行動を取っていたのか、結月自身にもよくわからなかった。
ただ、覚えているのは、体が急速に軽くなる感覚と、それに反して肺の中の空気が押し出されるような圧迫感だった。まるで、水の中に頭から飛び込んだときのような。
遠くで、祖母の声が聞こえた気がした。
「結月っ――!」
その声を最後に、あらゆる音が消えた。
視界は白から、やがて深い藍色に変わり、無数の光の粒が周囲を流れていく。結月は自分の体がどちらを向いているのかすらわからなくなっていた。腕の中には、確かにコハクの温かい重みがある。それだけが、自分がまだ自分であることを繋ぎとめてくれている気がした。
――怖い。
初めて、はっきりとそう感じた。だが叫ぼうにも、声にならない。
どれくらいの間、その状態が続いたのかはわからない。一秒だったのか、一時間だったのか。やがて足の裏に、硬いものの感触が戻ってきた。
地面だ。
結月は膝から崩れ落ちるように、その場にへたり込んだ。腕の中のコハクが、もがくように身をよじって腕の外へ飛び出す。荒い呼吸を繰り返しながら、結月はゆっくりと顔を上げた。
目の前に広がっていたのは、見慣れた裏山の景色ではなかった。
夜空には、二つの月が浮かんでいる。ひとつは見慣れた白い月、もうひとつは、それよりも一回り小さく、淡い緑色の光を放つ月だった。周囲には、結月の知る杉とは違う、幹の白い木々が等間隔に並び、その隙間から、遠くにぼんやりと灯る町の明かりが見えた。
草の匂いも、風の感触も、確かに現実のものだった。だが、そのどれもが、結月の知る世界のものではない。
「……ここ、どこ」
声が震えた。振り返っても、見慣れた鳥居はどこにもない。祖母の声も、境内の明かりも、何もかもが消え失せていた。
コハクが、少し離れた場所で結月を見つめている。その目は、いつもの穏やかな猫のものではなく、どこか人間じみた、意志のある光を宿しているように見えた。
「コハク、なの……?」
問いかけに、猫はゆっくりと瞬きをした。答えるように鳴くことはなかったが、そのまなざしだけは、結月に何かを伝えようとしているようだった。
結月は震える手を地面につき、立ち上がろうとした。だが膝に力が入らない。深呼吸を繰り返しながら、自分に言い聞かせる。
落ち着け。まず、状況を把握しなければ。
そう思った矢先、遠くの茂みが不自然に揺れた。何かが、こちらに近づいてくる気配がする。結月は息を殺し、コハクを抱き寄せるようにして、その方向をじっと見つめた。
二つの月の光が、揺れる茂みの向こうに、大きな影の輪郭を浮かび上がらせていく。
第2話 了




