第1話 境目を疎かにしてはいけない
境宮神社の鳥居は、街灯ひとつない坂道の途中に建っている。
朱色はとうに褪せて、木目に染み込んだ雨の跡が縞模様を作っていた。天野結月はその下をくぐるとき、いつも一瞬だけ息を止める癖がある。理由は自分でもよくわからない。ただ、くぐる前とくぐった後で、空気の粒が入れ替わるような感覚がするのだ。
境内を掃く箒の音が、朝の静けさに規則正しく響く。
「結月、そっちの落ち葉はそのままでいいよ。今日はまだ風が強いから」
祖母の声に、結月は箒を持つ手を止めた。振り返ると、祖母――天野汐里は、拝殿の階段に腰掛けて古い帳面をめくっていた。歳の割に背筋が伸びていて、白髪をひとつにまとめた横顔には、いつも凪いだ湖のような静けさがある。
「おばあちゃん、落ち葉くらい掃いても」
「いいから。今日は他に頼みたいことがあるの」
汐里はそう言うと、帳面を閉じて立ち上がった。膝が軋む小さな音がしたが、表情には出さない。結月はそれを見て、箒を境内の隅に立てかけた。
「頼みたいこと、って?」
「奥の祠の注連縄を、新しいものに替えてほしいの。今夜は皆既月食でしょう。あの祠だけは、月が翳る夜に必ず綯い直す決まりだから」
結月は瞬きをした。境宮神社には、代々受け継がれてきた小さな決まり事がいくつもある。井戸の蓋は、決して開けないこと。裏山の祠には陽が高いうちに参らないこと。そして、月が欠ける夜には、必ず何かしらの手入れをすること。
子供の頃はただの迷信だと思っていた。けれど高校生になった今も、結月はその決まりを一度も破ったことがない。破ってはいけないと、理屈より先に体が覚えている気がするからだ。
「今日の夜、部活の後でいい?」
「ええ。日が落ちる前には戻ってきてね。月食は九時過ぎからだから、時間はあるわ」
結月は頷いて、制服のリボンを結び直した。玄関先で靴を履きながら、ふと祖母の帳面が目に入る。古びた表紙には、達筆な字で「境」とだけ書かれていた。
「おばあちゃん、その帳面って何が書いてあるの」
汐里は一瞬だけ手を止めて、それから薄く笑った。
「境目の話。うちの神社が、なぜここに建っているかっていう話よ」
「境目?」
「そう。この世とあの世とか、こっちとあっちとか――そういう言い方をすると大げさに聞こえるけれど。要は、分かれているはずのものが、たまに混ざりそうになる場所があるの。うちの神社は、その境目がなるべく綺麗なままでいるように、ずっと手入れをしてきた家系なのよ」
結月は苦笑した。祖母の昔話はいつも半分本気で半分冗談めいていて、どこまで信じていいのかわからない。
「じゃあ私たちは、境目の掃除係ってこと」
「悪くない言い方ね」
汐里は帳面を胸に抱え、拝殿の奥へと戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、結月は少しだけ考えた。境目が綺麗なままでいるように――その言葉が、なぜか胸の底に小さく引っかかった。
*
学校でも、結月の日常はいつも通りだった。
「結月ってさ、なんでいつもそんな冷静なの」
昼休み、机を寄せて弁当を広げていた友人の佐伯茉莉が、唐揚げを頬張りながら聞いてきた。
「冷静かな」
「冷静だよ。この間だって、班分けで揉めてたとき、誰も味方しないような子の意見をちゃんと拾ってたじゃん」
結月は箸を止めて、少し考えた。
「揉めてたのは、声の大きい方が正しいことになりそうだったからかな。声の大きさと正しさは別だと思うから」
「はー、そういうとこ。普通、面倒だから黙るよ」
茉莉は呆れたように笑ったが、その目には呆れよりも親しみの色が濃かった。結月はそれ以上答えず、卵焼きに箸を伸ばす。
自分では意識していないが、結月には昔から「境目」に敏感なところがある。誰かと誰かの言い分の境目、正しさと不正の境目、優しさと甘やかしの境目。曖昧なまま流されるのが、どうしてもできない性分だった。
放課後、部活動――写真部の暗室作業を早めに切り上げて、結月は坂道を上った。西の空はまだ明るいが、東の端にはすでに藍色が滲み始めている。
境内に着くと、汐里が縁側で猫を撫でていた。神社に住み着いている雉猫で、名前は「コハク」という。誰が名付けたのかは、結月も知らない。
「ただいま。コハク、今日も元気だね」
コハクは結月の声に反応して、耳をぴくりと動かした。だが立ち上がりはしない。汐里の膝の上で、丸くなったまま目を細めている。
「注連縄の材料、社務所に用意してあるから。裏の祠まで持っていってくれる?」
「うん、任せて」
結月は社務所で藁束と新しい紙垂を受け取り、裏山へと続く小道を歩き出した。木々の間から差し込む夕陽が、地面に長い縞模様を落としている。祠は神社の敷地の一番奥、大きな杉の根元にひっそりと佇んでいた。
古い注連縄を外し、新しいものに掛け替える。手順は幼い頃から何度も見てきたので、迷うことはない。ただ、紙垂を結びながら、結月はふと妙な違和感を覚えた。
――静かすぎる。
いつもならどこかで鳴いている鳥の声も、虫の音も、今日はまったく聞こえない。まるで裏山全体が息を潜めているようだった。結月は結び目を確かめるように指で撫でてから、注連縄の中心をじっと見つめた。
わずかに、揺らいでいる。
視力の問題ではない。空気そのものが、そこだけ薄い水面のように波打っているように見えた。結月は目を擦り、もう一度祠に視線を戻す。揺らぎは消えていた。見間違いだろうか。
「気のせい、かな」
独り言をこぼして、結月は手を合わせた。作法通りに二礼二拍手一礼をしてから、踵を返す。だが最後にもう一度だけ振り返ったとき、祠の奥――杉の根元の暗がりに、コハクによく似た小さな影が座っているのに気づいた。
「コハク? どうしてこんなところに」
呼びかけても、影は動かない。目を凝らすと、それは確かに雉猫の輪郭をしていたが、どこか輪郭がぼやけて見える。まるで、輪郭線を薄い墨で滲ませたような。
結月が一歩近づいた瞬間、影はふっと搔き消えた。
風もないのに、杉の葉がざわりと鳴った。結月はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐き、社務所へと戻る足を速めた。祖母に話すべきかどうか、迷いながら。
*
「――というわけで、変なものを見た気がするの」
夕食の席で、結月は昼間の出来事を話した。汐里は箸を止め、しばらく黙って結月の顔を見つめていた。その沈黙の長さに、結月は自分の言葉が思ったより重く受け止められていることに気づく。
「祠の奥に、コハクに似た影があったのね」
「うん。でも、コハクはずっとおばあちゃんの膝の上にいたよね」
「ええ、いたわ」
汐里は箸を置き、湯呑みを両手で包んだ。目を伏せ、何かを思案するような間があってから、静かに口を開く。
「結月。今夜の月食、いつもより長く見えるのは知ってる?」
「え、そうなの」
「皆既の時間が、普段の倍近くあるらしいの。テレビでも言っていたわ」
結月は箸を止めた。祖母の声色が、いつもの穏やかさの中に、微かな緊張を孕んでいる気がしたからだ。
「今夜は、いつもより注意して過ごしてちょうだい。裏山には、九時を過ぎたら一人で近づかないで」
「……何かあるの?」
「はっきりとは、わからないの。ただ、うちの家系には言い伝えがあるとさっき話したでしょう。境目が綺麗なままでいるように手入れをする家系だって」
「うん」
「境目っていうのは、放っておくと、たまに薄くなることがあるの。長い月食の夜は、その薄くなる条件が揃いやすい。だから今夜だけは、いつも以上に注連縄や結界を大事にしないといけない」
結月は祖母の顔をじっと見た。冗談を言っている表情ではない。むしろ、今まで見たことがないほど真剣な顔をしている。
「境目が薄くなると、何が起きるの」
汐里はしばらく答えなかった。やがて湯呑みの中の茶を一口飲み、静かに言葉を継いだ。
「向こう側から、何かがこちら側に紛れ込みやすくなる。逆も、また同じ」
「逆?」
「こちら側から、向こう側へ――ということよ」
その一言の意味を、結月はすぐには理解できなかった。だが聞き返そうとしたとき、汐里は表情を緩め、いつもの穏やかな祖母の顔に戻ってしまった。
「難しい話はここまで。ご飯が冷めるわ」
「……うん」
結月は釈然としないまま箸を動かした。窓の外では、すでに夜の帳が下り始めている。東の空には、欠け始めた月がぼんやりと浮かんでいた。
食事を終え、皿を洗いながら、結月は昼間見た影のことを思い返していた。輪郭がぼやけていた、あの小さな猫のような影。境目が薄くなる、という祖母の言葉。ばらばらの断片が、頭の中で不穏な予感を組み立てていく。
縁側では、コハクが月の出ている方角をじっと見つめて、耳を伏せていた。普段は物怖じしない猫が、珍しく毛を逆立てている。
「コハク?」
結月が声をかけても、猫は振り向かなかった。ただ、低く喉を鳴らすような、唸り声とも呼べない音を漏らし続けている。
窓の外、月はゆっくりと欠けていく。今夜はまだ、何も起きていない。けれど結月の胸の奥では、注連縄を結んだときに見た、あの水面のような揺らぎの記憶が、消えずに残っていた。
第1話 了
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※ 「はじまりの森で、拾われました。」
という、少女が主人公の異世界冒険恋愛ものの投稿を開始しました。
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