第75話 最後の一針
結月は、レインの腕に抱かれたまま、震える手を、再び裂け目に向けた。
境界の縫い直しは、あと僅かなところまで進んでいた。だが、最後の部分――裂け目の最も深い、根の部分だけが、頑なに閉じることを拒んでいる。
「あと少し、なのに……」
結月の声が、掠れた。全身の力は、もはや限界に近づいていた。それでも、ここで止めるわけにはいかない。
「結月、俺の力も使え」
レインが、結月の手に、自分の手を重ねた。
「境界の力は、俺にはない。だが、俺の想いは、託せるはずだ」
結月は、その温もりに、目を見開いた。ノアも、二人の元に駆け寄り、自らの力を、結月へと注ぎ始めた。
「僕も、力を貸す。セレイアの代わりに、最後まで、見届けさせてくれ」
結月は、二人の想いを、確かに受け取った。だが、それだけでは、まだ足りない。裂け目の根の部分は、あまりにも深く、あまりにも頑なだった。
「みんな、聞こえますか」
結月は、荒野に集まる全ての人々に向けて、最後の力を振り絞り、声を張り上げた。
「あと少しで、終わります。だから、力を貸してください」
その声に応えるように、荒野のあちこちから、応答の声が響いた。
「もちろんだ!」
「頑張れ、境界の乙女!」
「あなたなら、できる!」
声は、次々と重なり合い、大きなうねりとなって、結月の元へと届いていった。ゼルギウスが、剣を掲げながら叫ぶ。
「オルクレインの誓いに懸けて、力を貸そう!」
結月は、その全ての想いを、確かに感じ取った。一人一人の声が、光の粒子となって、結月の周囲に集まり始める。セレイアが持てなかった、無数の繋がりが、今、結月を支えていた。
「これが、わたしの答え」
結月は、静かに、しかし確かな声で呟いた。裂け目の根の部分に、集まった全ての想いを、余すことなく注ぎ込む。
光が、爆発的に膨れ上がった。荒野全体が、眩いばかりの輝きに包まれる。結月の輪郭は、一瞬、完全に光の中に溶け込んだ。だが、それは、消滅ではなかった。
無数の人々の想いに支えられた輪郭は、しっかりと、その形を保ち続けていた。
裂け目の根の部分が、ゆっくりと、しかし確実に、閉じ始めた。魔界エレボスの景色が、少しずつ、遠ざかっていく。荒野に響いていた地鳴りが、次第に静まっていった。
「閉じて、いく……!」
ノアが、感極まったような声を上げた。結月は、最後の力を振り絞り、両手を、裂け目の縁に沿わせるように動かした。
最後の一針が、縫い留められる。
光の柱が、完全に消え去った。荒野に、これまでにない静けさが訪れる。結月は、力尽きたように、レインの腕の中に、崩れ落ちた。
「結月! 結月、大丈夫か!」
レインの声が、切迫していた。結月は、朦朧とする意識の中で、ゆっくりと目を開けた。
「レイン、さん……」
結月の声は、弱々しかった。だが、確かに、自分の名前を、自分の意志で、はっきりと口にすることができた。輪郭は、透けていない。しっかりと、この世界に、存在していた。
「わたし……戻ってこられた、んですね」
「ああ、戻ってきた」
レインの目に、涙が滲んでいた。結月は、その温もりに包まれながら、ゆっくりと、意識を手放していった。荒野の空に、二つの月が、ゆっくりと離れ始めているのが見えた。
ノアが、その傍らで、静かに目を細めていた。
「セレイア、見ていますか。今度は、独りにはさせません」
ノアの呟きは、誰にも届かないほど小さく、それでいて、確かな祈りのように、静まり返った荒野に、溶けていった。
第75話 了




