第74話 名前を呼ぶ声
結月の意識は、白と黒の狭間を、漂うように揺れていた。
自分が誰なのか、なぜここにいるのか。そうした感覚が、少しずつ、輪郭を失っていく。ただ、境界を縫うという行為だけが、遠い意識の中で、機械的に続けられていた。
(わたしは、誰だっけ)
そんな思考すら、次第に、形を保てなくなっていく。名前――そう、自分には、名前があったはずだ。だが、その響きすら、思い出せない。
「結月!」
どこかで、声がした。結月、という響きに、意識の奥で、微かな何かが反応した。だが、それが自分を指す言葉だという確信は、持てなかった。
「結月、俺の声が聞こえるか! 戻ってこい!」
声は、繰り返された。結月は、その声の主が誰なのか、思い出そうとした。だが、記憶は、霧の中に沈んでいくように、掴めない。
その時、意識の奥に、鮮明な映像が浮かび上がった。焚き火の前で、誰かが微笑んでいる。湖畔で、肩に頭を預けている自分。傷を負った誰かを、必死に癒そうとしている自分。
(これは、誰の記憶……)
映像が、次々と流れ込んでくる。神社の境内で、箒を持つ少女。祖母と呼ばれる人物の、穏やかな笑顔。ミアという名の女の子が、涙を浮かべながら渡してくれた組紐。
結月は、その記憶の一つ一つを、必死に手繰り寄せようとした。それが、自分自身の輪郭を形作る、大切な糸だと、本能的に理解していたからだ。
「結月……!」
声が、さらに近づいてきた。今度は、はっきりと、誰かの温もりが、伝わってくる。誰かの腕が、自分の体を、強く抱きしめている感覚。
「戻ってこい。お前は、天野結月だ。境界の乙女で、俺の――」
その声の続きは、途切れ途切れにしか聞こえなかった。それでも、結月の意識の奥深くで、何かが、強く反応した。
(天野、結月……わたしの、名前)
結月は、その名を、心の中で、静かに繰り返した。天野結月。境宮神社の一人娘。境界に敏感で、頑固で、誰かの痛みを見過ごせない少女。
その名前が、少しずつ、輪郭を取り戻していく。同時に、透けかけていた結月の体も、わずかに、実体を取り戻し始めた。
「まだ、消えるな……!」
レインの声が、はっきりと、耳に届いた。結月は、その声を頼りに、意識を、少しずつ、現実へと引き戻していった。
「フィオナ様も、ミアも、あの子供たちも、みんな、お前を待っている!」
ノアの声も、重なった。結月の脳裏に、次々と、大切な人々の顔が浮かび上がる。フィオナの真剣な眼差し、ミアの無邪気な笑顔、ガレスで助け出した子供たちの、生気を取り戻した表情。
「わたしは……天野、結月」
結月は、震える声で、その名を、はっきりと口にした。輪郭が、確かな速さで、戻っていく。だが、境界を縫う作業そのものは、まだ、完全には終わっていなかった。
「まだ……縫い切ってない」
結月は、朦朧とする意識の中で、最後の力を振り絞った。自分という存在を、しっかりと保ったまま、目の前の裂け目を、最後まで、縫い上げなければならない。
「レインさん、離さないでください」
「ああ、絶対に離さない」
レインの腕の中で、結月は、震える手を、再び裂け目に向けた。名前を、自分自身を、確かに保ったまま、最後の一針を、縫おうとしていた。
ノアの光が、結月の周囲に、さらに強く寄り添った。ゼルギウスの声も、荒野の向こうから、確かに届いていた。
「まだ終わっていないんだろう、境界の乙女! ここで倒れるな!」
多くの声が、結月の輪郭を、確かに支え続けていた。
第74話 了
※ 「はじまりの森で、拾われました。」
という、少女が主人公の異世界冒険恋愛ものの投稿を開始しました。
良ければ、一度お読みいただければ嬉しいです。
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