第73話 縫い直し
結月の両手が、裂け目の中心に触れた瞬間、これまでとは比較にならない激流のような感覚が、全身を貫いた。
「――っ!」
声にならない叫びが漏れる。目の前に広がる光景が、めまぐるしく変化していく。裂け目の奥、魔界エレボスの荒々しい景色と、こちら側の荒野の景色が、幾重にも重なり合いながら、結月の視界に流れ込んでくる。
「これが……境界そのものを、縫うということ」
結月は、必死に意識を保ちながら、これまでの修行で培った全ての技術を、この一点に集中させた。傷を癒す繊細さ、柱を修繕した丁寧さ、複数の境界を同時に扱う制御術、そして、セレイアから受け継いだ、大規模な結界を編む技法。
全てを、余すことなく注ぎ込む。
結月の手のひらから、これまでにない強さの光が溢れ出した。裂け目の縁が、少しずつ、しかし確かに、縫い合わされていく。魔物たちの侵入も、次第に勢いを失っていった。
「効いてる……!」
荒野で戦っていたゼルギウスが、その変化に気づき、声を上げた。だが、その代償は、結月の体に、容赦なく降りかかっていた。
指先が、透け始める。手のひらが、腕が、少しずつ、輪郭を失っていく。あの夜、レインを救おうとしたときよりも、遥かに速い速度で、結月の存在が、境界へと溶け込んでいく感覚があった。
「くっ……」
結月は、歯を食いしばった。恐怖が、体の奥から、じわじわと這い上がってくる。だが、ここで手を止めれば、これまでの全てが、無駄になってしまう。
――止めない。最後まで、縫い切る。
結月は、意識を、さらに深く沈めた。裂け目の奥、境界そのものの構造が、次第に、はっきりと見えてくる。三百年前、セレイアが最後に見たであろう景色が、今、結月の目の前に広がっていた。
『わたしは一人だ』
脳裏に、セレイアの日誌の一節が蘇る。だが、結月の耳には、それとは違う音が、確かに届いていた。
レインの荒い息遣い、ノアの小さな唸り声、遠く荒野で戦い続ける人々の叫び。三百年前の沈黙とは、まるで違う、賑やかで、生々しい気配だった。それら全てが、確かに、結月の輪郭を、支え続けていた。
「レイン、さん……」
結月の声が、震えた。意識が、少しずつ、朦朧としてくる。目の前の光景が、境界の向こうと、こちら側の狭間で、揺らめきながら混ざり合っていく。
「結月! 聞こえるか!」
レインの声が、遠くから響いた。結月は、その声に、必死にしがみついた。だが、力の奔流は、結月の意識そのものを、飲み込もうとしていた。
「まだ……終わらない……」
結月は、震える声で、そう繰り返した。裂け目は、少しずつ、しかし確実に、縫い合わされていく。だが、その進行と共に、結月の体は、これまでにない速さで、輪郭を失い始めていた。
誰かの叫び声が、遠く、遠く、聞こえていた。それが誰の声なのか、結月には、もう、はっきりとはわからなくなっていた。
それでも、意識の最も奥深い場所で、結月は、手を止めることだけは、決してしなかった。指先から伝わる感触だけを頼りに、境界を縫う作業を、機械的に、しかし確かに、続けていた。
第73話 了




