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境界の乙女  作者: みぎみみ


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第64話 追い詰められた男

 王都から遠く離れた、大陸南方の山中。人目を避けるように築かれた粗末な野営地で、カイエンは、一人、静かに佇んでいた。


 傷を負った腕は、変化した力によって、すでに修復されつつある。だが、その表情には、これまでの余裕は、もはや見受けられなかった。


「教会は、崩壊しつつある、か」


 カイエンは、届けられたばかりの報告書に目を通しながら、静かに呟いた。捜査の手が、教会の中枢に及び始めている。これまで積み上げてきた地位と権力の基盤が、音を立てて崩れ始めていた。


「大司教猊下、いかがなさいますか」


 側近の一人が、恐る恐る尋ねた。カイエンは、報告書を握り潰し、ゆっくりと立ち上がった。


「もはや、正規の手順に拘る意味はない。あの娘と、その一党のせいで、二十年をかけて築いてきたものが、根底から揺らいでいる」


 カイエンの声には、これまでにない、剥き出しの苛立ちが滲んでいた。


「触媒の蓄積は、どの程度だ」


「儀式全体の計画から見れば、三割ほどかと」


「三割、か」


 カイエンは、しばらく黙り込んだ。やがて、口の端に、これまでとは違う、狂気を帯びた笑みが浮かび始める。


「ならば、方法を変えよう」


「と、申しますと」


「本来の儀式は、境界を『開き、繋げる』ためのものだった。だが、それには、緻密な準備と、十分な触媒が必要だ」


 カイエンは、山の向こう――北東の方角を見つめた。


「もっと単純な方法がある。既に境界が最も脆くなっている場所――かつて大崩壊戦争の傷跡が残る、あの荒野の裂け目を、直接、強引にこじ開ける」


「あの土地は、セレイアが縫い直したはずでは」


「縫い直したのではない。彼女自身が、境界そのものとなって、綻びを塞ぎ止めているに過ぎない」


 カイエンの目に、狂気に近い執着の光が宿った。


「ならば、彼女ごと、その封をこじ開けてやればいい。中途半端に集めた触媒であっても、あの場所の脆さを利用すれば、十分な威力を発揮できるはずだ」


「しかし、それでは、境界が完全に暴走し、制御が――」


「制御など、もはや必要ない」


 カイエンは、側近の言葉を遮った。


「教会という組織を通じた支配は、もはや現実的ではなくなった。ならば、力そのもので、この世界を作り替える。魔界エレボスの軍勢を、無制限に、こちら側へと引き込む」


 側近は、その言葉の意味を理解し、顔面から血の気が引いた。それは、もはや支配などという次元の話ではない。世界そのものを、破滅させかねない行為だった。


「猊下、それは……」


「反対するなら、お前も触媒にしてやろうか」


 カイエンの冷たい一言に、側近は、震えながら口を噤んだ。カイエンは、傷の癒えかけた腕を確かめながら、静かに命じた。


「残っている触媒と戦力の全てを、北東の荒野へと移送しろ。今夜のうちに、出立する」


「はっ……」


 側近が、震える声で応じ、逃げるようにその場を去っていった。カイエンは、一人、夜空を見上げた。二つの月は、今や完全に重なり合い、大きな一つの闇として、空にその姿を留めていた。


「セレイア。お前が守り続けた場所を、今度こそ、完全に暴いてやろう」


 その呟きには、支配者の野望を超えた、狂気じみた執念が滲んでいた。破滅への道が、確実に、動き始めていた。


 側近が去った後の野営地に、カイエンの、乾いた笑い声だけが、静かに響いていた。もはや、彼を押し留められる者は、この場に、誰一人としていなかった。


第64話 了


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