第60話 盾になった男
ゼルギウスの剣が、祭壇の水晶まで、あと一歩に迫った。
だが、カイエンの反応は、結月たちの予想を上回るものだった。崩れかけた触手の残骸を足場にするように、カイエンは瞬時に体勢を立て直し、ゼルギウスの剣を、変化した腕で受け止める。
「予測していた通りの動きだ」
カイエンの声には、余裕すら滲んでいた。ゼルギウスの剣が、硬質化した腕に阻まれ、火花を散らす。
「くっ……!」
「甘いな、オルクレインの末裔よ」
カイエンが逆に腕を振るい、ゼルギウスを弾き飛ばした。体勢を崩したゼルギウスに向けて、鋭い爪が振り下ろされる。
「ゼルギウス!」
結月が叫んだ瞬間、横合いから飛び込んだ人影が、その一撃を、自らの剣で受け止めた。
「レインさん……!」
レインだった。だが、完全に防ぎきれず、爪の一部が、レインの胸元を深く切り裂いた。
「がっ……」
レインの体が、大きくよろめいた。血が、鮮やかに床に飛び散る。結月の視界が、一瞬、真っ白になった。
「レインさん!」
結月は我を忘れて駆け寄った。レインは倒れ込みながらも、辛うじて意識を保っていた。
「大丈夫だ……まだ、動ける」
「動けるわけ、ないじゃないですか!」
結月の声が、悲鳴に近い響きを帯びた。傷は深い。あの夜、街道で負った傷よりも、遥かに深刻だった。
「面白いものが見られた」
カイエンが、興味深そうに二人の様子を眺めていた。
「境界の乙女は、大切なものを守るためなら、自らの理性すら手放すか。実に、良い触媒になりそうだ」
結月は、その言葉を、ほとんど聞いていなかった。震える手を、レインの傷にかざす。傷と治癒の境界を、必死に手繰り寄せようとする。
「結月、無理は……」
「黙ってて、ください」
結月の声には、これまでにない切迫があった。傷が深すぎる。通常の力では、到底間に合わない。あの夜と、同じ状況だった。
「結月、待て――」
ノアの声が、遠くから聞こえた。だが、結月は、もう耳を貸せなかった。傷と治癒の境界の、さらに奥。生きていることと、死んでいることの境目に、再び、手を伸ばそうとする。
「これ以上、大切な人を、失いたくない」
結月の手のひらから、光が溢れ出した。だが、その光は、これまでとは違う、不安定な揺らぎを帯びていた。指先が、じわりと透け始める。
「結月、やめろ!」
レインが、震える手で、結月の腕を掴んだ。
「お前まで、失うわけにはいかない」
「でも……!」
「約束、しただろう。名前を呼べ、と」
レインの声は、弱々しいながらも、確かな強さを失っていなかった。結月は、涙の滲む目で、レインを見つめた。
周囲では、ゼルギウスがカイエンの猛攻を受け止めながら、必死に時間を稼いでいる。祭壇の光の糸は、再び強く輝きを増し始めていた。状況は、刻一刻と、悪化していく。
「レインさん、絶対に、離れないで」
結月は震える声でそう言うと、限界まで力を制御しながら、傷の治癒だけに、意識を集中させ直した。生と死の境界には、まだ触れない。それでも、今、自分にできる最大限の力を、絞り出す。
傷口が、ゆっくりと塞がっていく。完全ではないが、命に別状のない程度までは、回復が進んだ。結月は、その場に崩れ落ちるように、膝をついた。
「はぁ……っ、はぁ……」
「よくやった」
レインが、震える手で結月の頭を撫でた。だが、二人に休む間は与えられなかった。ゼルギウスの苦しげな叫びが、祭儀の間に響き渡る。
「これ以上は、持たない……!」
結月は、涙を拭う間もなく、震える足で立ち上がった。まだ、終わっていない。終わらせるわけには、いかなかった。
「レインさん、絶対に、無理しないでください」
「それは、こっちの台詞だ」
レインは、痛みを堪えながらも、小さく笑ってみせた。その気丈さに、結月は、涙をこらえながら、震える足で、祭壇の方角へと向き直った。
第60話 了




