第58話 偽りの境界
カイエンの体を、赤黒い光が包み始めた。
結月は息を呑んだ。人としての輪郭が、少しずつ歪んでいく。腕の一部が、まるで甲殻に覆われたように黒く硬質化し、背後には、透けるような膜状の翼らしきものが広がり始めていた。
「これは……人工の境獣と、同じ」
ノアが緊張した声で呟いた。カイエンは、自らの変化した腕を、興味深そうに眺めながら言った。
「魔界エレボスの素材を、直接、我が身に取り込む研究を続けてきた。境界を操るお前たちの力には及ばずとも、これに近いことは、私にも可能だ」
「偽物の力で、何をするつもりですか」
結月の問いに、カイエンは薄く笑った。
「偽物、か。だが、偽物であっても、本物と同じ結果をもたらせるなら、それ以上に何を望む」
カイエンが手をかざすと、床の魔法陣から、赤黒い触手のようなものが幾つも伸び上がった。結月は咄嗟に飛び退き、レインとゼルギウスも、それぞれ距離を取る。
「くそ、数が多い……!」
レインが触手の一本を斬り払いながら舌打ちした。だが、斬られた端から、新たな触手が生え変わるように伸びてくる。
「これも、境界を無理やり歪めた産物だ。自然の理を無視している分、脆さもあるはずだ」
ゼルギウスが冷静に分析しながら、剣を振るった。結月は、その言葉にヒントを得て、触手の一本に意識を集中させた。
確かに、そこには、自然な境界とは違う、無理やり縫い合わされたような、歪な繋ぎ目があった。だが、その歪さゆえに、通常の境獣よりも、力を注ぎ込んだときの反応が、はるかに大きい。
「――解けろ」
結月が触手の一本に境界の力を打ち込むと、それは一瞬で崩れ、灰のような粒子となって消えた。だが、カイエンが放つ触手の数は、結月一人が処理しきれる量ではなかった。
「甘いな」
カイエンの声と同時に、結月の背後から、新たな触手が迫った。咄嗟に防御の膜を張るが、これまでの敵とは比較にならない力で、膜が軋む。
「結月!」
レインが割り込み、触手を斬り払った。だが、その隙を突くように、カイエン自身が、驚くほどの速さで距離を詰めてきた。
「お前の力、近くで確かめさせてもらおう」
カイエンの腕――黒く硬質化した部分が、鋭い爪のように結月に迫った。結月は反射的に膜を張ったが、その爪は、これまでのどんな攻撃よりも、力強く膜を押し込んでくる。
「くっ……!」
膜が、悲鳴を上げるように軋んだ。結月は歯を食いしばり、全力で押し返そうとした。だが、拮抗は、明らかに結月の側が不利だった。
「面白い。境界を操る力そのものは、確かに本物のようだ」
カイエンは、まるで実験動物を観察するかのような目で、結月を見つめた。
「だが、まだ制御しきれていない。粗削りだ」
結月の膜が、ついに大きく歪んだ。爪の先端が、肩口に浅く食い込む。鋭い痛みが走り、結月は思わず声を上げた。
「結月から離れろ!」
ゼルギウスが割って入り、渾身の一撃を放った。カイエンはそれを、変化した腕で難なく受け止める。
「オルクレイン家の末裔が、裏切ったか。まあ、想定内だ」
カイエンは冷ややかに笑い、後方へと跳び退いた。距離を取ったカイエンの周囲に、再び触手が形成されていく。
「もう少し、遊んでやろう」
その言葉と共に、祭儀の間は、これまで以上の激しい戦いの渦へと、飲み込まれていった。結月は肩の傷に手を添えながら、荒い息を吐いた。傷を癒す余裕は、今はない。それでも、目の前で苦しむ子供たちのことを思えば、足を止めるわけにはいかなかった。
第58話 了




