第44話 セレイアの手記
記録庫の中は、外の荒廃ぶりからは想像もつかないほど、静かに時を止めていた。
壁一面に据えられた棚には、羊皮紙の巻物や、革表紙の書物が、整然と並べられている。埃は積もっているが、崩れ落ちてはいない。まるで、誰かが今も、この場所を守り続けているかのようだった。
「これだけの量……」
結月は棚を見上げ、思わず声を漏らした。三百年という歳月を挟んでもなお、これほどの記録が残されていることに、驚きを隠せなかった。
「セレイアは、記録を残すことに、人一倍こだわっていた」
ノアが棚の間を歩きながら、静かに語った。
「自分の力の使い方、代償の兆候、そして、自分が消えていく感覚――全てを、後に続く者のために書き残そうとしていた」
「後に続く者……つまり、わたしのために」
「そうかもしれない。彼女は、いつか自分と同じ力を持つ者が現れることを、どこかで予感していたんだと思う」
結月は棚の奥、ひときわ古びた一冊の手記に目を留めた。表紙には、色褪せた文字で「境界日誌」と記されている。震える手でそれを取り出し、ページをめくった。
最初のページには、たどたどしい、幼い筆跡でこう書かれていた。
『わたしの手から、光が出た。母は驚いていたけれど、わたしは、なんだか嬉しかった。この光が、誰かの役に立てばいいと思う』
「これ、セレイアさんが子供の頃に書いたものですか」
「ああ。彼女も、最初は君と同じように、ただの村娘だった。境界に対する感性が人一倍鋭かった、それだけの少女だ」
結月はページをめくり続けた。日誌は、時を追うごとに、少女の筆跡から、少しずつ大人びたものへと変わっていく。戦争の記録、村を失った悲しみ、そして、力を使うたびに増していく責任の重さ。
『今日、また一つの村を救った。人々は喜んでくれたけれど、わたしの中には、何か大切なものが少しずつ失われていくような気がする。誰にも、この感覚を、うまく説明できない』
結月はその一文に、胸が締め付けられる思いがした。自分がガレスやカルダンで感じてきた高揚と、その裏にある不安が、三百年前の少女の言葉と、まっすぐに重なっていく。
「レインさん、これ」
結月はページを指し示した。レインは肩越しに文字を追い、表情を険しくした。
『戦争が終わりに近づいている。わたしが縫うべき綻びは、あと一つだけ。だが、これまでで最も大きな綻びだ。おそらく、これを縫えば、わたしはもう、元の自分には戻れない』
「これが、最後の戦いの前の記録か」
レインの声が、低く沈んだ。結月はページをめくる手を、しばし止めた。この先に何が書かれているのか、読むのが怖い。それでも、目を逸らすわけにはいかなかった。
次のページには、これまでとは違う、乱れた筆跡で、短い言葉が綴られていた。
『怖い。でも、誰かがやらなければならない。世界中の誰かの大切な人が、これ以上、傷つかないために』
そして、その下に続く一文が、結月の目に、強く焼き付いた。
『わたしは一人だ。誰にも、この重さを分かち合ってもらえない。それでも、後悔はしない』
結月は、しばらく言葉を発せなかった。誰にも分かち合ってもらえない――その一文が、あまりにも重く、胸に突き刺さった。
「セレイアさんは、独りぼっちだったんですね」
結月の声が、微かに震えた。ノアは静かに頷いた。
「当時、彼女に力を貸そうとする者はいた。でも、代償そのものは、誰にも肩代わりできなかった。だから、最後の瞬間、彼女は本当の意味で、独りだった」
結月は日誌をそっと抱きしめた。自分には、レインがいる。ノアがいる。フィオナがいる。ミアや、助け出した子供たちがいる。セレイアが持てなかったものを、自分は確かに持っている。
「わたしは、独りにならない」
結月は静かに、しかし確かな声で呟いた。レインが、その肩に、そっと手を置いた。
「ああ。俺たちがいる限り、な」
蝋燭の炎が揺らめく記録庫の中、結月はセレイアの日誌を、大切に胸に抱きながら、この先に記された、力の本当の使い方――そして、代償を乗り越える手がかりを、さらに読み進めていった。
第44話 了




