第38話 カイエンという名
王都に戻った結月たちは、再びフィオナと合流した。今度の場所は、王都の外れにある教会跡地ではなく、フィオナが懇意にしているという貴族の屋敷の一室だった。
「大聖堂の地下に、密輸拠点……」
書類に目を通したフィオナの表情が、みるみる青ざめていった。
「これが本当なら、教会の腐敗は、わたしが思っていたよりもずっと深い」
「フィオナ様は、大司教カイエン様について、何かご存じですか」
結月が尋ねると、フィオナは深く息を吐いた。
「カイエン猊下は、二十年ほど前に、突然、教会の中枢に現れた人物よ。それまでの経歴は、ほとんど公にされていない」
「突然、ですか」
「ええ。当時の大司教が急死して、後任に選ばれたのがカイエン猊下だった。その選出過程にも、不透明な点が多いと聞いたことがあるわ」
フィオナは書類を机に置き、真剣な眼差しで結月を見つめた。
「わたしの独自の調査では、カイエン猊下は、三百年前の大崩壊戦争と、継ぎ手の乙女セレイアの記録に、異常なほど執着しているという噂がある」
結月の胸が、ざわりと騒いだ。ノアから聞いたセレイアの物語が、脳裏をよぎる。
「その執着が、この密輸や、あの人工の境獣に繋がっているんでしょうか」
「わたしも、そう考えている。おそらくカイエン猊下は、セレイアが行った境界を縫う力――その仕組みそのものを、自分の手で再現しようとしているんじゃないかしら」
「再現……」
「境界を縫うのではなく、逆に、意図的に大きく開く。魔界エレボスとの境界を、教会の完全な支配下で、恒久的に繋げるために」
結月の顔から、血の気が引いた。それが本当なら、これまで見てきた密輸も、子供たちの犠牲も、人工の境獣も、すべてはその野望のための布石に過ぎない。
「そんなことをして、何になるんですか」
「両世界にまたがる、絶対的な支配力よ」
フィオナの声が、重く沈んだ。
「魔界の資源、技術、そして戦力。それを独占できれば、王家すらも凌駕する力を、教会が――いいえ、カイエン猊下個人が、手にすることになる」
結月は拳を強く握りしめた。目の前が、次第に鮮明になっていく。子供たちの犠牲も、街を危険に晒す仕掛けも、すべてが、一人の男の野望のための道具に過ぎなかった。
「止めないと」
「ええ。でも、相手は教会という巨大な組織そのもの。わたし一人の力では、限界がある」
フィオナは疲れた様子で椅子に腰を下ろした。結月はその横顔を見つめながら、静かに口を開いた。
「フィオナ様、無理をなさらないでください。わたしたちも、できる限りのことをします」
「ありがとう。でも、わたしにも、王女としての役目がある。表舞台で戦うのは、わたしの仕事よ」
フィオナは気丈に微笑んだが、その目の奥には、隠しきれない不安が滲んでいた。結月はその不安を、しっかりと受け止めるように頷いた。
「わたしたちは、証拠を集め続けます。カイエンの野望を、確実に止めるための証拠を」
「頼りにしているわ」
窓の外、王都の空に、夕暮れの光が差し込んでいた。真実の全貌が、少しずつ、しかし確実に、姿を現し始めていた。それと同時に、乗り越えるべき壁の大きさもまた、はっきりと結月の前に立ちはだかろうとしていた。
第38話 了




