第36話 人工の境獣
湖畔での休息を終え、次の街へと向かう街道の途中、異変は前触れなく訪れた。
「――止まれ」
ノアが鋭い声を上げ、先頭を歩いていたレインが即座に足を止めた。結月も緊張しながら周囲を見渡す。街道の両脇に広がる森が、不自然なほど静まり返っていた。
「境獣の気配がする。だが、いつものものと違う」
ノアの声には、隠しきれない警戒があった。結月が意識を集中させると、確かに、これまで感じてきた境獣とは異質な気配が、森の奥から漂ってくるのがわかった。
「違う、って?」
「輪郭が、不自然に安定している。自然発生した境獣は、もっと歪で、脆いものだ。これは――まるで、人の手で組み上げられたような」
ノアの言葉が終わるより早く、森の中から、巨大な影が飛び出してきた。
体長は、これまで見たどの境獣よりも大きい。全身を覆う黒い甲殻には、精緻な魔法陣のような紋様が刻まれ、赤黒い光を放っている。目には、生物としての生気ではなく、機械的な光が宿っていた。
「なんですか、あれ……」
結月は思わず後ずさった。レインが剣を構えながら、険しい表情で唸る。
「人工の境獣だ。教会が、意図的に作り出したものだろう」
「そんなことができるんですか」
「魔界エレボスの素材を使えば、可能かもしれない。あの密輸品の中に、生体素材があったとしても不思議じゃない」
結月の背筋に、冷たいものが走った。密輸された素材が、こんな形で兵器に転用されているとは、想像もしていなかった。
巨獣が咆哮を上げ、地を這うように突進してくる。結月は咄嗟に防御の膜を張ったが、これまでの境獣とは比較にならない衝撃が伝わり、膜が大きく軋んだ。
「くっ……!」
「無理に受け止めるな、避けろ!」
レインの叫びに、結月は横に転がるようにして攻撃を躱した。巨獣の爪が、地面を大きく抉る。
「レインさん、あれ、普通の攻撃で倒せますか」
「わからん。甲殻が硬すぎる」
結月は歯を食いしばり、巨獣の輪郭を観察した。人工的に組み上げられたという言葉が、頭の中で引っかかっていた。もし本当に、術式で無理やり作られた存在なら――
「ノア、あれの『境目』、見える?」
「見える。だが、複雑に絡み合っていて、簡単には解けそうにない」
「時間を稼いでもらえますか」
結月の言葉に、レインは短く頷き、巨獣の注意を引くように前に躍り出た。剣の切っ先が甲殻を弾き、火花を散らす。
「今のうちに、何とかしてくれ!」
結月は両手を巨獣に向け、意識を極限まで研ぎ澄ませた。甲殻と、その内側に無理やり押し込められた「境獣としての形」の間にある、不自然な繋ぎ目を探る。
見つけた。まるで、無理やり縫い合わされた布のような、歪な境界線。
「――解けろ」
結月は全力で、その境界線をずらした。巨獣が甲高い悲鳴を上げ、体を大きく痙攣させる。甲殻の紋様が、次々と光を失っていった。
やがて巨獣は、崩れるようにその場に倒れ、動かなくなった。結月は膝から力が抜け、地面に座り込む。
「……終わった、みたいです」
「よくやった」
レインが結月の肩を支えながら、倒れた巨獣を見下ろした。その体は、光を失うと同時に、急速に輪郭を崩し、灰のような粒子となって消えていく。
「証拠すら残らないのか」
「これも、計算のうちなんでしょうね」
結月は苦い表情で呟いた。もし民家の近くでこの兵器が使われていたら、逃げ場のない被害が出ていたかもしれない。
「教会は、もうここまでの手段を使い始めている」
ノアの声に、深い懸念が滲んでいた。結月は震える手を握りしめ、灰となって消えていく巨獣の残骸を見つめ続けた。事態は、確実に、想像していた以上の速さで動き始めていた。
第36話 了




