第35話 静かな夜
教会の動きが鳴りを潜めた数日間、結月たちはカルダンを離れ、郊外の小さな湖畔で束の間の休息を取ることにした。
「こんなに静かな時間、久しぶりですね」
結月は湖面に足を浸しながら、夕暮れの空を見上げた。二つの月が、まだ薄い姿を見せ始めている。
「たまには必要だ。気を張り詰めっぱなしじゃ、いざという時に力が発揮できない」
レインは少し離れた岩の上に腰掛け、剣の手入れをしながら答えた。結月はその横顔を、湖面の揺らぎ越しに眺めた。
「レインさん、最近、よく笑うようになりましたよね」
「そうか?」
「はい。出会った頃は、もっと怖い顔してました」
結月がからかうように言うと、レインは気まずそうに視線を逸らした。
「お前が、危なっかしいことばかりするから、笑う余裕もなかっただけだ」
「今は余裕があるんですか」
「……多少はな」
結月は小さく笑い、湖面に映る自分の顔を見つめた。この数ヶ月で、ずいぶんと変わった気がする。表情も、纏う空気も。
「わたし、この世界に来る前は、自分の意見を言うのが、少し怖かったんです」
結月はぽつりと呟いた。レインは手を止め、こちらに視線を向ける。
「正しいと思うことでも、周りと違うと、浮いてしまうんじゃないかって。だから、なるべく波風立てないように、心の中でだけ判断してました」
「今は違うのか」
「はい。境界を守るためには、はっきり線を引かなきゃいけないことがあるって、この世界に来て、改めて気づかされました」
結月は膝を抱え、湖面の向こうに沈みゆく太陽を見つめた。
「レインさんが、そばにいてくれるからかもしれません。間違ったことをしたら、ちゃんと止めてくれるって、信じられるから」
その言葉に、レインはしばらく沈黙した。やがて、剣を鞘に納め、結月の隣に腰を下ろす。
「俺の方こそ、お前に助けられている」
「わたしが、ですか」
「五年前から、俺は自分を許せずにいた。子供たちを救えなかった自分を、ずっと責め続けていた」
レインの声は、静かだが、確かな重みを持っていた。
「お前と出会って、もう一度、誰かを救うために剣を振れるようになった。今の俺には、それがどれほど大きな救いか、お前にはわからないだろうな」
結月は湖面から目を離し、レインの横顔を見つめた。夕日に照らされたその表情には、これまで見たことのない、穏やかな柔らかさがあった。
「レインさん」
「何だ」
「これからも、そばにいてくれますか」
結月の声には、これまでにない素直さが滲んでいた。レインは少し驚いた顔をしたが、やがて静かに頷いた。
「ああ。お前が望む限り」
「約束、ですよ」
「子供みたいなことを言うんだな」
レインが、からかうように笑った。結月は、少しむくれた顔をしながらも、その笑い方が、これまでで一番、自然に見えることに気づいていた。
「笑うと、印象が変わりますね」
「そうか?」
「はい。もっと、笑えばいいのに」
結月がそう言うと、レインは、照れくさそうに視線を逸らした。だが、その口元には、まだ小さな笑みが残っていた。
二人の間に、心地よい沈黙が流れた。湖面に映る二つの月が、次第にはっきりとした輝きを増していく。結月は膝を抱えたまま、そっとレインの肩に頭を預けた。
「……こういうの、少し恥ずかしいですね」
「今更か」
レインの声に、からかうような響きが混じっていた。結月は小さく笑い、目を閉じた。戦いの合間の、ほんの短い静けさ。それでも、この瞬間が、これからの日々を支える確かな支えになる。そんな予感が、胸の奥に温かく広がっていた。
第35話 了




