第26話 セレイアの影
王都を離れ、しばらく身を隠すために選んだのは、街道から外れた森の奥にある、古い狩人小屋だった。
人目を避けての静かな数日、結月はノアに、ずっと聞きたかったことを尋ねる決心をした。
「ノア。セレイアさんのこと、話してもらえませんか」
焚き火の前で、ノアはしばらく黙り込んだ。長い沈黙の後、ようやく口を開く。
「……そうだね。今の君になら、話すべきかもしれない」
ノアは炎を見つめながら、静かに語り始めた。
「三百年前、大崩壊戦争の末期。世界中の境界が乱れ、いたるところから魔物が溢れ出していた。人々は絶望しかけていた」
「セレイアさんが、それを止めたんですよね」
「彼女は、当時の小さな辺境の村の生まれだった。今の君と、そう変わらない年齢だったと思う」
ノアの声に、懐かしさと、それ以上の痛みが滲んでいた。
「彼女は世界中の綻びを、たった一人で縫い続けた。仲間はいたが、力の代償だけは、誰にも肩代わりできなかった」
「代償、って」
「境界に強く干渉するたびに、彼女自身の輪郭が、少しずつ薄れていった。おそらく、あの地下施設で君の指先に起きたことも、その入り口に近いものだったんだと思う」
結月は自分の手を見つめた。指先が透けて見えた、あの一瞬の恐怖を思い出す。あれが、まだ入り口にすぎないのだとしたら――その先に、どれほどのものが待っているのか、想像するだけで背筋が冷えた。
「最後の綻び――世界最大の裂け目を縫うとき、彼女は自分の存在の全てを使い切った」
「消えて、しまったんですか」
ノアはゆっくりと首を振った。
「消えたわけじゃない。境界そのものになった、と言うべきかもしれない。彼女は今も、世界のあちこちの境目に、薄く、確かに存在し続けている」
結月はその言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。生きているのでも、死んでいるのでもない、そんな在り方があるのだろうか。
「それは……幸せなことなんでしょうか」
結月の問いに、ノアは長い沈黙で答えた。
「わからない。彼女に、意思を確かめる術はもうないから」
結月は、膝の上で拳を握りしめた。三百年という歳月、誰にも本当の意味を理解されないまま、境界そのものとして在り続ける。それがどれほど孤独なことか、想像するだけで、胸が締め付けられた。
「セレイアさんに、家族は」
「両親は、戦争の初期に、村ごと失っている。彼女が力に目覚めたのは、その直後だった」
ノアの声が、これまでになく重く沈んだ。
「守るべきものを、最初に、根こそぎ奪われた。それでも、彼女は、他の誰かの村を、同じ目に遭わせたくないと、戦い続けた」
「それは、まるで……」
結月は、言いかけて、言葉を止めた。境界に対する強い想い、誰かを守りたいという意志。自分自身の中にあるものと、あまりにも重なって見えたからだ。
「僕が、君にセレイアの話をしたのは、脅かすためじゃない」
ノアは、結月の視線に気づいたように、静かに続けた。
「彼女がどんな人物だったかを、正しく知ってほしかったんだ。ただの悲劇の主人公としてではなく、一人の、意志を持った少女として」
結月は、深く頷いた。焚き火の炎が、ぱちりと爆ぜた。結月は膝を抱え、遠くを見つめるノアの横顔を見つめた。
「わたしも、いつか同じように……」
「そうならないように、僕が力を貸している」
ノアの声には、確かな決意が宿っていた。
「セレイアのときは、彼女を支える者が少なすぎた。同じ轍を踏ませたくない」
結月はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。ふと視線を上げると、少し離れた場所で薪を割っていたレインが、こちらの会話を耳にしていたのか、手を止めてじっとこちらを見ていた。
「レインさんも、心配してくれてるんですね」
結月がそう言うと、レインは気まずそうに視線を逸らし、また薪割りを再開した。だが、その耳が、わずかに赤らんでいるのを、結月は見逃さなかった。
「わたし、一人じゃないから。だから、セレイアさんと同じ結末にはならないと、信じたいです」
結月の言葉に、ノアは静かに頷いた。
「その通りだと思う。少なくとも、僕はそう信じている」
夜が更けていく。焚き火の炎に照らされた三人――いや、レインを含めれば四人の影が、小屋の壁に長く伸びていた。過去の乙女の孤独な運命と、今の結月を取り巻く温かな繋がり。その違いが、結月の胸に、静かな覚悟を灯していた。
第26話 了




