第15話 次の一歩
崖の上で一晩を明かした後、結月とレインは人目を避けながら、リエンダから北へと向かう街道を歩いていた。
頬の傷は、結月自身の力で塞いだ。傷と治癒の境界をずらす――もっとも基本的な使い方だったが、それでも完全に消えるまでにはいかず、薄い線となって残っている。
「痕、残ったかもしれません」
「戦った証だ。恥じることじゃない」
レインの言葉に、結月は小さく苦笑した。頬に触れると、まだ引き攣るような感触がある。だが、この傷を負ってでも、九人の子供たちを助け出せたことに、後悔はなかった。
「あの子たちのその後、何かわかりますか」
「ノアが調べてくれている。今のところ、漁村で保護されたという情報だ」
結月の隣を歩いていたノアが、小さく頷いた。
「心配ない。あの村の長は、こういう事情に理解がある人物だ。子供たちは然るべき場所に届けられるだろう」
結月は安堵の息を吐いた。だが、その安堵も長くは続かなかった。街道の途中、立ち寄った小さな宿場町で、結月たちは思いがけない噂を耳にすることになる。
「聞いたか、リエンダの一件」
「ああ、教会が本気で色めき立ってるらしいぜ。異物を取り逃がしたとかで、あの『白の剣』様まで動くって話だ」
「白の剣……ゼルギウス様か。あの人が直々に出張るなんて、よっぽどのことだな」
結月は宿の食堂の隅で、その会話を聞きながら息を呑んだ。名前の響きに、何か重いものを感じたからだ。
「ゼルギウス、って」
結月が小声で尋ねると、レインの表情が目に見えて硬くなった。
「聖堂騎士団長。教会最強の実力者と言われている。俺が現役だった頃から、名前だけは轟いていた」
「強いんですか」
「並の隊長格とは、比較にならない。あの一件が本当なら、教会は本気でお前を捕らえにかかる」
結月は膝の上で拳を握りしめた。これまでの追手とは、明らかに格が違う相手が、自分に向かってくる。その事実の重さが、じわりと胸に沈んでいく。
「逃げ続けるだけじゃ、いずれ限界が来ますよね」
「……そうだな」
レインは短く答えた。結月はしばらく黙り込んだ後、顔を上げてレインを見つめた。
「わたし、決めました」
「何を」
「ただ逃げるだけじゃなくて、教会が何をしているのか、ちゃんと調べて、暴きたいです。子供たちを『荷物』みたいに扱う仕組みを、このままにしておきたくない」
結月の声には、迷いのない強さがあった。レインはしばらくその横顔を見つめ、それから小さく息を吐く。
「危険な道だぞ」
「わかってます。でも、逃げてるだけなら、また同じことが繰り返されるだけです。あの子たちみたいな子が、この先も」
その言葉に、レインは何も言い返さなかった。ただ、静かに頷いた。
「ノア、何か手がかりは」
結月が尋ねると、ノアはしばらく考え込むように目を伏せた。
「王都に、教会の内情に詳しい人物がいるという噂を聞いたことがある。ただし、簡単には近づけない相手だ」
「誰なんですか」
「ヴェルダリア王国の第二王女――フィオナ・ヴェルダリア。学者肌で、教会の閉鎖的な体質に、かねてから疑問を抱いているという話だ」
結月は目を見開いた。王女、という立場の重さに、一瞬たじろぐ。だが、それ以上に、道が見えてきたことへの高揚が勝った。
「王都に、行きましょう」
「簡単に言うが、王都は教会の監視も厳しい。下手をすれば、飛んで火に入る夏の虫だ」
「それでも、行くしかないと思います」
結月の決意に、レインはしばらく黙り込んだ後、諦めたように小さく笑った。
「お前は、本当に頑固だな」
「境目に対しては、譲れない性分なので」
結月がそう返すと、レインは初めて、声に出して小さく笑った。その笑い方に、結月は少し驚いた。出会ってから今まで、彼がこんな風に笑うのを見たことがなかったからだ。
「よし、決まりだ。王都へ向かう」
レインは立ち上がり、荷物を担ぎ直した。窓の外には、北へと続く街道が、朝靄の中にまっすぐに伸びている。結月もまた立ち上がり、その道を見つめた。
サレイユ村を発ってから、まだ二週間も経っていない。それでも、自分の中には確かな変化が芽生えていた。ただ守られるだけの存在から、自分の意志で道を選び取る者へ。
頬の傷に指先で触れながら、結月は静かに、けれど確かな足取りで、レインの後に続いた。二つの月が沈んだ空に、白い太陽が昇り始めていた。
第15話 了




