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君は、風に還る。  作者: 矢崎 那央
白蛇と薬師の赤子
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第六章 ー濁流のゆりかごー


雨は、森の色を変えていた。


さっきまで緑だった葉の群れが、今は黒く濡れている。

枝から枝へ落ちる水滴が、ばらばらの音を立て、足元の土は踏むたびに沈んだ。


飛鳥は、低く飛んでいた。


高く上がれば、風に煽られる。

低すぎれば、枝に翼を取られる。


だから、木々の隙間を縫うように、地面から少しだけ浮いた高さで進むしかなかった。

雨粒が頬に当たる。羽根の間に水が入り、翼の先がいつもより重い。


(雨で、見えにくい……)


視界の端で、赤い布が揺れた。


ミナがつけていった目印。

最初の一本、次の一本、その次。そこまでは、まだちゃんと枝に結ばれていた。


けれど、その先で、赤が途切れている。


飛鳥は翼を傾け、雨の向こうへ目を凝らした。


濡れた葉。

白く泡立つ細い流れ。

泥に沈みかけた石。

風で揺れる枝。


その中で、ひとつだけ、揺れ方のおかしい場所があった。


「……あそこ」


枝が、変に倒れている。

雨で折れたというより、何かがぶつかって、横から押し潰されたみたいに。


飛鳥は息を吸った。


「ロメラ! あっち、枝が変に倒れてる!」


下から、ロメラの声が返る。


「了解!」


ロメラは濡れた草むらを腕でかき分けながら、泥に足を取られそうになっていた。

それでも速度は落とさない。

背中のギターケースが雨を弾き、革のジャケットが重そうに肩へ張りついている。


その少し前を、ノーニャが走っていた。


いつもの跳ねるような軽さはない。

雨が匂いを押し流しているせいで、何度も立ち止まり、鼻を上げ、耳を伏せる。


「くそ……人の匂い、薄いにゃ……! 水でぐちゃぐちゃだ!」


「薬草は!?」


ロメラが叫ぶ。


ノーニャは一度、泥の上へ手をついた。

鼻を近づけ、雨で叩かれる草の匂いを吸い込む。


「……こっちだにゃ! 人の匂いは薄いけど、薬草の匂いが濃い!」


「アテになるんだな!?」


「あんまアテにすんなって言ったろ! でも、他にマシな匂いがねぇ!」


「つまりアテにするしかねぇってことだな!」


「そういうことにゃ!」


二人の声が雨に溶ける。


飛鳥は、枝の低いところを抜けようとして、翼の先を引っかけた。


「っ……!」


バランスが崩れる。

濡れた羽根が重く、体が横へ流れる。


地面が近づく。


その瞬間、ロメラの腕が伸びた。


「リンド!」


ぐい、と飛鳥の胴を支えるように引き上げられる。

足の爪先が泥を掠め、飛鳥はどうにかロメラの肩近くで体勢を戻した。


「だ、大丈夫……!」


「雨の日に鳥が無茶すんな!」


「でも、見なきゃ……!」


「見ろ! ただし落ちんな!」


「う、うん……!」


ロメラはそれだけ言うと、すぐ前を向き直った。

倒れかかった枝を片腕で押し上げ、邪魔な蔓を引きちぎる。


「ったく、子連れのママさんはロックに無茶しやがる!」


泥混じりの雨が、彼女の足元を跳ねた。


その後ろで、アクウェリーナが静かに尾鰭を揺らしていた。


雨粒が彼女の周囲だけ、少しだけ逸れていく。

空から落ちる水が、見えない薄い膜に当たり、横へ滑って流れていく。


その膜の内側に、ルウがいた。


ヤオの白い尾に包まれ、毛布の中で小さく眠っている。

アクウェリーナの水膜は、赤ん坊に雨が当たらないよう、まるで透明な傘のように揺れていた。


ヤオは、その中心で進んでいる。


上半身には毛布ごとのルウを抱え、白い蛇体は泥の上を滑る。

雨でぬかるんだ斜面でも、彼女の動きは乱れない。


ただ、尾の先だけが、ときおり地面に触れる。

土の下を探るように。

まだ見えない危険を、先に聞くように。


飛鳥は枝の上から、その姿を一瞬だけ見た。


小さな命を抱いたまま、白蛇が雨の森を進んでいる。

その光景は、怖いはずなのに、なぜかひどく頼もしかった。


「……飛鳥!」


ノーニャの声で、飛鳥は前を向く。


雨の向こう。

白い花が見えた。


斜面の下。倒れた木のそば。

濡れた草の中で、小さな白い花がいくつも開いている。


「月眠草……!」


ミナが探していた花だ。


けれど、その近くの土が崩れている。

茶色い泥が斜面から流れ、木の根を剥き出しにしていた。


そのさらに奥。

倒れた太い木の下に、薄い色の布が見えた。


飛鳥の喉が詰まる。


「いた……! ミナ、いた!」


ロメラが走る。


「場所は!?」


「白い花のそば! 倒木の下!」


ノーニャが先に飛び込む。


「見えたにゃ!」


その直後だった。


地面の奥から、低い音がした。


ご、と。

何か重いものが、まだ眠りながら動くような音。


ヤオの目が、鋭く細くなった。


「下がれ。地が、まだ動く」


全員の足が止まる。


次の瞬間、斜面の上から泥がずるりと滑った。

細い流れではない。濡れた土と小石と折れた枝が、まとめて押し寄せてくる。


飛鳥は翼を広げた。


「ロメラ、上!」


「っ!」


ロメラが飛び退くより早く、ヤオの白い尾が地面を打った。


どん、と鈍い音。


白蛇の尾が、斜面と彼女たちの間に横たわる。

巨大な白い壁のように、流れかけた泥を受け止めた。


泥が尾にぶつかり、左右へ割れる。

濁った水が飛沫になって散った。


アクウェリーナの尾鰭が強く鳴る。

水膜が広がり、ルウの周囲から飛んだ泥をそっと逸らす。


ヤオは眉ひとつ動かさなかった。


「進め。長くは持たぬ」


その声に、ロメラが歯を食いしばる。


「上等!」


彼女は泥を踏み越え、倒木のそばへ駆け寄った。


そこに、ミナがいた。


倒れた木の幹に片足を挟まれ、腰から下が泥に沈みかけている。

服は濡れ、髪は頬に張りついている。

けれど、彼女は泣いていなかった。


片手には、白い花の束。

雨に濡れてもなお、ほのかに甘く苦い匂いを放つ月眠草を、しっかり握っていた。


「ああ……よかった。みんな、来てくれたのねぇ」


ロメラの顔が引きつる。


「よかった、じゃねぇよ! 足、大丈夫か!?」


「たぶん、折れてはいないと思うの。でも、抜けなくて……」


「で、その手はなんだ!」


ミナは、自分の手にある月眠草を見て、困ったように笑った。


「……お薬、見つけたの」


「自分の足より薬草かよ!」


ロメラの怒鳴り声が、雨に混じって弾けた。


ミナは少しだけ眉を下げる。

でも、その腕の中にはもう赤ん坊はいない。

代わりに、彼女の視線だけが、雨の向こうにいるルウを探していた。


「だって、あの子、今夜また熱が出るかもしれないもの」


その声は、ぽやぽやしていた。

いつものミナの声だった。


けれど、その奥にあるものは、全然ゆるくなかった。


ロメラは一瞬、言葉を失った。

それから、濡れた前髪を乱暴にかき上げる。


「……ったく。そういう無茶だけは、嫌いじゃねぇけどな」


ノーニャが倒木の周りへ滑り込む。


「足、見るにゃ! 変な方向に曲がってねぇか確認する!」


「お願い」


ミナは素直に頷く。


ノーニャは泥の隙間へ体を押し込み、倒木の下を覗いた。


「……足首が挟まってる。骨はたぶん大丈夫。でもこのまま持ち上げたら、皮持ってかれるにゃ!」


「ウェーリー!」


飛鳥が叫ぶ。


アクウェリーナが前へ出る。

尾鰭が雨水を集め、細い流れを作った。

泥の中へするりと水が入り込み、ミナの足の周りの土を洗い流していく。


濁った水が流れ、足首の形が見えた。


ロメラが倒木に手をかける。


「ノーニャ、位置!」


「もう少し右! そこ持ち上げたら足抜ける!」


「リンド、上見ろ! まだ来るか!?」


飛鳥は翼を打ち、低く舞い上がった。


雨で視界が滲む。

でも、斜面の上を見る。

木の根。剥がれた土。次に崩れそうな場所。


「左の根元、まだ危ない!」


「ヤオ!」


「見えておる」


ヤオの尾が、再び地面を打つ。

今度は流れを受けるのではなく、斜面の下に深く打ち込み、泥の進路そのものを変えた。


白い尾に当たった水と土が、右へ逸れていく。

ルウはその内側で眠ったまま、少しだけ口を動かした。


ヤオの腕が、毛布をきつく抱き直す。


「急げ」


その一言で、全員が動いた。


ロメラが倒木を持ち上げる。


「ぐ……ッ、重てぇ……!」


腕に力が入る。

革手袋が濡れ、木の皮が滑る。

それでも、幹がわずかに浮いた。


ノーニャがその隙間に身を入れる。


「今にゃ! ミナ、足引け!」


ミナが歯を食いしばる。

アクウェリーナの水が泥をさらに流す。

飛鳥は上から斜面を見張り、次に落ちてきそうな枝を見つけた。


「ロメラ、右上!」


「ちっ!」


ロメラは倒木を支えたまま、肩で枝を受け流した。

枝が泥の中へ落ちる。


「今だ!」


ノーニャが叫ぶ。


ミナの足が、ぬるりと泥から抜けた。


「抜けた!」


ロメラが倒木を横へ投げた。

どすん、と重い音がして、泥水が跳ねる。


ミナの体がぐらりと倒れかける。

飛鳥はとっさに降りたけれど、濡れた地面で足が滑った。


「っ……!」


また転びかけた飛鳥を、ロメラが片腕で受け止める。


「だから落ちんなって言っただろ!」


「ご、ごめん……!」


「謝るのはあと!」


アクウェリーナが水を引き、ミナの足首を洗う。

赤くなっている。けれど、大きく曲がってはいない。


ノーニャが鼻を近づける。


「血の匂い、少しだけ。深くはねぇにゃ」


ロメラは深く息を吐いた。


「……助かったな」


ミナは、泥だらけのまま、雨の向こうを見た。

その視線の先に、ヤオがいる。


白い尾の内側で、ルウが眠っていた。

アクウェリーナの水膜に守られて、濡れていない。

頬はまだ少し赤いけれど、ちゃんと、あたたかそうだった。


ミナの顔が、泣きそうに歪む。

でも、声はやっぱり、どこかぽやっとしていた。


「よかったぁ……ちゃんと、あったかい」


その一言で、飛鳥の胸がきゅっとした。


ミナは足を引きずりながら、ヤオの方へ少しだけ体を向ける。


「守ってくれて、ありがとう」


ヤオは、ルウを包む尾をほんの少しだけ締めた。

強くではなく、ずれないように。


「預かった命を、落とすわけにはいかぬ」


短い言葉だった。


けれど、その声には、雨の音よりも深いものがあった。

誰かに祈られ、願われ、すがられたものが、ずっと背負ってきた重さ。

そして今、ただひとりの赤ん坊を守るためにそこにいる静けさ。


飛鳥は、雨に濡れた翼を畳みながら、ヤオを見た。


白い蛇。

赤ん坊を抱いた、小さな少女。


その姿は、やっぱり少し遠い。

でも、もう遠いだけじゃなかった。


ロメラが、濡れた顔を拭って言った。


「よし。花もママさんも回収した。帰るぞ」


ノーニャが月眠草の束を見て、鼻を鳴らす。


「……薬草の匂い、やっぱ強いにゃ。雨の中でも分かる」


「それ、先に分かってくれりゃ楽だったんだけどな」


「雨が降ってから本気出す草が悪いにゃ!」


飛鳥は小さく笑いそうになって、すぐにミナの足を見た。


「……歩ける?」


「ゆっくりなら。ごめんなさいねぇ、心配かけて」


「心配したよ……」


声が少しだけ強くなった。

自分でも驚いて、飛鳥はすぐに翼の先を縮める。


でも、ミナは怒らなかった。


「うん。ごめんね」


そう言って、少しだけしゅんとした顔をする。


それがまた、どこかルウに似ていて。

飛鳥は、どう返していいか分からなくなった。


ロメラがミナを支える。


「説教は帰ってからだ。今は足元見ろ」


ヤオが尾をほどき、ルウをさらに雨から隠すように毛布を寄せた。

アクウェリーナの水膜が、帰り道の雨を少しだけ遠ざける。


飛鳥はもう一度、上を見た。


雨はまだ強い。

けれど、赤い布と、折れた枝と、帰る道は見えている。


「……こっち。戻れる」


飛鳥はそう言って、低く翼を広げた。


森の奥で、月眠草の白い花が雨に打たれながら揺れていた。

短い花の時間は、もうすぐ終わる。


けれど、その香りは、ミナの手の中で確かに残っていた。



——つづく

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