第七章 ー祈りではない名前ー
雨は、帰り道の途中で少しずつ弱まっていった。
葉を叩く音が、ざあざあという濁った音から、ぽつ、ぽつ、と枝先を落ちる音へ変わっていく。
泥の匂いはまだ濃い。濡れた草の青さと、月眠草の苦く甘い香りが混じって、森全体が眠る前の息を吐いているようだった。
飛鳥は低く飛びながら、何度も後ろを振り返った。
ロメラがミナの肩を支え、ノーニャが先を歩いて足場を確かめている。
アクウェリーナは水膜を保ったまま、ヤオのそばを静かに進んでいた。
その白い尾の内側で、ルウは毛布にくるまれたまま、まだ眠っている。
(……ちゃんと、戻れる)
赤い目印は雨に濡れ、枝に張りついていた。
それでも、帰る道を示すには十分だった。
飛鳥は翼を畳み、野営地の前へ降りる。
湿った土を鳥の足が掴んだ瞬間、少しだけ膝が揺れた。
「リンド、先に布!」
ロメラの声に、飛鳥ははっとする。
「う、うん……!」
飛鳥は住居跡へ駆け込み、乾いた布を足の指で引き寄せた。
翼の内側でそれを抱えるように支え、焚き火のそばへ運ぶ。
火は弱くなっていたけれど、炭の奥にまだ赤が残っている。
ノーニャがぶるぶると体を震わせ、雨粒を飛ばした。
「うげぇ……全身泥くせぇにゃ……」
「あとで洗え」
「イヤにゃ」
「拒否権あると思うなよ」
ロメラはそう言いながら、ミナを石の上へ座らせた。
ミナは濡れた髪を頬に貼りつけたまま、困ったように笑っている。
「ごめんなさいねぇ。私、患者さんになっちゃったわ」
「笑ってる場合か」
ロメラがしゃがみ込み、ミナの足元を見た。
「処置は?」
ミナは月眠草を片手で守ったまま、もう片方の手で腰袋を探った。
「ええと……まず、泥を落として。傷が深くないか見て……それから、こっちの緑の葉を少し潰して、布に塗って巻いてくれる?」
「自分で指示すんなら、ちゃんと起きてろよ」
「起きてるわぁ」
「目が半分寝てんだよ」
アクウェリーナが尾鰭を泉に浸す。
澄んだ水が細い帯のように浮かび、ミナの足元へ流れていった。
泥が少しずつ洗い流されていく。
飛鳥は布を押さえた。
翼ではうまく力が入らないから、足の指で布の端をつまみ、ずれないようにそっと支える。
「……痛くない?」
「少しだけ。でも、大丈夫よぉ」
ミナはそう言って笑ったけれど、足首に水が触れた瞬間、肩がわずかに跳ねた。
飛鳥は、それを見逃さなかった。
「……ロメラ、ゆっくり」
「ああ」
ロメラは包帯代わりの布を受け取り、ぐるりと巻こうとして、すぐミナに止められた。
「あ、もう少し斜めにねぇ。強く巻きすぎると、あとで腫れた時に苦しいから」
「……注文多い患者だな」
「薬師だもの」
「じゃあ自分で巻け」
「今は患者だもの」
「都合よく職を使い分けんな」
ノーニャが濡れた石の上で、薬草をすり潰していた。
小さな手で石皿を押さえ、尻尾で雨粒を払っている。
「これ、どのくらい潰すにゃ?」
「繊維が見えなくなるくらい」
「注文多い患者だにゃ」
「薬師だもの」
「ロメラと同じ返しすんなにゃ!」
ミナがくすくす笑う。
その声に、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
ヤオは少し離れた場所で、ルウを見ていた。
白い尾の輪の中に毛布を敷き、その上にルウを寝かせている。
尾の一部は雨を避ける屋根のように持ち上がり、もう一方は地面に静かに触れていた。
まるで、森の揺れをまだ確かめているみたいに。
「……ルウは?」
ミナが足の処置をされながら、そちらへ目を向けた。
ヤオは短く答える。
「眠っておる」
「熱は……?」
「少しある。じゃが、息は乱れておらぬ」
ミナは、ほっと息を吐いた。
その息が終わるより早く、ロメラが布を結ぶ。
「よし。これでどうだ」
ミナは自分の足首を見て、ふわりと笑った。
「ちょっと不格好だけど、ちゃんと留まってるわぁ」
「うるせぇ。雑に強いのがロックだ」
「包帯は雑じゃない方がいいにゃ」
「そこは黙れ、Whiskers」
飛鳥は少しだけ笑って、翼の先で口元を隠した。
***
次は、月眠草だった。
ミナは濡れた花を一束、両手で包むように持ち上げた。
雨に打たれた白い花びらは少し閉じかけている。それでも、茎を折ると、青く苦い匂いの奥から、眠る前の布みたいな甘さがふわりと立った。
「これを少しだけ煎じるの。濃くしすぎないように……ルウには、ほんの少しでいいから」
「アンタは座ってろ」
ロメラが鍋を取りに立つ。
「でも、火加減が……」
「火なら昨日からオレの担当になったんだろ」
「ふふ、そうだったわねぇ」
ロメラは小鍋に水を入れ、火にかけた。
アクウェリーナが泉の水を足し、ノーニャがすり潰した葉を小さな木匙で入れる。
飛鳥は、月眠草の花を足の指でそっと摘んだ。
潰さないように。
ミナがするように、そっと。
「……これくらい?」
「うん。上手よ、飛鳥ちゃん」
その言葉に、飛鳥の足の指がほんの少しだけ止まる。
上手。
怖くないでも、珍しいでもなく。
ただ、上手。
飛鳥は小さく頷いて、花を鍋へ落とした。
白い花びらが湯に沈む。
しばらくすると、湯気が変わった。
苦い。
でも、どこか甘い。
森の雨が乾いていく匂いと、赤ん坊の寝息が混ざったような匂いだった。
ルウが、毛布の中で小さく身じろぎする。
ヤオの尾が、ほんの少しだけ動いた。
眠っている赤ん坊を揺らさないくらいの、細い動き。
ミナは薬が冷めるのを待ち、小さな匙でほんの少しだけすくった。
「ルウ。少しだけね」
ルウの唇に、薬が触れる。
最初は嫌そうに眉を寄せた。
けれど、ミナがゆっくり声をかけると、小さな口がそれを受け入れた。
「……飲んだ」
飛鳥は、思わず呟く。
ルウは二口目を飲み、三口目で少しだけ顔をしかめた。
それから、毛布の中へ小さく丸まる。
少し経つと、荒かった息が、ゆっくりになった。
ミナの肩から、力が抜ける。
「ああ……よかったぁ」
そのまま、彼女のまぶたが下がった。
「ミナ?」
飛鳥が声をかける。
ミナは、返事をする前にこくりと頭を揺らした。
ロメラがすかさず毛布を肩へかける。
「寝たな」
「寝たにゃ」
「患者のくせに、仕事終わったら即落ちかよ」
ロメラは呆れたように言いながらも、毛布の端をしっかり直した。
ヤオの尾の輪の中では、ルウも眠っていた。
月眠草の匂いが、雨上がりの空気に溶けていく。
***
夜になった。
雨は止んでいた。
木々の葉から、残った水滴がぽたり、ぽたりと落ちる。
湿った薪は、焚き火の中で小さくぱちぱち鳴っていた。
火は大きくない。けれど、濡れた夜を照らすには十分だった。
ミナとルウは、住居跡の奥で眠っている。
ロメラとノーニャは少し離れた場所で火の番をしていた。
ノーニャはまだ濡れた尻尾を気にしていて、ロメラに「あとで洗うぞ」と言われるたび、耳を伏せている。
アクウェリーナは泉のそばにいた。
尾鰭が水面をなぞるたび、雨で濁った水が静かに澄んでいく。
飛鳥は、焚き火の外れに座っていた。
少し離れた岩場に、ヤオがいる。
白い尾はゆるく巻かれていて、その上に、さっきまでルウが眠っていた毛布が置かれている。
もう赤ん坊はいないのに、ヤオはしばらく、その毛布を見ていた。
飛鳥は、足の指で濡れた小石をそっとつまんで、また地面に戻す。
聞いていいのか、分からなかった。
でも、昼間からずっと、胸の奥に残っているものがある。
薬師の女の人が言った、あの呼び方。
それを聞いたとき、止まった白い尾。
そして、今も残っているみたいな、静かな横顔。
飛鳥は、そっと声を出した。
「……ヤオ」
「なんじゃ」
ヤオは毛布から目を離さないまま答えた。
飛鳥は少しだけ迷ってから、翼の先を体に寄せた。
「あの人に……“ヤオちゃん”って呼ばれたとき。
ちょっとだけ、びっくりしてた……?」
焚き火が、ぱち、と鳴った。
ヤオはすぐには答えなかった。
葉から落ちる水滴の音。
泉の水音。
遠くでロメラがノーニャに何か言って、ノーニャが小さく文句を返す声。
その全部が、少し遠くなる。
「……そう見えたか」
「うん。ほんの少しだけ」
飛鳥は、ヤオの尾の先を見ていた。
今は動いていない。
けれど、あの時の一瞬を、飛鳥はまだ覚えている。
ヤオは、ゆっくりと目を伏せた。
「昔、そう呼ぶ者がおった」
飛鳥は瞬きをした。
「そう……なの?」
「言葉は違うがな」
ヤオの声は、いつもより少し低かった。
悲しいというより、雨のあとに地面へ残る湿り気みたいな声だった。
「 小幺、と」
「しゃお……やお……?」
飛鳥は、その音を小さく繰り返した。
口の中で転がすと、不思議な響きだった。
知らない言葉なのに、どこか丸くて、やわらかい。
ヤオは、白い尾の上の毛布へ視線を落としたまま言う。
「ワシの故郷の言葉でな。
そうじゃの……お主らの言葉にするなら、まさに“ヤオちゃん”じゃ」
飛鳥は、すぐには何も言えなかった。
ヤオちゃん。
薬師のミナが、何気なく呼んだ声。
それと同じ意味の響きが、ずっと昔にもあった。
「……その呼び方、やさしいね」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
ヤオは、少しだけまぶたを伏せる。
「祈りではなかったからの」
「祈り……」
「皆、ワシをパイシャと呼んだ。白蛇さま、ともな。
願う時も、恐れる時も、恨む時も……その名で呼んだ」
焚き火の明かりが、ヤオの白い髪の端を照らす。
その横顔は静かだった。
「雨を願う者。病を退けたい者。子が無事に育つよう祈る者。
人は、何かを抱えきれぬ時、見えぬものに名をつける」
飛鳥は黙って聞いていた。
「名を呼ばれることと、己を見られることは、同じではない」
その言葉が、雨上がりの空気の中に落ちる。
飛鳥は、自分の名前を思い出した。
九重に名前をもらった日のこと。
あのとき、ただの実験体でも、檻の中の異形でもなくなった気がした。
名前を呼ばれる。
自分として見られる。
それが、どれだけ大きいことか、飛鳥は少しだけ知っている。
ヤオは続けた。
「じゃが、ひとりだけ、小幺と呼ぶ者がおった。
供え物を置く時も、雨の日に香を焚く時も……まるで、そこに座る子に話しかけるようにな」
飛鳥は、ルウが眠っていた毛布を見る。
白い尾の上に残っている、小さな温もりの跡。
「……その人は、ヤオのこと……怖がってなかったの?」
「最初は怖がっておったよ」
ヤオは、ほんの少しだけ笑った。
「白い蛇など、怖がらぬ方が難しい。
じゃが、子供というものは妙でな。怖いものほど、近くで見たがる」
「……うん」
「最初は、供え物を置いて、逃げた。
次は、少し離れて座った。
その次は、香の煙がまっすぐ上がるかどうかを、ワシに聞いてきた」
ヤオの尾の先が、ゆるく動いた。
「答えたわけではない。答えられたのかも、今となっては怪しい。
それでも、あやつは勝手に話した。
今日は雨が嫌じゃの、だとか。母に叱られた、だとか。木の実を盗んだのは自分ではない、だとか」
飛鳥の口元が、少しだけ緩む。
「なんだか……普通の話だね」
「うむ。普通の話じゃった」
ヤオはそう言って、目を細めた。
「祈りでもなく、命令でもなく、願いでもない。
ただ、そこにおる者へ向ける声じゃ」
「でも……呼んでくれたんだ」
「うむ。呼んだ。祈りではなく、友としてな」
焚き火が、もう一度ぱちりと鳴った。
ヤオはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ声を落とす。
「じゃが、人は変わる。子は大人になる。
周りの目も、立場も、背負うものも増える」
飛鳥は何も言わなかった。
「いつしか、あやつもワシをパイシャと呼ぶようになった。
白蛇さま、と膝を折り、香を焚き、願いを置いて去っていくようになった」
ヤオの表情は変わらない。
けれど、白い尾が、石の上をほんの少しだけ擦った。
「……寂しかった?」
飛鳥の声は、小さかった。
ヤオはすぐには答えない。
「さてな。縁というのは、うつろうものじゃ。
人と人……まあ、ワシは人ではないが。なんであれ、同じ形では留まらぬ」
「……でも」
飛鳥は、そこで言葉を止めた。
上手く言えない。
踏み込みすぎている気もする。
でも、ヤオがさっきから毛布を見ている理由が、少しだけ分かった気がした。
ルウを守っていた尾。
ミナに礼を言われた声。
そして、忘れていたようで忘れていなかった、小幺という響き。
飛鳥は、翼の先をそっと胸元に寄せた。
「……あたし、名前をもらって……やっと、あたしになれた気がしたの」
ヤオが、飛鳥を見る。
「だから……その呼び方も、きっと、そういうものだったのかなって」
「さてな。あやつが何を思っていたかは、もう聞けぬ」
ヤオは静かに言った。
その尾が、わずかに動く。
石の上で、白い鱗が小さな音を立てた。
飛鳥には、それが寂しさに見えた。
答えを出してあげることはできない。
昔の誰かの気持ちも、戻ってこない呼び方も。
飛鳥には、何も決められない。
けれど。
「……でも、ヤオは覚えてる」
ヤオの瞳が、少しだけ開いた。
飛鳥は、ゆっくり続ける。
「なら……なくなってないよ」
風が、雨上がりの葉を揺らした。
ぽたり、と水滴が落ちる。
ヤオは、しばらく飛鳥を見つめていた。
それから、ふっと息を漏らす。
「お主は、不思議なところを突くのう」
飛鳥の頬が少し熱くなる。
「ご、ごめん……」
「謝ることではない」
ヤオは、静かに目を細めた。
その表情は、笑っているようにも、どこか遠くを見ているようにも見えた。
「呼び名とは、軽いようで、存外に重い。
お主が名を得て歩き出したように……ワシにも、そういう音があったというだけじゃ」
「……うん」
飛鳥は小さく頷いた。
そして、言わなかった。
その呼び方を、口にはしなかった。
まだ、自分のものにするには早い気がした。
今ここで呼べば、雨上がりの静けさが崩れてしまう気もした。
だから、飛鳥はただ、その響きを胸の中に置いた。
小幺。
しゃおやお。
祈りの名前じゃなくて。
怖がって遠くから呼ぶ声でもなくて。
ただ、そこにいる誰かへ向けた、やわらかい呼び方。
***
火が小さくなってきたころ、ロメラが遠くから声をかけた。
「リンド。そろそろ寝ろよ。明日もあるだろ」
「……うん」
飛鳥は立ち上がった。
濡れて乾きかけた羽根が、夜風に少しだけ揺れる。
ヤオは、白い尾をゆるく巻き直した。
その上に置かれた毛布を、尾の先でそっと押し、飛鳥の方へ寄せる。
「持っていくがよい。赤子には、もう別のを掛けてある」
「……ありがとう」
飛鳥は足の指で毛布の端をつまみ、翼の内側で支えた。
少しだけ、まだあたたかかった。
それがルウの温もりなのか。
ヤオの尾の温もりなのか。
どちらなのか、飛鳥には分からなかった。
「おやすみ、ヤオ」
飛鳥は、そう言った。
いつもの呼び方。
まだ、その呼び方。
ヤオは、ゆっくりと目を閉じる。
「うむ。よい夢を、飛鳥」
飛鳥は、息を止めるようにして瞬きをした。
風の娘、ではなく。
飛鳥、と。
たったそれだけなのに、胸の奥で、何かがそっと音を立てた。
「……うん」
飛鳥は小さく頷いて、テントの方へ戻った。
後ろで、白い尾が石を撫でる音がする。
泉のそばでは、アクウェリーナの尾鰭が水を整えている。
火の番をしているロメラが、ノーニャに毛布をかけようとして、逃げられかけている声も聞こえた。
雨上がりの夜風が、住居跡を通り抜ける。
飛鳥は、まだその呼び方を口にはしなかった。
けれど、雨上がりの夜風に混じって、
その響きだけが、いつまでも胸の奥であたたかく残っていた。
小幺。
ヤオちゃん。
いつか呼ぶかもしれない、やわらかい名前として。
——おしまい。




