第五章 ー白い花は雨を待つー
三日目の朝は、空が低かった。
雲が、森の上に厚く垂れ込めている。
まだ雨は落ちていない。けれど、葉の裏にはもう水の気配が溜まっていて、草の匂いも、昨日より少し濃くなっていた。
飛鳥は泉のそばで、翼の先についた朝露をそっと払った。
羽根の間に湿気が入り込んで、いつもより少しだけ重い。
「……降りそう」
そう呟くと、泉の中でアクウェリーナの尾鰭が、ゆるく水面を打った。
ぴと。
肯定するような音だった。
焚き火のそばでは、ミナが小さな布包みを開いていた。
そこには、昨日見せてもらった月眠草に似た葉の欠片と、乾いた根、それから小瓶が並んでいる。
彼女はいつものぽやぽやした顔でそれを見ていたけれど、今日は少しだけ、指先の動きが速かった。
「今日、咲くかもしれないわ」
その声に、ロメラが顔を上げた。
「昨日の“雨を待ってる”ってやつか?」
「うん。雨の前に香りが立って、雨が落ちるころに花が開くの。長くは咲かないけれど……今日なら、見つかるかもしれない」
ミナはそう言って、ルウの額に手を当てた。
ルウは毛布の上で、小さく息をしている。
眠ってはいるけれど、昨日より頬が少し赤かった。額に触れるミナの指が、ほんの少しだけ止まる。
「……少し、熱いね」
飛鳥が小さく言うと、ミナはにこりと笑った。
「大丈夫。高い熱じゃないわ。たぶん、昨日たくさん歩かせてしまったから」
けれど、その声の奥に、ほんの少しだけ別のものがあった。
焦り、というほど強くはない。
でも、母親の目だけが、ぽやぽやした言葉より少し早く、ルウの呼吸を追っている。
ノーニャが岩の上で耳を伏せた。
「だったら、今日は薬草探しどころじゃねぇんじゃないのかにゃ」
「でも、今日咲くかもしれないの。明日には香りが抜けちゃうかもしれないし……」
「なら全員で行けばいいだろ」
ロメラが言った。
「昨日みてぇに、リンドが上から見て、オレが草むら切って、Whiskersが鼻を使えば——」
「そのWhiskersを捜索犬みたいに数えるなにゃ」
ノーニャが文句を言う。
ミナは少しだけ考えてから、首を横に振った。
「ルウを連れて、森の奥までは行けないわ。今日は、ここで休ませたほうがいいと思うの」
「じゃあ、アンタも残れ」
ロメラが即答した。
ミナは、困ったように笑った。
「近くまで見てくるだけ。ほんとうに、ほんの少しだけ」
ロメラの眉間に、深い皺が寄った。
「その“ほんの少し”で迷うタイプだろ、アンタ」
「大丈夫。今日はちゃんと、木に目印をつけるから」
ミナは腰の小袋から、赤い布切れを取り出して見せた。
たしかに目立つ。
森の中でも、それなら見落としにくい。
ノーニャは疑いきった目で、それを見た。
「その目印を見失うに一票にゃ」
「お前に賭けるの癪だけど、オレも一票」
「まあ、ひどいわぁ」
ミナは笑った。
でも、ルウの額を撫でる指だけは、やっぱり少し急いでいた。
飛鳥は、何も言えなかった。
止めたい。
でも、ミナが探している草は、ルウだけのためじゃない。
村の誰かの夜を、少しだけ楽にする薬になる。昨日、彼女はそう言っていた。
それでも。
飛鳥の足の指が、湿った土を小さくつまむ。
「……すぐ、戻ってきてね」
やっと出た声は、それだけだった。
ミナはルウをそっと抱き上げ、頬に触れた。
眠っている赤ん坊の小さな口が、むにゃ、と動く。
「うん。いい子で待っててね」
それは、ルウに向けた声だった。
けれど飛鳥には、自分たちにも言っているように聞こえた。
ミナは小さな背負い袋を肩にかけると、赤い布切れを何枚か握り、森の方へ歩き出した。
「本当に、すぐ戻るから」
ロメラが腕を組む。
「そのセリフがもう信用ならねぇ」
「目印、ちゃんと右側につけるのよねぇ」
「自分で確認すんな!」
ノーニャの叫びを背中に受けながら、ミナは森へ入っていった。
草が揺れ、白い姿が木々の奥へ消える。
その後ろで、赤い布切れがひとつ、枝に結ばれた。
飛鳥は、それが風に揺れるのを、しばらく見ていた。
***
ミナがいない野営地は、少しだけ不思議だった。
昨日までは、赤ちゃんのことは全部、ミナが中心にいてくれた。
泣けば抱いて、眠れば布を直して、額に触れて、口元を拭って。
飛鳥たちはそれを手伝っているだけだった。
でも今は、ルウが目を覚ますたびに、誰かが先に動かなければならない。
最初に反応したのは、やっぱりヤオだった。
ルウが小さくぐずり始めると、白い尾が静かに動き、毛布の端を囲う。
アクウェリーナが泉から清水を寄せ、器の中で小さく揺らした。
ロメラは、ミナが残していった小瓶を手に取る。
「これ、飲ませるんだったよな?」
「うん……搾っておいたものだって、言ってた」
飛鳥は小瓶を覗き込んだ。
薄く白い液体が、少しだけ入っている。ミナが出かける前に、短いあいだならこれで大丈夫、と言っていた。
けれど、いざ自分たちだけでやるとなると、急に小瓶が重く見えた。
「……あたし、持つね」
飛鳥は小さな器を足元へ置き、足の指でそっと縁を挟んだ。
こぼさないように。揺らさないように。
翼で影を作りながら、ゆっくりと持ち上げる。
その瞬間、ロメラが横から器の底を支えた。
「リンド、赤ん坊相手に足テク披露すんな。器用すぎて逆に怖ぇ」
「だ、だって……手なくて、翼だし……」
飛鳥の頬が熱くなる。
足で持つのは慣れている。けれど、赤ちゃんに飲ませるものとなると、急に自分の足が乱暴なものみたいに思えてしまった。
翼の先が、少しだけ縮こまる。
そのとき、ヤオが静かに言った。
「形に合ったやり方を選べばよい。赤子は、そこまで作法にうるさくない」
飛鳥は、顔を上げた。
ヤオはルウの額を見ている。
こちらを慰めるような顔ではなかった。
ただ、当たり前のことを言っただけ、という声だった。
「……そう、かな」
「うむ。落とさず、熱すぎず、急がせず。大事なのはそこじゃ」
ロメラが口元を少しだけ緩める。
「だとよ。つまり、足でも翼でも、こぼさなきゃ勝ちだ」
「勝ち負けなの……?」
「育児はたぶん、負けないことが大事なんだろ」
「お前が言うと、急にサバイバルになるにゃ」
ノーニャが岩の上からぼそっと言った。
飛鳥は、少しだけ息を吐いた。
器を足の指で支えたまま、ロメラに底を支えてもらい、ルウの口元へ近づける。
ルウは最初、顔をしかめた。
けれど、小さな唇が器の端に触れると、こく、と少しだけ飲んだ。
「……飲んだ」
思わず声が漏れる。
「おー。やるじゃねぇか、リンド」
「……うん」
飛鳥は小さく頷いた。
器を支える足の指に、少しだけ力が入る。
形に合ったやり方でいい。
その言葉が、胸の奥で、静かに残った。
***
昼を過ぎるころ、空が一段低くなった。
森の色が、急に暗くなる。
風が止んだと思った次の瞬間、葉の上で、ぽつ、と音がした。
飛鳥は顔を上げる。
ぽつ。
ぽつ、ぽつ。
雨だった。
最初は、草の先を濡らすだけの小さな雨。
泉の水面に丸い波紋がひとつ、ふたつと増えていく。
ノーニャが鼻をひくつかせた。
「……匂いが変わったにゃ」
ロメラが焚き火に覆いをかける。
「月眠草か?」
「たぶん。でも……」
ノーニャは森の方を見た。
眉間が寄る。
「人の匂いが薄い。雨で流れてる」
ロメラの手が止まった。
「ミナは?」
誰も、すぐには答えなかった。
雨脚が強くなる。
葉の音が増え、草の上を水が走り始める。
アクウェリーナの尾鰭が、泉の中で強く揺れた。
ばしゃ、と水面が鳴る。
飛鳥が振り返る。
「アクウェリーナ?」
尾鰭が、もう一度、水を打つ。
今度は少し強い。
泉の水面に、不自然な濁りが流れ込んできていた。上流のどこかで、土が崩れたのかもしれない。
ヤオが、ゆっくりと目を開けた。
白い尾の先が、地面に触れる。
「……地が動いたな」
ロメラの顔が、はっきり険しくなる。
「おい。さすがに遅ぇ」
ノーニャは岩から飛び降り、雨の中へ鼻を向けた。
「くそ、匂いが切れてるにゃ……でも、薬草の匂いと混じって……こっちか?」
「当てになるのか?」
「なるって言いたいけど、雨が邪魔にゃ。あんまアテにすんなよ」
それでも、ノーニャの尻尾は森の奥を指していた。
飛鳥は、翼を広げた。
雨が羽根に触れる。
冷たい。
重い。
でも、飛ばなきゃ見えない。
「あたし、上から見る……!」
ロメラが何か言いかける。
けれど、止めなかった。
ヤオも止めなかった。
ただ、静かに言った。
「無理はするな。雨は、風の目を濁らせる」
「……うん」
飛鳥は頷き、地面を蹴った。
翼が水を弾く。
一度目の羽ばたきは、思ったより重かった。
けれど、二度目で風を掴む。三度目で、濡れた枝の上へ出た。
雨で世界が霞んでいる。
いつもなら見えるはずの遠い枝の揺れも、今日はにじんでいる。
草の白さも、苔の薄さも、雨の幕に隠れてしまう。
でも。
飛鳥は目を細めた。
森の中に、赤いものが見えた。
枝に結ばれた、ミナの布切れ。
ひとつ。
その先に、もうひとつ。
そして、その先から、不自然に途切れている。
「……目印が、途中で切れてる!」
下へ向かって叫ぶ。
ロメラがギターケースを背負い直し、すぐに草むらへ踏み込んだ。
「行くぞ!」
「ルウはどうするにゃ!?」
ノーニャが振り返る。
その問いに答えたのは、ヤオだった。
「連れて行く」
白い尾が、毛布ごとルウを包み込む。
上半身は細い少女のまま。けれど、その下の巨大な蛇体が、濡れた地面の上で静かにとぐろをほどいた。
「この住処も、上から水が来る。置いてゆく方が危うい」
アクウェリーナが泉から水を引き上げる。
透明な膜のようなものが、ルウを包む毛布の上にふわりとかかった。雨粒がそこへ当たって、横へ滑り落ちていく。
ルウは、白い尾の内側で眠っていた。
雨音の中でも、まだ小さな寝息を立てている。
ロメラが、一度だけヤオを見た。
「守れるか?」
ヤオは、答えるまでもないというように、赤い目を細めた。
「預かった命じゃ。落とすわけがなかろう」
その声に、雨の音が一瞬、遠くなった気がした。
飛鳥は、枝の上からその姿を見下ろす。
雨の中、白い蛇の身体が、泥を避けるように滑っていく。
小さな命を抱いたまま、少しも揺らがない。
「飛鳥!」
ロメラの声が飛ぶ。
「上から目印追え! 倒れた枝と、白い花もな!」
「うん!」
飛鳥は雨を吸った翼を広げ直した。
重い。
でも、飛べる。
木々の間に赤い布。
その先に、折れた枝。
さらに奥、雨の向こうに、ほんのかすかに白いもの。
花かもしれない。
布かもしれない。
でも、そこへ向かわなきゃいけない。
飛鳥は息を吸い、雨の中へ滑るように飛び出した。
下では、ロメラが草むらをかき分け、ノーニャが低く駆ける。
アクウェリーナの水膜がルウを守り、ヤオの白い尾が泥の上を静かに進む。
雨は強くなる。
森の奥で、白い花が開こうとしていた。
そして、どこかで——
ミナの目印が、風に千切れて揺れていた。
——つづく




