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君は、風に還る。  作者: 矢崎 那央
白蛇と薬師の赤子
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第四章 ー薬草探しー


朝食を終えたあと、ミナは小さな革筒から、丸めた紙を取り出した。


ぱり、と乾いた音がする。

何度も開いて、何度も畳まれた地図らしく、端は柔らかく擦り切れていた。そこに、細い炭の線で森と沢と、いくつかの岩場らしき印が描かれている。


飛鳥は、ルウに掴まれていた羽根をそっと引き戻し、翼の先で毛並みを整えながら、その地図を覗き込んだ。


「……これが、月眠草の場所?」


「ええ。たぶん、このあたり……の、はずなのよねぇ」


ミナは地図の端を指で押さえて、にこにこと笑う。


「月眠草は、ずっと同じ場所に咲くわけじゃないの。雨の前後にだけ香りが立って、花も二、三日で閉じてしまうから……今を逃すと、少し困るの」


「……二、三日だけ」


飛鳥は、地図の上に描かれた小さな丸を見つめた。


そこにあるはずの花。

まだ見たことのない白い花。


けれど、ミナの声を聞いていると、それはただの薬草というより、眠れない誰かの夜にだけ咲く、小さな灯りみたいに思えた。


ノーニャが横から顔を突っ込み、ぴくぴくと鼻を動かす。


「ふーん。で、その月眠草ってのは、どんな匂いなんだにゃ?」


「ええとねぇ。青くて、少し苦くて……でも、奥の方に、眠る前の布みたいな甘さがあるの」


「布の匂いってなんだにゃ……」


ノーニャは露骨に眉を寄せた。


ロメラは焚き火の横で革手袋を締め直しながら、肩をすくめる。


「まあ、要するにSleepy grassってことだろ。匂いで眠気誘うタイプの草。探せるか、Whiskers?」


「誰がネコひげヅラにゃ。……まあ、匂いがあるなら追える、かもしれねぇけど」


ノーニャは鼻をひくつかせ、それから急に地図を見下ろした。


「……ん?」


耳が、ぴんと立つ。


「ミナ」


「なあに?」


「この地図、逆に読んでるにゃ!!」


その声に、鳥が飛び立つみたいに、場の空気が跳ねた。


飛鳥は瞬きをして、地図と森の方角を見比べる。

ロメラは枝を持ったまま固まり、アクウェリーナの尾鰭が泉の上でぴたりと止まった。


ミナだけが、地図をくるりと回しながら、のんびり笑った。


「あら、本当。じゃあ昨日は逆に歩いていたのねぇ」


「逆に歩いてここに来たなら、奇跡だろ……」


ロメラが頭を抱えた。


「というか、奇跡をそんな顔で消費すんな。もっとこう……命拾いした顔をしろ」


「命拾い?」


ミナは首を傾げる。


「でも、みんなに会えたから、よかったわぁ」


「結果論で世界を歩くなにゃ!」


ノーニャの尻尾が、草をばしばし叩いた。


飛鳥は、思わず小さく笑ってしまった。

笑ってから、あ、と気づいて翼の先で口元を隠す。


ミナはそれを見て、またにこりとする。


「じゃあ、今日はこっちね」


「いや、待て。アンタが指すと信用できねぇ」


ロメラが地図を取り上げる。


「ヤオ。こっちで合ってるか?」


岩場にいたヤオが、ゆっくりと目を開けた。


白い尾が石の上を滑り、地面に描かれた炭の線を覗き込む。彼女は地図を見るというより、その下の土の色と、風の流れと、遠くの沢の音をまとめて聞いているようだった。


「……東の沢沿いじゃな。ミナの示した方角とは、だいたい真逆じゃ」


「だいたいどころじゃねぇんだよなぁ……」


ロメラが額を押さえた。


ミナは困ったように笑う。


「でも、地図って回すと全部同じに見えるでしょう?」


「見えねぇよ」


「見えないにゃ」


尾鰭ぴとり。

アクウェリーナも、たぶん同意していた。


***


昼前の森は、朝よりも少し湿っていた。


空は薄く曇り、木々の葉の裏に、雨の前の重さが溜まり始めている。

風はある。けれど、いつものように抜けていく風ではなく、木々の間で立ち止まり、草の匂いを抱え込むような風だった。


飛鳥は、低い枝を避けながら、少しだけ翼を広げた。


「……上から見てみるね」


「おう。白い花、見えたら声かけろよ」


ロメラが腰の草をかき分けながら言う。


飛鳥は小さく頷き、地面を蹴った。

湿った土が鳥の足の裏から離れ、翼が空気を掴む。高く飛びすぎると木の枝にぶつかる。だから、木々の上すれすれを滑るように飛んだ。


下には、緑の濃淡が広がっている。


広い葉。細い葉。白っぽい苔。湿った岩。

ところどころに小さな花があるけれど、月眠草らしきものは見当たらない。


(白い花……雨の前に、匂いが出る草……)


飛鳥は目を凝らす。

風に揺れる葉の角度。草の上の水滴。沢へ向かって倒れる細い茎。



木々の隙間に視線を滑らせる。小さな白い点はいくつもある。でも、どれが月眠草なのかは分からない。

下では、ロメラが草むらをかき分けていた。


「花探しって、思ったより地味だな」


「薬草探しは地味な仕事よぉ」


ミナはルウを抱いたまま、草の葉を一枚ずつ見分けている。ぽやっとしているのに、薬草を見る目だけは迷いがなかった。


「これは違うわ。これは似てるけど、茎の毛が多いの。これは煎じるとお腹を壊すから触らないでね」


ロメラが手を引っ込める。


「先に言えよ」


「今言ったわ」


「触る前に言えって意味だ」


地面では、ノーニャが四つん這いで鼻を鳴らしていた。


「匂い、多すぎにゃ……。薬草、湿った土、キノコ、ロメラの革、赤ん坊のミルク……鼻が忙しいにゃ」


「オレの革まで嗅ぐな」


「嗅ぎたくて嗅いでるんじゃねぇにゃ。勝手に入ってくるんだにゃ」


アクウェリーナは沢の近くを進んでいた。

尾鰭を水にひたすと、流れがほんの少し変わる。濁った水が澄み、沈んでいた小石が顔を出す。彼女はその揺れをじっと見てから、静かに首を横へ振った。


飛鳥はそれを見下ろしながら、少し低く旋回する。


「アクウェリーナ、そっちには……ない?」


尾鰭が、ゆるく横に揺れる。

違う、という返事だった。


ミナはルウを背負い紐で抱えながら、草の根元を覗き込んでいる。

背中のルウは、飛鳥の影が通るたびに、小さな手をぱたぱた動かした。


「あら、ここにも似た葉があるわぁ」


「それは?」


ノーニャが鼻を近づける。


「ただの苦い草にゃ」


「まあ、残念」


「嬉しそうに言うことじゃねぇだろ……」


ロメラの声が、木の間で少しだけ低く響いた。


***


しばらく探しても、月眠草は見つからなかった。


森の奥へ進むほど、地面は柔らかくなっていく。沢の音が近づき、空はさらに重く曇った。

飛鳥は枝の上に一度降りて、翼を畳む。羽根の先に湿気がまとわりついて、少し重い。


「……見つからないね」


「まあ、そう簡単に見つかる草なら、迷子のママさんが赤ん坊連れて来る必要もねぇしな」


ロメラが、手についた草の汁を払いながら言った。


ノーニャは、鼻を押さえている。


「オイラの鼻、もう全部青臭いにゃ……。今なら草と会話できそうだぜ」


「聞いてみたらどうじゃ」


ヤオの声がした。


彼女は少し離れた湿った岩の上に、白い尾をゆるく巻いていた。地面に触れた尾の先が、ゆっくりと土を撫でる。

その赤い瞳は、草ではなく、その下にあるものを見ているようだった。


ノーニャがむっとする。


「会話できるわけねぇだろ」


「では、鼻で聞くしかあるまい」


「言い方がじわじわ腹立つにゃ……」


ヤオは小さく笑ったあと、ふと目を細めた。


その尾が、土の上で止まる。


「……まだじゃな」


「まだ?」


飛鳥が枝の上から問い返す。


ヤオは、地面から指先ほどの若い芽をひとつ摘ままず、ただ見下ろした。触れてしまえば壊れるものを、目だけで確かめるように。


「この草は、雨を待っておるな。今はまだ、匂いが薄い」


ミナがぱっと顔を明るくした。


「まあ、すごい。土の声が聞こえるのねぇ」


ヤオは、少しだけ苦笑した。


「土の声というほど、愛らしいものではないがな。地が湿る前の、息苦しさのようなものじゃ」


「息苦しさ……」


飛鳥は、足元の枝をつかむ鳥の指に、ほんの少し力を込めた。


確かに、森の空気は重い。

雨が降る前の、何かが閉じ込められているような重さ。


「じゃあ……雨が降ったら、咲くの?」


「香りは立つじゃろう。花も開くやもしれん」


ヤオは空を見上げた。


「ただし、雨が強すぎれば、匂いは流れる。土も崩れる。探すには、面倒な日になろうな」


「面倒な日……」


ロメラが嫌そうに空を見た。


「それ、だいたいトラブルの予告じゃねぇか」


「予告ではない。気配じゃ」


「言い方変えても中身が怖ぇんだよ」


ミナは、それでもどこかのんびり頷いていた。


「じゃあ、明日かしら」


「アンタはひとりで行くなよ」


ロメラが即座に言った。


「あら」


「“あら”じゃねぇ。絶対迷う。地図を逆に読む時点で、森に対する信頼度が低すぎる」


「でも、みんなに迷惑をかけるのも……」


「もうかけてるにゃ」


ノーニャが容赦なく言った。


ミナは少しだけ困った顔をしたけれど、すぐにルウの背中を撫でた。


「そうねぇ。じゃあ、今日は戻りましょうか。ルウも少し眠そうだし」


飛鳥は、枝の上から降りた。

地面に足をつけると、湿った土が少しだけ指の間に入り込む。


ルウがミナの背中で、むにゃ、と顔を動かした。

その小さな音に、ヤオの視線が一瞬だけ向く。


飛鳥はそれに気づいて、でも何も言わなかった。


***


野営地に戻るころには、空は鈍い灰色に沈んでいた。


雨はまだ降っていない。

けれど、葉の裏を撫でる風が、すぐそこまで水を連れてきているのが分かる。


薬草は見つからなかった。


ミナはそのことを、あまり落ち込んではいないようだった。

小鍋に水を足しながら、ぽやぽやと笑っている。


「明日ねぇ。明日、雨が少し降ったら、きっと香りが立つわ」


「その“少し”で済めばいいけどな」


ロメラが、濡れてもいない革手袋を火のそばで乾かすみたいに広げた。


ノーニャは岩の上で丸くなり、尻尾を鼻先へ巻きつけている。


「オイラの鼻は今日は閉店にゃ。草の匂いしか入ってこねぇ」


アクウェリーナは泉のそばで、ルウのためにぬるく温めた水を器へ流していた。

ミナはそれを使って、授乳のあとにルウの口元をそっと拭う。


夜になると、ルウは少しだけ機嫌が悪くなった。


お腹は満ちているはずなのに、眠りに落ちきれない。

抱かれているのに、眉を寄せる。

火のはぜる音に小さく肩を揺らし、また、ふぇ、と泣きそうな声を出す。


ミナは何度か揺らしていたけれど、まぶたが重そうだった。

薬草探しで歩いたせいか、昨日よりも肩の力が抜けている。


「……ごめんなさいねぇ。ちょっとだけ、眠くて……」


「謝るなよ。眠いもんは眠いだろ」


ロメラがそう言って、ギターケースを少し引き寄せた。

けれど弦を鳴らす前に、白い尾が静かに焚き火の明かりへ伸びてきた。


「……こちらへ」


ヤオだった。


昨日のように大きく輪を作るのではなく、今日は尾の一部だけをゆるく曲げ、毛布の端を支えるようにしている。

その内側は、焚き火の熱が直接当たりすぎず、夜風も強く入らない。ルウを包む毛布が、白い尾に沿ってふわりと丸くなった。


ミナは、少し迷ったあと、ルウをそこへ寝かせた。


ルウは、まだ小さく顔をしかめている。

泣き出す前の、迷っているような顔だった。


飛鳥はそばに座り、翼を畳んだ。

ヤオの尾が、ほんの少しだけ動く。昨日のようなゆりかごではない。もっと小さく、呼吸に合わせるような揺れだった。


「……ヤオ」


飛鳥は、小さな声で呼んだ。


「なんじゃ」


「赤ちゃん……怖くないの?」


ヤオは、少しだけ首を傾げた。


「怖い?」


「うん……」


飛鳥は、眠りかけているルウを見た。

昨日、自分の羽根を掴んだ小さな指。さっき森で、背中の布の中から空を探していた手。


あまりにも小さい。

飛鳥の羽根ひとつより軽そうで、でも泣き声だけはちゃんとこの場所の中心になる。


「壊れちゃいそうで……あたし、少しこわい」


言葉にしたあと、飛鳥は足の指をぎゅっと縮めた。

変なことを言ったかもしれない。そう思って、少しだけ翼を寄せる。


けれどヤオは笑わなかった。


ただ、ルウを見下ろした。


「小さきものは、壊れやすい」


声は、焚き火よりも低く、泉よりも静かだった。


「じゃが、壊れやすいからこそ、こちらが静かになればよい」


「……静かに」


「うむ。力を抜き、声を荒げず、動きを急がず。こちらが大きいほど、なおさらな」


ヤオの長い指が、ルウの額へ近づく。


触れるか触れないか。

その境目で止まる。


ルウは、小さく息を吸った。

それから、ふっと眉間のしわを解いた。


ヤオの指は、ほんの少しだけ額に触れる。

すぐに離れる。


たったそれだけだった。


けれど、ルウの手が毛布の端を掴み、ぎゅ、と握った。

泣き声になりかけていた息が、静かな寝息に変わっていく。


ミナが、ほっと息を吐いた。

そのまま、座った姿勢でこくりと揺れる。


「……ありがとう……」


声は、眠りに溶けかけていた。


ロメラが毛布をひとつ取り、ミナの肩へ放った。


「寝ろ。明日、また森歩くんだろ」


「うん……少しだけ……」


ミナは、ルウの方を見たまま目を閉じた。


飛鳥は、ヤオの横顔を見ていた。


白い髪の下、赤みのある瞳が、眠った赤ちゃんを静かに見下ろしている。

その目は、初めて会った時のように、心の奥を見透かすものではなかった。

もっと近くて、もっとやわらかい。


(ヤオって……やっぱり、すごい)


飛鳥は、胸の中でそっと思う。


でも、ルウを見るその目は。

昨日、薬草粥を苦いと言った時よりも、もっと静かで。


(……少しだけ、やさしい)


そう思った瞬間、ヤオの尾の先が、焚き火の赤を受けてかすかに光った。


風は、まだ雨を連れてこない。


けれど、森の奥で眠っている白い花が、目を覚ますのを待っている気がした。


その夜、野営地には、誰も大きな声を出さなかった。


火の音。

泉の音。

赤ん坊の寝息。

そして、石を撫でる白い尾の、かすかな音。


その全部が、月のない夜へ向かう時間を、ゆっくりと進めていた。



——つづく

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