第三章 ー小さな命と小さな暮らしー
朝の森は、昨日より少しだけ冷えていた。
夜のあいだに降ったわけでもないのに、草の先には細かな水滴がついている。泉の水面は薄く白んだ空を映し、その縁でアクウェリーナの尾鰭がゆっくりと揺れていた。
飛鳥は、毛布の端を翼でそっと持ち上げる。
その下で、ルウは丸くなって眠っていた。小さな口が、時々むにゃ、と動く。昨日、飛鳥の羽根を掴んだ指は、今は布の端を握っている。
「……寝てる」
思わず小さく呟くと、後ろからミナの声がした。
「うん。夜中に少し起きたけれど、よく眠れたみたい」
ミナは小鍋を抱えて、焚き火のそばにしゃがんでいた。昨日よりも少し疲れた顔をしているのに、声は相変わらずぽやっとしている。
鍋の中では、薄く刻んだ薬草と穀物が煮えていた。湯気に混じって、青くて、少し苦い匂いが漂う。
ノーニャが岩の上で鼻を押さえた。
「うっ……朝から草くせぇにゃ……」
「薬草粥は、お腹にもやさしいのよ」
「お腹にはやさしくても、鼻には厳しいにゃ」
ロメラが火のそばに座り、枝で鍋底を軽く突いた。
「| Healthy Food《薬膳料理》ってやつか……ロックじゃねぇ料理だな」
「ロックじゃない料理って、なに……?」
飛鳥が首を傾げる。
ロメラは鍋の中を覗き込み、少しだけ鼻を鳴らした。
「正面から魂をブン殴るんじゃなくて、後ろから支えるタイプのやつ」
「……それ、いい料理ってこと?」
ロメラは肩をすくめながらも、火加減を少し落とした。昨日の夜、ミナに頼まれてから、なぜか火の管理はロメラの仕事みたいになっている。
アクウェリーナが泉から清水をすくい上げ、木の器へ静かに流し込む。尾鰭が水面をなぞるたび、器の中の水が澄んでいった。
「ありがとう、ウェーリーちゃん」
ミナが笑うと、アクウェリーナの尾鰭が小さく揺れた。
飛鳥は、小さな木椀を運ぼうとして、少し迷った。
翼では、熱い器をうまく支えられない。
仕方なく、飛鳥は器の縁を足の指でそっと挟んだ。
「……よいしょっ」
飛鳥はゆっくりと、器をミナのそばへ運んだ。
ミナがぱちぱちと瞬きをする。
「まあ、器用なのねぇ」
「……あ」
飛鳥は見られたことに気づいて、反射的に足を引いた。でも、ミナの顔に嫌悪はない。
ただ本当に、感心しているだけだった。
「お皿を落とさないの、すごいわ。私なんて、手で持ってもよくこぼすのに」
「それはアンタが雑なだけじゃねぇのか?」
ロメラが即座に言う。
「あら、そうかしら」
「そうだろ」
飛鳥は、少しだけ肩の力が抜けた。
「……熱かったから、ちょっとだけ」
「火傷しないようにねぇ」
「う、うん」
ミナの目は、やっぱり変わらなかった。
足を見ても、翼を見ても、ただ「器用ねぇ」と笑うだけ。
飛鳥は、足の指をそっと引っ込める。
でも、昨日みたいに隠したいとは思わなかった。
……まだ、落ち着かない。でも、嫌じゃない。
ミナは木椀を人数分に分けていく。ロメラは「味見」と言って先に一口食べ、微妙な顔をした。
「……やさしい味だな」
「まずいって言わないんだね」
「味より、Lifeがじんわり回復する感じだな」
「だから、それどういう意味……?」
ノーニャも恐る恐る粥を舐めた。
「青くせぇにゃ……でも、まずかねぇな」
「でしょう?」
ミナは嬉しそうに頷く。
ヤオは少し離れた岩場にいた。食事が必要ないのか、ただ皆の様子を見ている。
ミナは小さな椀をひとつ手に取って、少し迷ったあと、岩場の方へ向けた。
「白蛇のお嬢さんも、少しどうぞ?」
昨日の呼び方ではなかった。たぶん、ミナなりに気を遣ったのだと思う。
ヤオはしばらく椀を見ていたが、やがて尾を滑らせて近づいた。
「……ならば、ひと口だけもらおうかの」
ロメラが意外そうに眉を上げる。
「食うのか?」
「食うて悪いか」
「いや、蛇神サマにも味覚あんのかと思って」
ヤオは木椀を受け取り、匙でほんの少しだけ粥を口にした。
沈黙。
それから、ぽつりと。
「……苦いのう」
ロメラが吹き出した。
「やっぱ苦いんじゃねぇか」
「苦いものは苦い」
ヤオは平然と答え、もうひと口だけ食べた。
飛鳥はその様子を見て、少しだけ笑ってしまった。昨日まで、ヤオはどこか遠いところにいるように見えた。
なのに今は、薬草粥を食べて、ちゃんと苦いと言っている。
それがなんだか、不思議だった。
***
朝食が終わる頃、ルウがもぞもぞと動き出した。
小さな顔がくしゃっと歪む。泣き声が出るより先に、ミナが慣れた手つきで毛布を開いた。
「あら、おしめね」
その一言で、ノーニャがぴたりと止まった。
「……オイラ、ちょっと森の様子を見てくるにゃ」
「逃げんな、 Whiskers」
ロメラがノーニャの襟元を掴んだ。
「にゃっ!? なんで捕まえるにゃ!」
「家族ごっこに参加しただろ?逃げんな」
「オイラはそういうの担当外にゃ!」
「担当表なんかねぇよ」
飛鳥は布を抱えて、少し離れた場所に立っていた。見ていいのか、見ない方がいいのか分からず、翼を半分だけ顔の前に寄せる。
ミナはそんな飛鳥たちの反応を気にする様子もなく、手際よく布をほどいていった。
「ウェーリーちゃん、お水を少しもらえる?」
アクウェリーナこくりともせず、尾鰭を水面に滑らせた。清水が小さな器に流れ込む。
「飛鳥ちゃん、その布を取ってくれる?」
「あ、うん……」
飛鳥は足元の布を翼で寄せ、足の指でそっと掴んでミナのそばへ置いた。
ノーニャが横目で見て、ぼそっと言う。
「……器用すぎるにゃ」
「ノーニャも尻尾でできそうだけど」
「尻尾は高級品だから雑用には使わないにゃ」
「さっき逃げるのには使ってたぜ」
「それは高級な逃走にゃ」
ロメラが呆れたように笑う。
ヤオは、少し離れたところで白い尾をゆるく動かした。
風が吹き込む方向に尾を置き、ミナの手元へ砂や冷たい空気が入り込まないようにしている。
昨日の授乳の時と同じ。
何も言わない。
でも、邪魔にならない場所をちゃんと知っている。
ミナはおしめを替えながら、ぽやっと呟いた。
「助かるわぁ。赤ちゃんって、ちいさいけど、暮らしの中心になるのよねぇ」
その言葉に、飛鳥はルウを見下ろした。
小さな足。
小さな手。
泣くことと眠ることと、誰かに抱かれることしかできない命。
(あたしにも……こんなふうに、誰かに布を替えてもらった頃があったのかな)
ふと、そんなことを思った。
答えはまだ分からない。新月の夜になれば、分かるのかもしれない。
でも今は、考えすぎる前に、ルウがこちらへ手を伸ばした。昨日と同じように、指先が飛鳥の羽根を探している。
「……また?」
飛鳥が翼の先を少し近づけると、ルウは満足したみたいに羽毛を握った。
ぎゅ。
「……ほんとに、好きなんだね」
「飛鳥ちゃんの羽根、安心するのかもねぇ」
ミナが笑う。
飛鳥は何も返せず、ただ羽根を掴まれたまま、小さく頷いた。
——つづく




