第二章 ー白蛇のゆりかごー
ロメラが薪を抱え直した。
「とりあえず、今日はここで休んでけよ。薬草探しは明日からでいいだろ。| Baby-on-board《あかんぼ連れ》のママさん日暮れの森に戻すほど、オレらも鬼じゃねぇ」
「まあ、いいの?」
「ダメって言っても居座りそうだしな」
「ふふ。助かるわぁ」
「褒めてねぇ」
ロメラがため息をつきながら、焚き火の場所を指さした。
「火はこっち。水は泉。寝床は……まあ、詰めればなんとかなるだろ」
そこからは、思ったより慌ただしかった。
ロメラは、焚き火のまわりに石を並べ直し、ミナの小鍋を置ける場所を作った。アクウェリーナは泉から澄んだ水をすくい上げ、木の器へ静かに流し込む。
ノーニャは「赤ん坊の荷物、多すぎにゃ」と文句を言いながらも、ミナの布袋を前足みたいな手つきで引きずってきた。
飛鳥は、敷けそうな毛布を抱えて、住居跡のいちばん風が当たりにくい場所へ運ぶ。
「……ここなら、寒くないかな」
「うん、そこ、いいと思うわぁ。ありがとう、飛鳥ちゃん」
ミナが笑う。
その普通の礼に、飛鳥はまた少しだけ返事が遅れた。
「……う、うん」
赤ん坊のルウは、毛布の上に寝かされると、むにゃ、と口を動かした。 小さな拳が空をつかむように揺れる。
ノーニャがそれを見て、じりっと後退した。
「……なんか、こいつ、動きが読めねぇぜ」
「赤ん坊相手に警戒すんなよ」
ロメラが火をつけながら笑う。
「だって、いきなり尻尾つかまれたらどうすんだにゃ」
「そん時は、負けを認めろ」
「なんの勝負にゃ」
やがて、ミナが小鍋に水と刻んだ草を入れた。 ふわりと、青くて少し苦い匂いが広がる。
ノーニャの鼻が、ぴくりと動いた。
「うっ……なんか草臭ぇ」
「薬草粥よ。体を冷やしすぎないようにして、少し眠りやすくするの」
「粥にまで薬を入れるのかよ」
ロメラが鍋を覗き込む。
「入れすぎると苦くなるから、火加減を見てねぇ」
「オレが?」
「だって、火のそばにいるの、ロメラちゃんだもの」
「……ちゃん付けで仕事振るな。断りづれぇだろ」
そう言いながらも、ロメラは火の勢いを少し落とした。
そのとき、毛布の上でルウが小さく身じろぎした。
ふぇ、と息を吸うような声。 次の瞬間、顔をくしゃっと歪めて、泣き声が野営地に広がった。
「おおっと、来たな。| Baby blues《グズリ泣き》のイントロだ」
ロメラが鍋から顔を上げる。
ミナは慌てるでもなく、赤ん坊を抱き上げた。
「あらあら、お腹すいたのねぇ」
「腹?」
ノーニャが首を傾げた瞬間、ロメラがその頭を片手でぐいっと後ろへ向けた。
「おーし、全員後ろ向け。| Baby mealtime《おっぱいの時間》だ」
「にゃっ!? なんでオイラまで!」
「見ねぇなら文句言うな」
飛鳥も、意味に気づいて顔が熱くなり、反射的に翼で視界を隠した。
「ご、ごめんなさい……!」
「謝ることじゃないのよぉ」
ミナはのんびり笑っている。
その横で、白い尾が静かに動いた。
ヤオだった。
何も言わず、蛇の胴をゆるく伸ばし、ミナと他の者たちの間に白い壁を作る。 高すぎず、低すぎず。
まるで最初からそこに置かれていた衝立のように、自然な目隠しだった。
ミナが、その向こうでくすりと笑う。
「あら、ありがとう、ヤオちゃん……じゃなくて、ヤオさん? ふふ、どっちがいいのかしらねぇ」
「……礼には及ばん」
ヤオの声は、いつも通り静かだった。 でも飛鳥には、その静けさが、少しだけ違って聞こえた。
見せないためではなく、守るための静けさ。
飛鳥は翼の隙間から、ほんの少しだけヤオの白い尾を見た。
目隠しの尾だけを残したまま、ヤオ自身は岩場の影に身を沈めていた。
白い尾は動かない。けれど、ルウが小さく鼻を鳴らすたび、その目だけがほんのわずかにそちらへ向く。
飛鳥は、それに気づいていた。
ヤオは、赤ん坊に興味がないわけではないらしい。でも、近づきすぎることもしない。
まるで、泉に映った月を、指で乱さないように見ているみたいだった。
アクウェリーナが尾鰭を揺らし、泉の水面をすっと整える。ノーニャは文句を言いながらも、茂みの方へもう一度視線を走らせていた。
ヤオは岩場で、静かに目を伏せる。
飛鳥は、赤ん坊に羽根を掴まれたまま、ゆっくりと息を吐いた。
夕方の野営地に、ひとつ、知らない生活の気配が混じり始めていた。
薬草の匂い。
赤ん坊の小さな寝息。
ミナのぽやぽやした声。
ロメラの呆れたため息。
アクウェリーナの水音。
ノーニャの尻尾が草を叩く音。
そして、少し離れた場所にいるヤオの、白い尾が石を撫でるかすかな音。
飛鳥はもう一度だけ、ヤオの方を見た。
ヤオは何も言わず、岩場に白い尾をゆるく巻いている。
さっきまでと同じ、静かで、少し遠い姿。
さっき止まったその尾は、今は静かに、誰かを守る壁になっていた。
夜が落ちるころには、野営地には小さな生活の匂いが満ちていた。
湿った薪の煙。
薬草粥の苦い湯気。
干した布の匂い。
それから、赤ん坊の甘い体温。
ミナは粥を少し食べたあと、ルウを抱いたまま何度か舟をこいでいた。方向音痴の薬師は、道に迷うことに慣れていても、赤ん坊を抱えて歩く疲れには勝てないらしい。
飛鳥たちは、自然と声を落としていたけれど、ルウがまた泣き出した。
ふぇ、と小さく息を吸ったかと思うと、今度はさっきよりずっと大きな声だった。
ミナが目を覚まし、抱き上げようとする。
「ごめんなさいねぇ……この子、夜になると少しグズリやすくて……」
「アンタは座ってろ。今にも寝落ちしそうな顔してんぞ」
ロメラがそう言って、ぎこちなくルウを覗き込んだ。
「よーし、Baby。泣くな。ロックな女は夜泣きくらいじゃビビらねぇ」
ルウは、さらに泣いた。
「……オレ、今ちょっと傷ついたんだけど」
「赤ん坊に敗北してるにゃ」
ノーニャが尻尾を揺らすと、ルウの手がそれを追うように伸びた。ノーニャはびくっと飛び退く。
「や、やっぱこいつ、オイラの尻尾狙ってるにゃ!」
「狙ってるっていうか、動くものに反応してるだけだよ……」
飛鳥はおそるおそる翼を広げ、ルウの顔に風が当たらないように影を作った。ルウは一瞬だけ泣き止み、黒い瞳をぱちぱちさせる。
「……あ」
でも、またすぐに泣き出した。
アクウェリーナが泉のそばで尾鰭を揺らす。さらさら、こぽこぽ、と小さな水音が夜に広がった。
泣き声は少しだけ弱くなる。けれど、止まらない。
そのとき、岩場から白い尾が静かに滑ってきた。
「……貸してみよ」
ミナが少し驚いたように顔を上げる。けれど、なぜかすぐに頷いた。
「お願いしても、いいかしら」
「うむ」
ヤオは、赤ん坊を腕で抱くのではなかった。
白い尾をゆるく丸め、その内側に毛布を敷く。冷たい石の上ではなく、鱗の輪に守られた、小さな寝床。
その中央にルウを寝かせると、尾の先が、ゆっくり、ゆっくりと揺れた。
大きすぎる身体なのに、動きは驚くほど静かだった。白い鱗が焚き火の赤を受けて、淡く光る。
「……泣くでない」
ヤオの声が、夜の底に落ちた。
「夜は、おぬしを食いはせぬ。
闇も、風も、ここではただ眠るだけじゃ」
その声は、低くも高くもなかった。けれど、不思議と、洞窟の奥で水が眠るような響きがあった。
ルウの泣き声が、少しずつ細くなる。
尾の先が、またゆっくり揺れる。
「そうじゃ。眠れ。小さきもの」
赤ん坊の小さな手が、宙を探すように動いて、やがて毛布の端を握った。
泣き声が、止まった。
野営地に、火のはぜる音だけが残る。
ロメラが、ぽかんと口を開けた。
「Damn! | Snake cradle《白蛇のゆりかご》かよ。
やるじゃねぇか」
ノーニャも尻尾を下げたまま、信じられないものを見るように呟く。
「……赤ん坊、寝たにゃ」
アクウェリーナの尾鰭が、ぴと、と水を叩く。 どこか安心したような音だった。
飛鳥は、ただヤオを見ていた。
ヤオは、何も誇らしげにしていない。 何か特別なことをしたつもりもないように、静かに目を伏せている。
けれど、白い尾の輪の中で眠るルウを見るその目は、昼間より少しだけやわらかかった。
(ヤオ……赤ちゃん、慣れてるのかな)
そう思ったけれど、聞けなかった。聞いたら、今の静かな空気を壊してしまいそうだった。
ミナが小さく頭を下げる。
「ありがとう。すごいのねぇ」
「眠かっただけじゃ」
ヤオは短く答えた。
でも、飛鳥にはそれだけではない気がした。
怖い人。
すごい人。
全部を見透かすような人。
それだけじゃない。
白い尾の中で赤ん坊を眠らせるヤオは、少し不思議で、少し遠くて、でもさっきまでより、ほんの少しだけ近く見えた。
飛鳥は、自分の翼の先に残るルウのぬくもりを思い出す。
そしてもう一度だけ、ヤオの尾の先を見る。
薬師の女の人に呼ばれたあの一瞬。
その尾が、ほんのわずかに止まったことを、飛鳥は覚えていた。
理由は、まだわからない。
聞いていいことなのかも、まだわからない。
ただ、その小さな引っかかりだけが、赤ん坊の寝息と一緒に、夜の中で静かに残っていた。
——つづく




