第二部 エピローグ -君は、風に還る。-
春の風が、そっとカーテンを揺らした。
山間の静かな屋敷。
陽を受けて白く輝くその部屋の窓辺で、黒い髪の少女が、床に足を下ろす。
桃色の鱗を纏ったその足は、まだどこかぎこちないけれど——
一歩ずつ、確かに地を踏んでいた。
決戦のあと、翼には深い裂傷が残った。
痛みはもう消えたけれど、ときおり羽を伝う風に、かすかな違和感が走る。
癒えたというよりは、慣れてきた。
そういう種類の“回復”だった。
肘から伸びた羽根が、そっと揺れる。
青から水色へのグラデーションが、朝の光を映してきらめく。
あの頃は、閉じて抱えるようにしか使えなかったこの翼を、
今は少しだけ、風に広げられるようになった。
「……うん」
小さくうなずいて、ベッドの傍らに置かれていた風呂敷を足で手繰り寄せる。
中には、薄手のマントと、小さな携帯袋。
ほんのわずかの荷物だけをまとめて、足先で器用に口を結ぶ。
棚の上に残された包帯がひとつ。
それに目をやって、静かに笑った。
もう、巻く必要はない。
でも、残しておいて貰おう。
これは、傷ではなく——歩いた時間の、ひとつの証だから。
今日、旅に出る。
特別な理由はない。
でも、きっと、それが——今の自分にできる「風」のかたち。
胸に、ほんのすこしだけ高鳴りを感じながら、扉の方へと歩き出した。
陽の光が、庭に淡く射していた。
春の風が花の香りを運び、小さな木々の葉をそよがせていた。
彼女は、そっと足を踏み出す。
旅の間、幾度も支えてくれた仲間たちが、そこに立っていた。
どこか照れくさそうで、それでも確かに“見送る”ために集まっている。
「おまえ、ほんとに飛んでくんだな……」
赤毛の尻尾が、ふいに風に揺れた。
腕を組み、口をとがらせながら、あきれたように言う。
けれどその尾は、わずかな名残惜しさを、言葉ではなく背中で伝えていた。
「またいつでも——ここに帰ってきてくださいね」
彼女は庭の白椅子に腰掛け、ふわりと微笑んだ。
薄く揺れる袖からのぞいた指が、風の向きを知るように静かに動いた。
「お部屋も、ティーカップも、そのままにしておきますから。
帰ってくる場所は、なくならない方が……素敵でしょう?」
細い蔦をまとった腕が、風にそよいだ。
指先からのびた葉がふわりと揺れる。
「わたしもぉ〜、お料理、もっともっと練習しておきますねぇ〜」
蔦の絡まる指をひらひらと振って、うれしそうに微笑む。
風が吹いた。
青くきらめく羽根が、ふわりと舞い上がる。
飛鳥は、みんなの顔をゆっくりと見つめてから、小さく息を吐いた。
「……みんなは、これからどうするの?」
すぐには誰も応えなかった。
けれど、その沈黙の奥で、ふわりと馴染み深い京言葉がほどける。
「あんたの旅の、ウチの出番はこれで終いやなぁ」
「ウチは旦はん所に戻ろか思うてます。色々後始末もしたげんと、あかんさかい」
少し、イタズラっぽく笑ってから視線を合わせる。
「また何かあったら……風の中にでも、声かけておくれやす」
──あくまで淡く、けれど間違いなく、愛情のこもった見送りだった。
続けて、やわらかく、庭をじわりと包むような声が答える。
「ふふ……ほんとうに、飛んでいってしまわれるのですねぇ」
「わたくしは……そうですね。しばらくはこの場所で、のんびりと夜の香りを楽しみますけれど」
少しだけ言いにくそうに、続ける。
「気が向いたら——あの方のラボでも訪ねてみようかしら。……あら、顔を見に行くだけ、ですわよ?」
——金糸のような彼女は、いたずらめいた笑みを浮かべる。
「わたしはぁ……うふふ、やっぱり、あの温室に戻りますぅ」
頬に両手を当てて、嬉しそうにくるりと回る。
「でもねぇ、ただお花のお世話をするだけじゃなくって……
もっとこう、あったかくてぇ、ほっとできる場所にしたいんですぅ」
ふうと息をこぼす。
「いつか遊びに来てくれたら、気がついたらお昼寝しちゃうような……そんなところにぃ」
——そう言って、まるで花の妖精のように、ふわっと笑った。
「……や、やだ……」
ひとつ大きく瞬きをしてから、涙の粒をぽろりと落とす。
「や、やだよぉ……いっちゃやだ……!」
目元をくしゃくしゃにして、ドレスの袖でこすっても涙は止まらない。
まるで、どこかのお姫さま人形が、壊れたようにしゃくりあげる。
「ワタシ……もっと、もっといっぱい一緒にいたかったのに……!
ずっとずっと、おうちで待ってたんだよ……!」
そっと手を包んで寄り添う。
「……大丈夫。ちゃんと、また行くから。
あのおうち、すごく素敵だったもん。また一緒に遊ぼうね」
「ほんと? ほんとに、また来てくれる……?」
「うん、絶対。綺麗になったおうち、楽しみにしてるね」
涙と鼻をぐしぐし拭いながら、くすっと笑った。
「うんっ……ワタシ、がんばって、あのおウチ綺麗にするの……!
飛鳥ちゃんが……喜んでくれるやり方で…。
そしたら、お茶とキレイなお花、ぜんぶぜんぶ見せてあげるのっ」
——それは本心なのか、"そんな別れ方をすれば飛鳥が喜ぶ"と考えた模倣かはわからない。でも、キャストドールのように華奢な彼女は、確かに泣き笑いの表情を浮かべていた。
水音とともに、尾がそっと足元を巻く。
やわらかな水草のような感触。くすぐったくて、少しだけ名残惜しい。
尾は一度、軽く上下に跳ね、くるくると旋回してから
最後に、ほんの一瞬だけ“ぽん”と空を指さすように立った。
飛鳥には、それが「いってらっしゃい」だと、ちゃんとわかった。
——静かに、でも確かな想いを、言葉なく彼女は伝えた。
「……で、ティロってやつには、会いに行かなくていいのかよ?」
ギターを肩にぶら下げたまま、軽く尋ねる声がする。
その声に、少しだけ目を伏せた。
「……きっと、会いに行くよ。でも……もう少し先に」
「ん、そっか。……なら、よし!」
軽く頷いて、ギターのネックをトントンと叩く。
その仕草には、どこか安心したような響きがあった。
「……うん、がんばる」
「That’s the spirit of you.
お前はもう、どこにだって吹いていけるぜ。自由にな」
そう言って背を向けかけて、ふと振り返る。
「……ま、もしかしたら旅先でばったり会うかもな。
そん時は……うまいもんでも食おうぜ、“Lil' Wind”」
誰かの気配を背に受けながら、そっと足元の風を確かめる。
柔らかな草の感触、ほのかに湿った土の匂い。
すべてが、出発のときを知っているかのようだった。
「……いってくるね」
小さく告げたその一言に、誰かが静かに手を振った。
誰かが、そっと頷いた。
誰かが、笑顔で背中を押してくれた。
風が、舞う。
肘から先、翡翠に煌めく羽根がしなり、空気を掴む。
桃色の鱗に覆われた足が、ふっと地面を離れる。
揺れる黒髪の向こうに、ひろがる蒼空。
その影が、風に溶けるように宙へと舞い上がっていった。
かつて檻のように思えたこの身体で、いま自由に空を駆ける。
「……あ」
高く、風を裂くように舞い上がる。
下にある、イングリッシュガーデンの家が、どんどん小さくなっていった。
「……少し飛んだだけで、もう……」
その先に見えたのは、かつて歩いた長い道のり。
森を抜け、湖を越え、廃墟を巡り、戦った場所、泣いた場所、出会った場所――
“あんなに長い旅だったのに、空を飛んだら、あっという間だね”
思わず、胸の奥で笑みがこぼれた。
けれど、その目は真っ直ぐに前を向いていた。
風を切って飛ぶ。
背に受ける陽光はやわらかく、かすかな残響のように、旅の記憶を照らしていた。
眼下に広がる風景に想いを馳せる。
それは、歩いてきた長い道のり——あの、長い……けれども宝物のような…旅の軌跡。
森の深く、折れた倒木の上。
太陽の光に、ふわりと浮かぶ赤い尻尾がひとつ。
丸くなった小さな背中が、気持ちよさそうに身じろぎしているのが見えた気がした。
湖のほとりでは、薄い靄が立ち昇り、
水面にただ一筋の尾が揺れている。
誰かがそこにいたような、いなかったような。
でもその静けさは、たしかに胸をやわらかくするものだった。
ガラスの割れた温室では、陽の光に透ける蔓が、
どこか“微笑むように”動いていた。
ささやかな緑の息づかいに、何かがそっと手を添えている気がした。
屋根の崩れた屋敷の上空を過ぎる。
朽ちた屋根の隙間から、蜘蛛の糸の間を縫うようにひらりと布が舞い、
白くて、小さな指が、それをつまんだように見えた。
曲がりくねった街道の脇には、
ギターのピックが、草に埋もれかけていた。
傍らに誰かの足跡のような凹みがあり、
今にも「行くぜ、ハッチー」と声が届きそうだった。
山の向こう、木立の間。
朱と白の衣が風に翻り、狐面がふと揺れたような。
誰かが何かを見届けていた気配だけが、空気の中に残っていた。
そして、小さな屋敷の庭には、
金の髪が陽にきらめき、湯気の立つ茶器がふたつ。
それは、まるでこれから客が帰ってくることを、当然のように待っている風景だった。
飛鳥は、翼を一度大きく広げた。
遠くへ、もっと遠くへ。
風は、何も言わずにそれを支えてくれる。
たとえもう会えなくても。
たとえ、あれがすべて幻だったとしても。
それでも、風の中には、みんながいた。
それはきっと、“旅の一部”として、ずっと胸の中に生きていく。
地上では、陽の差す丘の上で、一本の枝に巻きつくようにして、細長い影が揺れているのが見える。
白銀の鱗が日差しを跳ね返し、その尾は、風と遊ぶようにふわりと膨らんだ。
祠の屋根に腰掛け、空を見上げる。
その目はどこか遠くを見通すようでいて、確かに、飛ぶ少女を捉えていた。
——まるで、自分の中のなにかを、いま託して飛ばしたような。
そのさらに遠く、岩場の裂け目に腰をおろし、ちいさな人影が手を振っているのが見えた。
くるくると金の輪が回るたび、彼女の視界には飛鳥の軌跡が映っていた。
風を読むように額の第三の眼を開け、口の端を上げる。
たった一度だけ、眼ををつむり、指先で空に何かを描いた。
それはたぶん、「また、会おうね」という印。
そして、崩れかけたラボの屋上。
瓦礫に囲まれながらも、彼らはまっすぐに空を見ていた。
白衣の男は、なにも言わない。なにも持たない。
ただ、立ち尽くし、胸に片手を当てていた。
その傍らに、青い翼が広がる。
彼女は一歩も踏み出さず、しかしその瞳だけは、飛鳥と繋がっていた。
風が吹くたび、彼女の羽衣のような髪が舞い、
その全てが「届いている」と語っていた。
空は高く、風は清らかに。
彼女の旅立ちは、もう誰のものでもなく、
けれど確かに、多くの想いに見守られていた。
そよ風が、静かに地を撫でていく。
舞い上がる青い羽毛。指先に、冷たくもやさしい空気の震え。
──背中を押す風。
それが、ずっと怖かった。けれど今は、それが“合図”だとわかる。
空を行く飛鳥に、ひとつの飛翔体が近づき、その横に並んだ。
それは、鋭利な構造を持つ剣。
鈍色の表面に、かすかに浮かぶ呪紋。
中心部にある眼球の様なコアは、ほんの一瞬だけ淡く明滅し、光をこぼす。
声はない。言葉もない。
けれど、その“間”にこめられた気配は、ちゃんと伝わっていた。
まるで──子鳥が、親鳥の肩をつつくように。
その刃は、風に乗って肩のあたりを掠め、ぐるりとひと回りしてから、再び隣に寄り添った。
彼女は、微笑んだ。
言葉ではうまく言えないけれど、そこには確かに“ありがとう”の想いがこもっていた。
「……そっか、来てくれるんだね」
応えるように、鋭く尖った輪郭が、わずかに震える。
それは無機のはずなのに、まるで頬を寄せるように、翼の付け根へとそっと滑り寄る。
かすかに光ったライムグリーンの紋が、呼吸のように脈打った。
「じゃあ……行こうか。もう、振り返らないよ」
踏み出した羽ばたきは、迷いのない軌跡を描いて更に上空へ向かう。
そのあとに、鈍色の飛翔体も続く。
すこしぎこちない旋回で風に乗り、けれど必死についてこようとするその様が、
愛おしくて、誇らしくて──。
彼女は振り返らない。
けれど、その胸には、あたたかな“気配”があった。
風が、彼女の頬をなでた。
誰かのように。かつて、自分を救ってくれた、あの風のように。
──次の風が、呼んでいる。
風がそっと運ぶのは、新たな旅人との出会い。
その物語が、どこかで静かに始まろうとしている。
それは──
「月明かりの下、命を宿した聖剣と共に歩く少年。
その刃は問いかける、戦うことと、生きることの違いは?
夜空を背負いながら、彼はまだ名もない旅を続けている」
それは──
「深い森の奥、緑の髪に風を宿した少女。
細く華奢な体躯。長く尖った耳に、亡き家族の声が届くたび、瞳に復讐の火が灯る。
憎しみに囚われながらも、彼女の祈りは、いまも誰かを守ろうとしている」
それは──
「廃墟に降り立つ、黄金の髪と純白の翼を持つ無垢なる存在。
大いなる意志によって生まれた兵器は、
ただ一つの願い──“優しさとは何か”を知るために空を仰いでいた」
それらの物語が、いつか語られるのか。
あるいは、語られることすらないのか──それは風だけが知っている。
風は、自らを語らない。
ただ吹き抜け、ただ通り過ぎ、それでも確かに何かを残す。
物語もまた、風と同じ。
だからこそ——
それを読んだ君のなかに、風が宿る。
そして、物語と共に歩み終えたとき。
——君は、風に還る。
——エピローグ・完——




