第二部 第八章 後編 ―記憶をめぐる瞳―
「うむ」
ヤオは、すぅ……と息を吸い込んだ後、長く細い指を差し出した。
「では……この羽根に、触れさせてくれ」
ヤオの言葉と共に、その手がそっと伸びる。
節の浮いた長い指が、飛鳥の翼にかすかに触れる。
その瞬間——ぞくり、と背筋を這うような感覚が走った。冷たいのに、熱い。
まるで、ぬるりとした蛇の体温が、皮膚の奥へと染み込んでくるかのようだった。
「……いくぞ。感じた熱の向こうに、真の記憶は眠っとる。
ワシの“目”で、その熱を嗅ぎ取る。……お主の奥底に残る、魂の熱の軌跡をな」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
世界の重さが反転する。
足元の石が遠ざかり、光がにじみ、空気が巻き戻っていく。
飛鳥の意識は——記憶の奥へ、引きずり込まれていった。
(……これは……)
***
最初に見えたのは、青く澄んだ空だった。
いや、正確には——空を切る視界。風を裂く羽ばたき。
木々の隙間を滑り抜け、水面を掠めて飛ぶ——小さな鳥の感覚。
それは、限りなく軽くて、限りなく自由な記憶だった。
空を裂き、枝から枝へと弾むように舞う。
風の中に“意志”はなかった。ただ、“生きる”という本能のままに羽ばたく——
それが、カワセミだった頃の、最初の記憶。
(……気持ち、いい……)
飛鳥の心は、その感覚に一度、すべてを委ねそうになった。
けれど——
どこかで、引き戻す“重さ”があった。
風だけではない。翼だけでは届かない、もうひとつの重み。
ふと、水面に映る自分の影が揺れる。その影に重なるように、もうひとつの像が現れる。
——人間の少女。
目の前に、少女の影が現れる。
自分と同じ顔。でも、少しだけ違う——もっと幼く、もっと生きている“誰か”。
その姿は、記憶の中でずっと忘れられていた光景を、次々に呼び起こしていった。
──幼い日の光。
緩やかな丘。手を引いてくれる、あたたかな父の手。
花の冠を作ってくれた母の微笑。
走り回った草原。裸足の足に草が触れる感覚。
夕暮れ時、だんだんと暗くなる道を、家へと帰る途中。
そのすべてが、あの子のものだった。
それは確かに、少女の小さな“しあわせ”だった。
でも、その日々は——突然、終わった。
赤く染まった空。
焚き火ではない火の手。
泣き声より大きい怒号と、潰されるような音。
——何が起きたのか、理解する前に。
世界は焼けた。
笑い声は消えた。
居場所も、両親の声も、ぬくもりも。
そして、彼女の魂は風に溶けて、空を漂う。
いつだったか、ロメラに聞いた言葉を思い出した。
『精霊——死者の魂が溶けて、そうなる事もある』
本来なら、自然に還るはずだったその風は——
白衣の男によって見つけられた。
「少女の魂が、風となった精霊か。素材としては申し分ない」
そう言って、彼は風の精霊の魂を、青い羽根の小鳥——カワセミに“閉じ込めた”。
意思も、名前も、形もないまま、
ただ鳥の体に縛られた魂は、空を飛びながらも、風にはなれなかった。
——風に還りたかった。
でも、風になれなかった。
そうして、その鳥が、今の自分の“身体”になった。
(あたし……あの子だったんだ)
少女の記憶と、カワセミの記憶が重なっていく。
風になりそこねた囁きが、今、飛鳥の中で名を取り戻す。
***
——足が、地に着いた感覚があった。
飛鳥は、暗く閉ざされた空間に降り立っていた。
風も音もない、静かな場所。足元にだけ、淡い光が落ちている。
ゆっくりと、景色が変わり始める。
焦げた木々。焼けた家屋。赤く染まった空。
それは、“あの子”が最後に見た光景だった。
立ち昇る煙の向こうに、ひとりの少女が立っていた。
——飛鳥と同じ顔の、風になれなかった少女。
その目が、まっすぐに飛鳥を睨んでいた。
悲しみと怒りと、どうしようもない絶望が、すべて詰まった瞳で。
飛鳥は、静かに一歩、足を踏み出した。
その瞬間——
「かえして……!」
あの子が叫ぶ。
「かえして、わたしの身体を! 家族を! 名前を!!」
その叫びは、静かな風を切り裂いた。
飛鳥は、一歩、後ずさる。
胸の奥が、焼けた家の跡のように、ヒリヒリと痛んだ。
「……あたしは……」
言いかけて、言葉がつまる。
でも——逃げなかった。
ゆっくりと、一歩踏み出す。
「……たしかに、あたしは、あなたの“全部”じゃない。
でも、あなたの“かけら”と、カワセミの記憶と……
それに、今までみんなに出会って、少しずつできた“あたし”が、今ここにいる」
影の少女は、黙っていた。
睨んでいたはずのその瞳が、ふるふると揺れる。
泣き顔のまま、ゆっくりと——泣きそうな微笑みに変わっていった。
ひとつ、涙が、頬を伝う。
「……なら、ちゃんと生きてね。——あたしのぶんも」
その声には、怒りの気配はもう滲まない。
ただ、願うように、優しく響いていた。
少女は、くるりと背を向ける。
いつのまにか、少し離れた場所に二つの影があった。
優しそうな女性。どこか飛鳥に似た面影。
背の高い男性。懐かしい気配をまとったその人。
少女は、ゆっくりと歩いていく。
ふたりはそっと膝を折り、両腕を広げて——
少女を包むように、しっかりと抱きしめた。
三人は抱き合ったまま、
そっと顔だけを飛鳥の方へ向ける。
表情は、はっきりとは見えなかった。
けれど、なんとなく分かった。
きっと、あの悲しみと微笑みが、混ざり合ったような顔だ。
そして——
三人の姿は、風に溶けていった。
あたしが、“あたし”になったことで。
あの子は、あたしという檻から放たれて——きっと、風に還れた。
本当のところなんて、分からない。
でも、今は——そう願って、いい気がする。
***
——風が、止んだ。
ゆるやかな光が、まぶたの裏を満たす。
耳の奥で、心音がゆっくりと戻ってくる。
空気の重さ。洞窟の匂い。足の裏の冷たさ。
飛鳥は、ゆっくりと目を開けた。
岩に囲まれた薄暗い空間が、戻ってくる。
天井の亀裂から漏れる細い光が、まるで生還を祝うかのように、ほのかに差し込んでいた。
正面には、変わらずヤオが座していた。
銀の髪は微動だにせず、白く分厚い蛇の尾が静かにとぐろを巻いている。
ただ、彼女の目だけが、深く、優しく、飛鳥を見つめていた。
「……視たか」
その声は、前よりもわずかに柔らかかった。
飛鳥は、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……うん。
思い出しても、もう戻れないって……ちゃんと分かった。
でも、いまのあたしは、それでもここにいる。ちゃんと、生きてる」
飛鳥は、そっと自分の胸に手をあてる。
そこには、誰かの悲しみと、自分の意志。
かつて空を飛んだ鳥の感覚と、風になれなかった少女の囁き。
そして、今、ここに立つ“あたし”の鼓動があった。
——もう、誰かの影じゃない。
風にも、鳥にも、少女にも、ただ“あたし”として。
ヤオは、そんな飛鳥をしばらく見つめた後、ゆっくりと目を閉じた。
「……ならば、それでよい。
お主が“己の形”で歩むのなら、ワシの目に映る過去もまた、意味を持つ」
その声には、確かに敬意があった。
***
「……そうじゃな。選別に、いろいろと教えてやろう。
まずは、お主の出自に関する話じゃ」
ヤオはポツポツと語り出した。
「ワシの名は、LCで言えば“LC-9”。
お主は“LC-10”。ちょうどその一つ前に造られた試験体じゃな」
飛鳥は、驚いたように目を見開いた。
「……あたしの、すぐ前に……」
「そうじゃ。ワシは“器造型”の扱いを受けておる。
本来なら、“肉体だけ”を造る予定だった。そこに、魂を入れるかどうかは後の話——ただの“器”としてな」
彼女の尾が、かすかに石の床を擦った。
「じゃが……依代として使われたのが、“蛇神”の一部——神格に近い存在の、ほんの断片じゃった。
神でも霊でもない、けれど人が祈り、畏れ、すがったもの。その記憶と自我の欠片が、ワシの中に残った」
ロメラが息を呑む。飛鳥も、何かを悟るように黙って聞いていた。
「そのせいで、ワシには“自我”が芽生えた。
人造の肉体に、魂の“枠”を与え、そこに精霊を閉じ込めて“存在”を造るという構想——
それが、後の“融合型”の原型となった。ワシは……その過渡期の存在だったわけじゃ」
「……だから、あたしは……あなたに会う必要があったんだね」
ヤオが頷く。彼女のまぶたがゆるやかに閉じられ、そしてまた、静かに開かれた。
「……そして、もう一つ。お主が気にしておる、あの狐。今は九重と名乗っておるんじゃったか——。
彼奴のことじゃがな」
その名が出た瞬間、飛鳥は背筋を正し、ノーニャがピクリと反応する。
ウェーリーの尾鰭が、すこしだけ揺れた。
彼女は目を細める。——まるで、遠い記憶をたぐるように。
「ココ姉の!?ココ姉、自分の事はあんまり話してくれないにゃ」
「……あやつとは、古い付き合いじゃ。
まあ、“同郷”と呼ぶには複雑じゃがな。」
「遥か昔の話じゃ。
この大陸の東の果て。そこにある古く大きな国。
ワシは——いや、正確にはこの身体の元となった邪神か——。それは、かの地で、神格の端くれとして祀られておった存在じゃ。
……だが、あやつは、神などと祀られる事に、早くから飽いていたのかもしれんの。
同じく神格の端くれではあるが、ときに街へ、ときには帝辛の妃として、人に紛れておった。"蘇妲"などと名乗っていた事もあったか...」
ヤオの目に、かすかに懐かしさが浮かぶ。
「時が流れ、あやつはその身を、さらに東の島国へと渡した。
ワシはそのまま地に眠り、あやつは旅を選んだ——
まさか、あの男の元でLC-02などと呼ばれて、再び会うとは思わなんだ」
ロメラが、大きくおどけて唸った。
「Wow!つまり、あのLady Chill(冷酷狐)は、G.T.W(理の外のトンデモ娘)ってこった」
「当然じゃ。あやつの本体は、“金毛白面九尾の狐”。
あの男が手に入れたのは、ほんの毛の一本じゃがな。
それでも、格が違うわ」
飛鳥が、思わず息を呑む。
「……でも、なんで“LC-02”なんて……」
「その姿を、式神の器に封じられたからじゃ。
式神は本来、主の命に従う存在——あやつも、形式上は従っておる。
……が、そこはあの狐らしいというか……」
ヤオは尾をゆるりとたわめ、小さく笑った。
「かなりの、お節介でな。面倒見が良すぎるんじゃ、あやつは」
まるで姉を語る妹のような、どこか懐かしげな声音だった。
「……そもそも、あやつがその気になれば、白衣の男ごとき、指先ひとつで吹っ飛ばせるのじゃぞ? ほれ、こんなふうに……」
ヤオは小さな拳をぽふっと握ってから、尾の先で空中に小石を跳ね上げた。
「“ばこぉん”じゃ」
拳で軽く石を突く。それだけで小石が砂の様に崩れた。
ロメラが思わず吹き出す。
「ちょ、それ……マジにできる系のやつかよ……!」
ノーニャが、なぜか誇らしげに胸を張る。
「さすが、ココ姉!」
「できるとも。あやつ、昔一度な、あの男が笑えん冗談を飛ばした時……」
そこでヤオは、言葉を切り、小さく肩をすくめた。
「扇子で“ぴしっ”と額を打っただけで、あやつの三日分の記憶が吹き飛ばしたそうじゃ」
「Crazy!」
ロメラは軽快に笑った。
飛鳥は、思わず口を開いた。
「……そんなに、強いの……?」
「強さとは、力の話だけではない。
己の在り方を、最後まで“自分で選べる”者こそ、真に強い者じゃ」
ヤオはくすっと微笑む。
「……じゃがの。それでも、あやつは“命令”には従う。ちゃんと、従うんじゃよ。
それが式神というものでな。主の命には逆らわぬ。……ただし、“文字通りに”しか従わん」
そこでヤオの声がひときわ愉快そうに跳ねた。
「『檻の封印を強化せよ』と言われれば、『その後緩めるなとは言われておらぬ』と返す。
『誰も逃すな』と言われれば、『人でも鳥でも無いなら、"誰でも無い"な』と抜け道をこしらえる」
飛鳥が、少し思いつめた顔で呟いた。
「……じゃあ、あたしが檻を出られたのって……」
「そういうことじゃ。……命令の範囲内で、あやつが“導いた”のじゃ。
お主に、“外に出てもよい”と判断した。ワシらにできんことを、あやつはやってのけたのじゃよ」
飛鳥の胸の奥が、じんと熱くなる。
「……やっぱり、優しいんだね……九重」
「優しすぎるんじゃよ。ほんに、困ったもんじゃ」
ヤオは笑いながら、尾をくるんと丸めて自分の膝に乗せた。
「……それでいて、照れ屋でな。“式神”のくせに、人の情に泣くような奴なんじゃ」
ロメラが、からからと笑いながら。
しかし、探るような視線でヤオを見る。
「Velvixen(お上品キツネ)がそれほどのもんだってんなら、BFFのアンタは、どんだけスゴい?」
ヤオは、ふっと息を漏らす。
「まあ……"本体"の力には遠く及ばない。とはいえ、やろうと思えば、ここら一帯を更地にするくらいはできるがの」
「Whoo! Amazing!」
ロメラが指笛でも吹きそうな勢いで茶化すと、ヤオもつられて目を細めた。
「——とはいえ、お主も見たところ、底は知れんがな」
ロメラは小さく肩をすくめただけで、それには応えなかった。
ヤオは、視線を飛鳥に戻す。
そして、思い出したように唇にこぶしを添えて、くすくすと笑い出した。
「……そういえば、もう一つ、お主の“初々しき日々”を見とった者の話でも、してやろうかの」
「へ……?」
飛鳥がきょとんとする横で、ロメラが「来たな」とばかりに身を乗り出す。
「──あれは、湖のほとりのことじゃったかの」
ヤオは思い返すようにまぶたを伏せ、尾で自分の膝をとんと撫でる。
「お主と、あの人間の少年……ティロと申したか。二人して、ほれ、ちと……よさげな空気を纏っておったあの日じゃ」
「えっ……えっ!?」
飛鳥の顔がぱっと赤くなる。肩の羽が小刻みに震えはじめ、反射的に翼を顔の前に立ててしまう。
「な、なんでその話に……!」
「九重のやつめ。お主を、"いつも見守っとる"とか言うとったじゃろ。
……その時も、遠見の術で、ちゃぁんと見とったらしいぞ」
「なっ……っ、うそ、うそぉっ……!?」
飛鳥が顔を翼で完全に覆ってうずくまり、もぞもぞと足指をいじり始めた。耳まで真っ赤だ。
ロメラはもう、腹を抱えて笑っている。
「やっべぇ……マジで趣味わりぃ!Peeping Tomかよアイツ!!」
ヤオも、小さく肩を揺らして笑う。
「じゃがの、あやつなりに、確認しておったのじゃろう。“飛鳥が、ちゃんと心を開ける相手と出会えたか”──それを確かめたかったのじゃよ。……ついでに、少し楽しんでおったのも事実じゃが」
「……うぅ、ひどい……」
飛鳥がぼそっとつぶやくと、そっとそばにいたウェーリーが、ひたり、と彼女の横に座る。尾鰭がゆるく揺れて、静かに飛鳥の背にふれるように巻かれた。
「……アクウェリーナ……」
飛鳥が小声で呼ぶと、ウェーリーはこくんと頷いた。言葉はなくても、そのやさしさは、確かにそこにあった。
ヤオがそれを見て、ふわりと微笑んだ。
「よい仲間じゃの。……ふふ、ワシも少し、混ぜてもらいたくなってきたわい」
「なんだ、お前もオレらのLil'wind's haremに加わりたいのか?」
ロメラがにやっと笑うと、飛鳥はいつもの様に少し頬を染めて膨らませる。
「...な、なにそれぇ!!」
「ま、たまにはこういう、やり取りも……悪ぅない、かの」
そう言って、尾を小さくくるりと丸めたその姿には、
威圧的な蛇神の面影など、もはや薄れている。
ただそこにいたのは、飛鳥たちと笑い合う、
少し背の低い、老人のような変な口調の、銀髪の小さな少女……
***
笑い声と、ふわりとした風がしばらく洞窟の中を包んでいた。
けれど、その余韻が静かに沈んでいく中で——
ヤオは、改めて飛鳥の方を見つめた。
「……さっき、見せた通り。ワシは“過去”を見る“目”を持っておる」
静かな声が、再び空気を引き締める。
「マハの“目”は、“今”を視る千里眼。あの娘は、瞬間を切り取って、すべてを知る」
ロメラが、口元を引き締めて聞き入る。
「そして──お主の“目”は、“未来”を視る目じゃ」
「……未来……?」
飛鳥が、そっと問い返す。ヤオはゆっくりと頷いた。
「そうじゃ。“まだ見えぬ先”を見ようとする意志。それは、目に見える情報ではなく、“心”で感じて、信じようとする力じゃ」
飛鳥は、そっと胸元を握る。
そこには、確かにあたたかな鼓動があった。
「お主は、自分の過去を知り、今を受け止め、それでも“進もう”とした。
その姿がなにより、未来を視る目の証じゃ。……その光は、過去に囚われた者には、絶対に持てぬものじゃよ」
ヤオの言葉が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
過去は消えない。
思い出したものは、なかったことにはならない。
けれど、それでも。
ここに立っている自分は、誰かの残り香だけではない。
鳥でも、風でも、あの子でもなく。
それらすべてを抱えて、今ここにいる“あたし”だった。
飛鳥は、もう一度、ヤオの方を見た。
白い蛇の尾を静かに巻き、洞窟の薄明かりの中に座す少女。
最初に会った時は、どこか遠いものに見えた。
過去を視る目を持つ、深い場所にいる人。
けれど今は、少し違って見えた。
祈りでも、畏れでもなく。
ただ、そこにいる誰かへ向けられた、やわらかい声。
その響きが、胸の奥でふっとほどけた。
「……ありがとう」
飛鳥は、小さく息を吸う。
「ありがとう……ヤオちゃん」
言ってから、飛鳥ははっとした。
ヤオのまぶたが、わずかにぴくりと動いたからだ。
「あ……ご、ごめんなさい」
飛鳥は慌てて翼を少し寄せる。
「ヤオちゃんって呼ばれるの、嫌だった……?」
問いかける声は、思ったより小さくなった。ヤオはしばらく黙っていた。
洞窟の奥で、水滴が落ちる音がする。白い尾の先が、石の上をほんの少しだけ撫でた。
「……ふむ」
やがて、ヤオは指先で自分の頬をとん、と掻いた。
「“ちゃん”付けとは、えらく軽いのう」
「ご、ごめん……」
「謝るでない」
ヤオは少しだけ眉をひそめた。
けれど、その表情は怒っているというより、むずがゆいものをどう扱えばいいか分からないようだった。
「……まあ、ええか」
そう言って、彼女はふっと目を細める。
「娘らしうて、悪くはない」
飛鳥は、胸の奥で詰めていた息をそっと吐いた。
「……よかった」
そのやりとりに、ロメラがくすりと笑って口を挟む。
「じゃあオレは……Snaysnow(白雪蛇)……どうよ?」
「……スネイ……何じゃその……氷菓子みたいな……」
ヤオは一瞬、怪訝そうな顔を浮かべた。
けれど、すぐにぷいと視線を逸らして、小さく吹き出す。
「……ま、悪ぅない。好きに呼ぶがええ」
そこで、ヤオは一度だけ飛鳥を見た。
「呼び名は、まぁ……信頼の証じゃ」
その言葉に、飛鳥もロメラも、ふっと頬をゆるめる。
ヤオの銀髪が、洞窟の光を受けてさらりと揺れた。
「ヤオちゃん」
今度は、少しだけ自然に呼べた。
「あたし、いろんな人に出会って、いろんな気持ちをもらって……それで、やっと今、自分で歩きたいって思えたの」
ロメラが肩越しにぽんと叩き、下を向いて目を伏せたまま声をかける。
「Damn right. That’s the spirit, lil’wind.」
ウェーリーも、尾鰭でそっと空気を撫でるように頷いた。
ヤオは、ふっと息をついて、目を細める。
「……ならば、それでよい。
お主が“己の形”で歩むのなら、ワシの目に映る過去もまた、意味を持つ」
その言葉と共に、ヤオはゆっくりと尾をとぐろに戻し、再び祭壇の石床へと身を沈めた。
「……礼などいらぬ。ワシの役目は、ここまでじゃ。
風の娘よ、“未来”を歩むがよい」
まるで、最初からそこにいた石像のように、ヤオの気配が静かに溶けていく。
ふと、足元のほうで葉がふわりと揺れた。
さっきまでいたノーニャの姿が、いつのまにか見えなくなっていた。
湯気のように、気配だけを残して——
森の奥へと、気まぐれに消えたらしい。
誰もそれを咎めなかったし、追わなかった。
ロメラが、ちらりとその方角を見て、肩をすくめる。
「あのWhiskers、……アイツらしいわ」
それだけ言って、また前を向いた。
飛鳥は、もう一度、
ヤオに向かって深く頭を下げた。そして、振り返る。
ロメラが親指を立て、にやりと笑う。
「リンド、上出来だぜ。もう胸張って“お前”でいろよ。……ま、張る胸はちっぱいだが...」
「な、なにそれひどっ……!」
その横で、ウェーリーがそっと飛鳥の背中に尾鰭をピトリと重ねる。
笑い声とともに、三人の影が、洞窟の出口へと向かってゆく。
風が、戻っていた。
さっきまでの重たい空気は消え、静かに、優しく。
飛鳥は、もう一度、風を感じる。
“自分はここにいる”
“これが、いまのあたし”
風が、またひとつ吹き抜けた。
あたたかく、どこか名残惜しげに、少女たちの背を押す。
過去を知り、名を呼び合い、繋がった心。
——けれど。
次に吹く風は、もう迷わない。
——次に風の吹く場所は、いよいよ、“終わりを始める場所”。
白衣の男が待つ、あのラボへ。
しかし——扉の奥に眠るは。
心を持たぬ刃。空虚な意思。名を持たぬ剣。
“虚”を纏いし者が、道を塞ぐ......
——つづく




