第二部 第八章 前編 ―絡みつく記憶、囁く蛇―
子どもたちの声が、もう届かなくなって久しかった。
草の匂い。石と土のざらつき。夕陽に照らされた丘の起伏。
そして、風の抜ける音が、まだどこかに笑い声の残響を運んできそうな気がして——
飛鳥は、歩きながら何度も後ろを振り返っていた。
誰かが、もう一度、追いかけてきてくれるような。
けれど、そこにあるのは空と草原だけだった。
(……バイバイ、だね)
胸の奥に、じんわりと残る温もりと名残惜しさ。
それと一緒に思い出す——マハ。
あの、ちっちゃくて不思議で、でもどこか、ひどく近く感じた少女のことを。
(……あの子の“目”には、何が見えてたんだろう)
その呟きに答えるように、ロメラの声が聞こえた。
「おい、リンド。あのFlatjack(ぺったん娘)が言ってた場所、そろそろだぜ」
***
視線の先には、風の止んだ斜面が待っていた。
空気が眠っているような、不自然な静けさが支配している。
ロメラは背中にギターを背負い、レザージャケットの裾を払いながら、ラフな足取りで進む。
飛鳥は、ロメラの背を追いながら、尖った足の指で岩肌を慎重にたどっていた。
羽毛の生えた肘から先を時折体に寄せ、不安げに空気を探るように翼をすぼめる。
そのすぐ後ろを、無言のまま歩くのはウェーリー。
青白く光る髪が風に揺れ、無表情の横顔の奥で、尾鰭だけがふわりと感情を伝えていた。
周囲の温度に逆らうように、彼女の周囲にだけ涼しい空気が流れる。
三人は、崩れた石段を抜けて、やがて風化した祠の前に立った。
白く苔むした蛇の彫刻が絡む石柱が、洞窟の入口を挟むように立ち並んでいる。
その奥、岩の口が静かに口を開けていた。まるで、何かを待っているように。
ロメラが足を止め、チラと暗がりを睨みつける。
「ずいぶん、"それっぽい"雰囲気でてるな。Welcome to Hell, block one...って感じか?」
彼女の声は、いつもの軽口のようでいて、微妙に低く抑えられていた。
その一言で、飛鳥もウェーリーも自然と足を止める。
重く沈んだ空気に、三人の呼吸音だけがかすかに混じる。
そして、洞窟の入口へと足を踏み入れたときだった——
闇の奥から、何かが“視て”いる気配が、静かに忍び寄ってきた。
最初に、暗闇の奥で何かがうごめいた。
微かに、ざり……と、岩を這うような乾いた音がする。
飛鳥が思わず立ち止まり、翼をたたむ。
ウェーリーも尾鰭を一瞬だけピタリと止め、じっと奥を見据えた。
やがて、闇の中から——ひとりの少女が現れた。
まず見えたのは、白く淡い肌の上半身だった。
のっそりと這い出てきたその身体は、意外なほど小柄で、幼げな顔立ちをしていた。
眉のところで切り揃えられた前髪に、さらさらと漉かれた長い銀色の髪。
赤みがかった瞳がぼんやりとこちらを見つめていて
——一見すれば、どこか儚く、そして親しみすら覚える。
「……おやおや、まさか本当に来おったか。ふふっ」
声は高くも低くもない、ほんのりとした抑揚で、まるで祭の夜に迷い込んだ旅人を迎える屋台の娘のようだった。
だが——次の瞬間。
その少女の後ろから、岩に沿って何かがずるりと現れた。
蛇だった。
分厚く、艶のない巨大な白い鱗の胴体が、ずるずると洞窟の奥から這い出してくる。
最初は巻き付いたとぐろ一つだったものが、やがて二巻き、三巻きと広がり、視界の奥を静かに覆っていく。
その異形は、ゆっくりと“彼女”とひとつに重なった。
ヤオ——
小柄な少女の上半身と、白い大蛇の胴体を持つ存在。
その姿が完全に現れた瞬間、空気の密度が一気に変わった。
ロメラが、ほんのわずかに眉をひそめる。
「……上はPretty doll(かわい子ちゃん)、下はMonster(ドでかい蛇)...なんつーか、ギャップでビンタされた気分なんだけど」
ヤオはそれにくすりと笑った。
「ふふ、そなたらもなかなかに奇妙な取り合わせよ。……とくに、そこの青白いお嬢さん」
ウェーリーは反応を返さない。尾鰭だけが、わずかに揺れた。
そして、ヤオの瞳が飛鳥に向く。
赤い目が、じっと——まっすぐに飛鳥の奥を見つめていた。
その視線は、体の表面ではなく——もっと奥。
心の奥底、触れてはいけない場所に、そっと指先を差し込むような鋭さを帯びていた。
飛鳥は、思わず呼吸を止めそうになる。
その瞬間、ヤオがぽつりと呟いた。
「……聞いてた話と違うな。狐の奴がおらん様じゃが、息災か?」
飛鳥は、一瞬きょとんとし、それからはっと目を見開く。
「……九重のこと、知ってるの?」
ヤオは、ゆっくりと頷いた。
「まあ、腐れ縁というか……同郷でな。あやつは昔から、面倒な奴じゃった」
ロメラが、思わず口を挟む。
「Wait, wait。あんた、みたところ器造型だろ?
オレたちに故郷なんざねぇはずだが...」
ヤオの目が、ふっと細められる。
どこか懐かしさと、少しの倦怠——
とても年老いた者が、昔を語るときの静けさだった。
「……そこは、色々と複雑でな。なにから話せばよいか……」
蛇の尾が、ざり……と音を立てて微かに動く。その擦過音だけが、沈黙の中で生まれる唯一のノイズだった。
ヤオは視線をロメラから飛鳥へと移し、穏やかに口を開く。
「ワシは、“器”として造られた。確かにな。
じゃが、その器の中には、偶然にも封じられてしまった“魂”があった……」
飛鳥の胸がきゅっと縮まる。どこかで聞いたような言葉、そして似た匂い。
「……あなたの中には、誰かの心……誰かの記憶があるの?」
ヤオは、静かに頷いた。
「あるとも。名も、姿も、とうに失せたがな。
けれど、ワシの中に、その残響は今も渦巻いとる。……まるで、風になり損ねた囁きのようにな」
その口調には、哀しみでもなく、誇りでもなく——ただ、受け入れた者の静けさがあった。
「お主も同じであろう? 風の娘」
飛鳥は、目を瞬かせる。
けれどその直後、ヤオの声がさらに深く、胸の奥を刺すように響いた。
「お主の中には、相反する二つの魂……二つの記憶が宿っているはずじゃ。
一つは、風に乗り、空を舞っていた“小さき鳥”の記憶。
もう一つは、人として、誰かと共に歩き、誰かを想った“かつての少女”の記憶」
飛鳥の瞳が、ふっと揺れる。
思い出す。
木々の間をすり抜けるように滑空していた“あの感覚”。
それと同時に——街の酒場で、人々が輪になって笑っていたあのとき、どうしようもなく懐かしくて、胸がぎゅっと締めつけられた感覚。
あの丘の上で、風に導かれるように見た“誰かの手に引かれていた幼い記憶。あのときも、胸の奥で確かに何かが疼いていた。
鳥でも精霊でも、きっと持ち得ぬはずの記憶。
人のみが持つはずの、人の温もりに焦がれる感覚。
——あれは、あたしのものだったんだ。
「……心当たりは、あるの」
ぽつりと漏れた言葉に、ヤオの目がふわりと細められた。
「ほう……やはり、そうか。
心当たりはあるか——風の娘よ。
その記憶こそが、“お主という存在”を繋ぎ合わせる糸じゃ」
ヤオは、わずかに表情を動かす。
「ワシは蛇の化身。
この二つの目とは別に、新月の夜のみ使える、もう一つ"目"を持っておる。
もっともマハの千里眼とやらとは、違うがの——
この“目”は、"魂の熱"を感じ取れる。魂が辿った道のりに温もりを残しておる場所を、熱の匂いで嗅ぎ分け、人の記憶に潜る。皮膚の下、心の下——もっともっと深くに」
その声は、どこか湿り気を帯びていた。
ひとたび絡め取ったものを、奥へ奥へと引きずり込むような——まさに蛇の囁き。
「……お主が知らずに抱えとる記憶も、感情も……
そのすべてを、“熱の残り香”として、ワシは辿れる。
けれど、の……過去は甘くはない。
見たものは、戻れぬものとなることもある」
彼女は、じっと飛鳥を見据える。
まるで、熱を帯びた心の奥を——ピット器官で正確に捉える蛇のように。
その言葉に、その視線に、飛鳥の視線が揺れる。
「……見えるの?」
「視えるとも。お主が望めば、深く、奥底まで」
飛鳥はそっと一歩前へ出る。
翼が、暗がりの中で静かに揺れる。
「……もし、視えるのなら……見てほしい。
あたしが、何者だったのか。“いまのあたし”になる前に、何があったのかを」
ヤオは、飛鳥の決意を静かに見つめたまま、ふわりと瞼を伏せる。
「……よいのか?
知るということは、時に自らを裂く刃ともなる。
……記憶は、己のものではなくとも、痛みはお主自身の痛みとなる」
飛鳥は、迷いなく頷いた。
「……うん。
知らないままじゃ、“いまのあたし”も、本当じゃない気がするから」
短く、深い静寂が降りる。
ロメラが静寂を切る。
「新月...てことは、今日じゃ無理ってことか」
「うむ。今は小望月。あと……十四日と少しじゃな」
ヤオが振り返る。その唇に浮かんだのは、気まぐれな微笑み。
「それまでの間、お主らの素性、確かめさせてもらうとしようかの。
嘘偽りない、“風の娘”であるかどうか」
ヤオは、うむ、と喉を鳴らし、祠の奥へと姿を消す。
その背中が見えなくなっても、彼女の気配は深く、地を這うように残っていた。
ロメラが、腕を組みながらぼそりとつぶやく。
「……なんか、クセつよそうなヤツきたな……」
飛鳥は、小さく笑った。
(でも——きっと、この人なら。あたしのこと、何か知ってる)
***
夕刻、ヤオは、祠の裏手にある獣道を案内するように進みながら、飛鳥たちを振り返らずに言った。
「もとは古い住居跡じゃ。遺跡のようなもんじゃが、まぁ、最低限の雨風は凌げる」
たどり着いたのは、小さな崖に寄り添うように建っていた、石組みの柱と屋根だけが残る空間だった。
「ここ……前に誰かが住んでたの?」
飛鳥が問いかけると、ヤオは木の枝を払いながら答えた。
「かなり昔にな。戦やらなんやらで、棄てられた村の外れよ。
けど、地脈はまだ生きとる。そこに湧く泉もある。水場には困らんじゃろ」
水音がする方へ視線を向けると、苔むした岩の間から、細い清水が湧き出していた。
そこはほんのりと夕陽を集めるようにオレンジ色に光っている。
「すごい……綺麗……」
「ほれ、好きに使えばええ」
そう言ってヤオは、さらりとその場を飛鳥たちに譲り、自らは岩陰へと姿を消した。
***
翌日。
飛鳥たちは、村からもらってきた毛布や布、森から運んだ木材を使って、小さなテントを組み上げていた。
ロメラは上着を脱いでチューブトップ姿になりながら、手際よくロープを張り、簡素な入り口を整える。
「おっしゃ、これで一丁上がり! どうだい、Lil’wind’s Nestってとこかね?」
「ロメラ……それ、ちょっとダサ……」
「うるせぇ、こう言うのはVibesが大事だ」
飛鳥は笑いながら、折りたたんだ布を下に敷いていく。
ウェーリーは泉の水を静かに操り、小さな水たまりを清め、洗い場と飲用スペースに分けていた。
「……ちょっとした暮らし、だね」
「うむ!村の野営地(最終形態)よりゃLack of cozyって感じだが、まあこんなモンだろ」
その日の夜、三人はテントの中でも寄り添って過ごした。
飛鳥は、ロメラの革ジャケットを羽織りながら、ウェーリーの尾鰭にもたれて眠り、風の音に耳を澄ませていた。
***
翌朝。
霧が出ていて、草葉に水滴が張りつき、どこかひんやりと湿気を含んだ空気が漂っていた。
飛鳥は泉の水で顔を洗い、まだ眠そうな目をこすりながら辺りを見回した。
「……あれ?」
ウェーリーの尾鰭の先が、静かに揺れていた。
その視線の先、焚き火跡のまわりに散らばった小枝の上に、何かの足跡が残っていた。
「……鹿とか、かな」
飛鳥は膝をつき、翼の先でそっと地面をなぞった。
違う。
蹄の形ではない。
丸く、柔らかそうな肉球の跡。それが幾つも、ばらばらに交差している。
「……お、おおかみ?」
ロメラが木陰から現れ、片手に残り物のパンをかじりながら言った。
「いや、こりゃ狼じゃねぇな。見ろよ、爪がねぇ。肉球だけ……で、ここ、飛び跳ねたあとがある」
彼女はギターケースを背中から降ろして、じっと跡を見つめる。
「何か、俺たちのとこ覗きに来てたな……しかも、夜のうちに」
「……怖い動物?」
「さぁな。けど、妙に“気配を隠すのが上手い”気がするな」
飛鳥は不安げに翼を寄せた。
泉の水面が、ほんのかすかに揺れている。
(……なんだろう、この感じ)
飛鳥は泉のほとりで小さく身をすくめ、しばらく足跡を見つめていた。
霧のせいか、肌寒さのせいか、それとも別のなにかの気配か——。
「……まさか、あいつじゃねぇよな」
ロメラがふと呟いた。
「え?」
「いや……なんとなく、前にも似たような足跡を見た気がしてな。ほら、アレだよ……猫っぽいやつで、やたら跳ね回る……」
「………………」
そのとき、飛鳥の瞳がぴたりと止まった。
泉の対岸、茂みの中——
黒く、小さな影が、こちらを覗き込んでいた。
「……ノ、ノーニャ……?」
その瞬間、赤い影がぴょんと跳ねて、石の上に姿を現した。
猫耳のような跳ね毛。
尖った瞳と、鋭く引き締まった手足。
それでいて、どこかあどけない動きで、尻尾を振っていた。
「……チッ。やっぱバレたか。相変わらず目が良いにゃ」
飛鳥の目が驚きに見開かれ、翼がびくんと震える。
「なんで、ここに……!?」
「決まってんだろ。オメーらが、ずいぶん経っても一向にラボに来ねぇからだよ。……まあ、ちょっと、ココ姉から頼まれた手前もあって、マハから場所聞き出したんだにゃ」
尻尾をくるりと回し、ノーニャは草の上にぺたりと座り込んだ。
ロメラが、顎を引いてじろりと見やる。
「……ちっ、Creeper Cat(ストーカー猫)かよ」
「うっせえゾンビ。別にオメーのケツを追ってきたわけじゃねぇにゃ」
「オレのどこ見てたんだか、まったく……」
尾鰭の揺れる音がして、ウェーリーがそっと飛鳥の背後に寄ってきた。
ノーニャはその視線に一瞬びくっとしたものの、ふいとそっぽを向いた。
飛鳥は、そんなノーニャの姿を見て、小さく笑った。
「……来てくれて、嬉しいよ」
その言葉に、ノーニャはぴたりと動きを止めた。
そして、肩越しにちらっと飛鳥を振り返る。
「……ふ、ふん。……ま、別に……心配したとかじゃねぇからな?」
——その顔は、ほんの少し赤くなっていた。
そして——
訪れる新月と、その先の“記憶の旅”へと向かう準備は、静かに、しかし確実に進んでいく。
——つづく




