第二部 閑話3 -迷子の森と、いたずら猫 〜ヴェル編〜-
時は少し、戻る。
ノーニャとの別れのあと、飛鳥たちが草原を進み出した、その直後のこと——
一人きりで霧のなかに取り残された、小さな蜘蛛の少女は、まだそこにいた。
六本の細い蜘蛛の足で、地面を少しずつ踏みながら、よろよろと歩き続ける。
彼女は一晩中、八つの瞳で遠くを見つめながら、
考えていた。
ひとりで、ずっと考えていた。
————
——飛鳥ちゃんが花をくれたとき、ワタシは嬉しくて仕方がなかった。
だから、同じように喜ばせたくて、小鳥を捕まえて飾ってプレゼントした。
けれどそのとき、飛鳥ちゃんは悲しそうな顔をしてた。
それでも、飛鳥ちゃんは最後に微笑んでくれた。
「もうしないでね......でも、ありがとう」
って、泣きそうな顔で微笑んでくれた。
————
ロメラの真似をして、飛鳥ちゃんを突き飛ばして、
ロメラに怒られた時も。
「ヴェルちゃん、あたしは大丈夫だよ」って。
つらそうに微笑んでくれた。
————
なのに、ノーニャを殺そうとした時。
そんな飛鳥ちゃんが、あんなに怯えてた。
つらそうに、悲しそうに、ワタシの名前を呼んだ。
————
何が怖かったのか、つらかったのか、悲しかったのか。
ワタシにはわからない。
でももう、飛鳥ちゃんに、あんな顔をさせたくない。
いや、させちゃいけない。
そして、今度こそ。
——心から笑わせてあげたい。
————
だから考えないと。
なにがダメだったのか、考えないと。
邪魔だったから殺すって事がダメなのか?
——違う。
以前、飛鳥ちゃんを襲ってたハチを殺した時、
飛鳥ちゃんは、ありがとうって言ってくれた。
じゃあ、身体が大きい生き物は殺しちゃダメなのか?
——違う。
ロメラが、「買い出しに行った時、村で暴れてた大猪を仕留めて感謝された」って話をしてた事がある。
じゃあ、ノーニャが喋れるから、殺しちゃダメなのか?
——違う。
ウェーリーちゃんは喋れないけど、殺しちゃダメだ。
それくらいはワタシにもわかる。
わからない。
考えすぎて気持ちが悪い。
頭が熱をもって、ズキズキと痛む。
さっきから、ずっと吐き気がする。
でも、考えないとダメだ...
視界がもうフラフラするけど、脚に力も入らないけど、
なにが悪かったのか考えないと...
考え続けないと...
みんなと同じにならないと...
みんなと同じ様に考えられる様にならないと...
みんなと同じ気持ちで笑ったり、泣いたりできる様にならないと...
だって...そうしないと...
——飛鳥ちゃんと一緒にいられない。
***
ヴェルの視界が白み、意識が飛びそうになる。
そのときだった。
ぼう——っと。
霧の向こう、遠くに青い光が灯った。
ヴェルは、立ち止まり、そっと顔を上げた。
霧をかきわけ、ゆっくりと近づいてくる影。
それは——
しなやかな体躯。
滑らかな翼。
優雅に揺れる尾鰭。
そして、額には柔らかく輝く角。
幻想的で、この世のものとは思えない美しさだった。
ヴェルは、思わず息を呑んだ。
その姿は、
どこまでも静かで、
どこまでも——あたたかかった。
彼女は、ヴェルを見下ろした。
深い、深い瞳で。
ヴェルは、自分の悲しみを一瞬忘れ、ただ、見惚れた。
頭痛が、吐き気が、ふらつきが、
そして何より、胸をねじ切りそうなくらい広がっている
心の痛みが、
ほんのひととき、ふわりとほどけた気がした。
彼女は、小さく、そっとうなずく。
それだけで、ヴェルには伝わった。
(……一緒に...行こう?)
(……大丈夫だから)
言葉はない。
でも、確かに彼女はそう言っていた。
ヴェルは、こくんと頷いた。
彼女が、ふわりと翼を広げた。
まるで、道を指し示すかのように。
ヴェルは、その後ろを追った。
ふらつきながら、それでも、必死に。
蒼い光に導かれ、霧の中を進んでいった。
***
霧の中。やがて、視界がふっと開けた。
ヴェルが辿り着いたのは、
朝日に照らされた、崩れかけた庭園のような場所だった。
そして——
ノーニャがそこに、いた。
彼女はヴェルに気付くと、素早く身を翻して一歩下り。
手を地につけて四つ脚となり、背中の毛を逆立て、ぴん、と尻尾を膨らませた。
ぎらり、と鋭い金の瞳。
低い姿勢で構え、牙をむき出しにして、「フー‼︎!」と唸る...
「ーッ!」
ノーニャの獣の本能が、本気で自分を"敵"と認識している。
ヴェルは、その反応にショックを受けて、その場から動けなくなり、
目をギュッとつむり、小さく縮こまる。
(……やっぱり……ワタシは……)
胸の中に、また痛みが広がろうとした、そのとき——
蒼き翼の彼女が、すっと、前に出た。
ヴェルとノーニャの間に、そっと翼を差し入れ、静かに立つ。
青白い鱗が、陽光を反射して輝く。
彼女は、ノーニャに視線を向けた。
その瞳は、ノーニャとヴェル双方への慈しみ、そして哀しみがあった。
言葉はない。けれど、確かに伝わる。
(……この子を、責めないであげて)
(……この子を......見捨てないであげて)
ノーニャは、彼女を睨み返した。
一度、二度、牙をぎりぎりと噛みしめる。
けれど——やがて、ふっと目を伏せた。
「……チッ。仕方ねぇにゃ……」
小さな声で吐き捨てるように言うと、ノーニャは臨戦の構えを解いた。
尻尾をぴこぴこと揺らしながら、それでもまだ、警戒を完全には解けていない顔で。
ヴェルは、おずおずと、ノーニャに目線を向ける。
蒼き翼の彼女は、何も言わず、ただ、そっと、細い手でヴェルの背を押した。
ヴェルは、一歩前に出た。
震える声で、ぽつりと呟く。
「……ごめんなさい……」
ノーニャは、じっと見つめ返した。
その視線は、まだ少し鋭かったけれど——
***
しばらく、互いに何も言わずに、ただじっと見つめ合っていた。
やがて——ノーニャは、ふいっと顔を背けた。
尻尾をぴこぴこと揺らしながら、ぶっきらぼうな声で言った。
「……オイラは、怒ってる。
正直、めちゃくちゃムカついてる」
その言葉に、ヴェルはぴたりと固まった。
でも、ノーニャは続けた。
「だけど……オマエは、知らなかっただけにゃ」
ちらりとヴェルを見たノーニャの目には、怒りだけではない、何かが宿っていた。
「オマエの本性は、生まれつきのもんだ。たぶん、一生変わらにゃい」
その言葉はヴェルの心をチクリと刺した。
彼女はぐっと小さく拳を握る。
「生まれつき、"狩る"ことに向いてる。誰かを傷つけることに、本能的な恐れも、ためらいもねぇ」
ノーニャは、ふっ、と優しく目を細めた。
「それは……たぶん、どうにもならねー...」
ヴェルは唇を噛み締める。胸の痛みが広がり、瞳に再び涙が滲む。
「それでも。
——誰かと一緒にいるための"スキル"なら、今から身につけられる」
その言葉を聞き、ヴェルの目には僅かな希望と、困惑の光が宿る。
「"やっていいこと"と"やっちゃいけないこと"。
それを、ひとつひとつ、頭で覚えて、行動で覚えて——
少しずつ、頑張って、積み重ねていくしかねぇ」
彼女は続ける。
「それは、とても、とても辛ぇ道だ。
その過程で、きっとオマエはまた沢山傷つく。そして、また誰かを傷つけるかもしれねぇ」
ノーニャは、ふう、と小さく息を吐いた。
「だからオイラは、オマエに、このまま一人で生きていくほうを、薦める」
「その方が、楽だ。
これ以上、誰にも傷つけられない。
誰も傷つけない。
——それに、誰かを傷つけた事で自分を責める事も無くなる」
ヴェルは、再びぐっと唇を噛み、拳をぎゅっと握りしめた。
ノーニャは、静かに言った。
「選ぶのは、オマエ自身だにゃ」
しん——と、庭園に静寂が降りた。
ヴェルは、ぎゅっと両手を胸の前に握りしめたまま、震えた。
思い返す。
飛鳥の笑顔。
九重の微笑み。
ロメラの優しさ。
アクウェリーナの、可愛いしっぽ語。
それから——皆んなと一緒に笑った日々。
同じ気持ちではなかったかもしれない。
心の深いところでは、違ったかもしれない。
でも、確かに。
——確かにみんなと、笑顔を並べた旅。
(……ワタシ……ワタシは……)
ヴェルは、顔を上げた。
潤んだ目で、まっすぐにノーニャを見た。
「……最初は、ただ、一人が寂しかっただけ...
孤独が嫌で、なんとなく誰かと一緒に居たくて...」
彼女は続ける。
「でも、飛鳥ちゃんたちと一緒にいて——
あんなにも温かくて、楽しくて、嬉しくて」
——そして、恋しくて...
「今は、ただ"一人が寂しい"じゃない...
"誰かと一緒に居たい"じゃない...
飛鳥ちゃんと..."飛鳥ちゃんたちと、一緒にいたい"...なんです」
——だから...
「嫌われるのが怖くて、自分が傷つくのが怖くても、
——例え飛鳥ちゃん達を、また傷つけちゃうかもしれないとしても...
ううん、きっとまた、傷つけちゃうとしても」
彼女はつらそうに、唇を噛み締めた。
「これはきっと、自分の事しか考えてない、とっても身勝手な思い。また、みんなとはズレた考えで、きっとホントは不正解」
目に涙が滲む。
「でも、アタシは——アタシは————それでもみんなと一緒に居たい、です!」
彼女の目からは、大粒の涙がボロボロとこぼれる。
そして、声は震えていた。
でも、その声は確かに...
——確かに、強かった。
ノーニャは、しばらくじっとヴェルを見ていた。
そして、ふっと——小さく、笑った。
「……そっかにゃ。」
尻尾をぱたぱたと揺らしながら、
ノーニャは、ふと、蒼い翼の女性に目を向けた。
彼女は、そっと微笑んだ。
——言葉はない。
けれど、ヴェルもノーニャも、はっきりと感じた。
(……頑張りなさい)
ノーニャは、ふっと肩をすくめた。
「あいつ、気取ってるけどにゃ。
みんなのこと、娘か妹みたいに思ってるにゃ。
結局、オイラも、オマエも、飛鳥たちも
——そしてご主人も、みんな仲良しこよしにさせて、丸く収めたいだけだにゃ」
少し拗ねたように、でもどこか誇らしげに、
ノーニャはそう言った。
ヴェルは、胸の奥に、あたたかい何かが灯るのを感じた。
そして——ぱあっと、笑った。
それは、涙に濡れた顔のままの、どこまでも無邪気な笑顔だった。
ヴェルは、きらきらした目で言った。
「ワタシ、みんなに会って、ちゃんと...ごめんなさいって...言って、また一緒に旅をしてって...お願い...します!」
「……それが良いにゃ。」
ノーニャは、うんうんと頷く。
「それがダメだったら...蜘蛛の糸で...ぐるぐる巻きにして、ワタシのお家に閉じ込めて......それで、ずっと一緒に居てもらいます!」
「……それはダメにゃ。」
ノーニャは、ブンブンと首を横に振る。
——沈黙。
あくまでも本気で、無邪気に言ったヴェルの言葉に、ノーニャは頭を抱えた。
「……だから直さねーといけねぇのは、そういうところだ……」
こうして、ヴェルは新たな決意を胸に再出発する。
——ノーニャの心に、確かな不安を残して……。
——つづく




