第二部 第七章 前編 ―風がほどいた、翼の距離―
風が抜ける。
どこまでも澄んだ、山の尾根を越えて吹く風だ。
飛鳥は、小高い丘の縁に立ち、しばらくその風に身を任せていた。
草を押し流す音。光にきらめく蝶の羽。遠くの斜面には、羊のような影がゆったりと草を食んでいる。
彼女の青緑の翼が、風のかすかな抵抗を受けて、ふわりと浮きかける。だが、飛鳥はすぐにそれを抑え、胸の前でたたんだ。
飛鳥の細い鳥の脚で、ここまで登って来るのはずいぶんと息が切れた。
ノーニャに示された道は、深い渓谷を挟んで向こう側へと続いていた。
その先へ進むには、“橋”を渡るしかなかった。
しかし、谷を挟んで架かっていた大きな木橋が、根元からぽっきりと折れ、谷底へと崩れ落ちていた。
向こう岸には渡れず、戻るには遠すぎる。
飛鳥たちは、しばらくのあいだ無言でその光景を見つめていた。
「……あたし、飛べればよかったのにな」
ぽつりと漏らした飛鳥の声に、ロメラが少しだけ前へ出て、崩れた橋の端にしゃがみこむ。
「……断面がまだ新しい。こりゃ、この前の大嵐のときだな」
彼女はそう言って立ち上がると、手についた木くずを払い落とした。
風が吹き抜ける中、谷の向こうに続いていたはずの道だけが、ぽつんと取り残されていた。
「-Actions speak louder than words‼︎-(行動は言葉より雄弁なり!)
とりあえず、渓谷が見渡せるとこまで行ってみっか。
回り道なり、なんなり見えるかもしんねぇしな」
ロメラのその言葉で、丘を登ることになった。
そして——
「あっ、もしかして、あれって……」
少し離れた地形の窪み——、木々に隠れるようにして、灰茶の屋根がいくつか見えた。
民家。煙突。揺れる洗濯物。
そのさらに奥には、小さな畑と、石垣で区切られた家畜小屋のようなものも見える。
自分たちのいる高台から村までは、かなり距離がある。けれど、飛鳥の目には村の隅々までが手に取るように映っていた。
広場で遊ぶ子どもたちの仕草、道を歩く老人の杖の揺れ、家の前で洗濯物を畳む女性の手元まで。
「ねぇ、ロメラ。あそこ、村だと思う」
ぽつりと呟いた声に、背後で草を踏む音。
「おっ!さすがハッチー! よく見つけたな!」
ギターケースを背に、ロメラが顔を覗き込んできた。
「ちょうどいい。しばらく足止め喰らうには物資も心許無ぇしな。近くまで様子見に行くか」
飛鳥たちは、高台を離れてしばらく歩き、
やがて、村の背後にあたる丘の上——木立の中にひっそりとした泉が湧く場所に辿り着いた。
「……ここなら、村から直接は見えないし、夜も野営できそうだな」
ロメラは周囲を見渡しながら頷く。飛鳥もそっと肩をなで下ろした。
「じゃ、オレが先に様子見てくるわ。食料調達もしとく。オマエらはここで待機な」
「ええっ……!? で、でも、そんなことして大丈夫なの?」
飛鳥の声に、ロメラは片手をヒラヒラと振った。
「へーきへーき。前話したろ? オレの根城の近くの街でも人間のフリして買い出ししてたって。慣れたもんよ」
「そっか……でも、お金とかあるの?」
「-Make do with what you have-…“持ってるもんで、最善を尽くせ”…さ」
そう言って、ロメラは背中のギターケースをポンと叩いた。
「コイツがあれば、その日の飯くらいは、大抵なんとかなる」
風に吹かれながら、ロメラの紫がかった髪が揺れる。
「んじゃ、ちょっくら演奏してくっか。
たまには“人間らしい”音も響かせてやんねーとな。
そっちは……悪ぃけど、見張りと留守番、任せたぜ」
「わかってる。……あたし、ここで見てるよ」
「任せろ。今夜はパンとチーズで宴だ!」
彼女は軽く手を振ると、山道をひょいひょいと降りていった。
——飛鳥は、再び視線を村へと戻す。
広場では、子どもたちが輪になって遊んでいた。声は届かないけれど、動きと雰囲気で笑い声が分かる。
その中のひとり。背の低い少年が、後ろ手に手を組みこちらを向いていた。
男の子としては長めの、黒いショート、素焼きの焼き物の様な、褐色の肌。
額にはバンダナを巻き、
目を細め、満面の笑みでニコニコとコチラを見ている...様に見える。
(あれ……?)
飛鳥の居る丘から村までは、まだかなり距離がある。
飛鳥の視力だからこそ、様子がわかるが、普通の人間には到底見えない距離。
向こうに気づかれるはずはない。
——その子はすぐに目を逸らし、笑いながら仲間の輪に戻っていく。
飛鳥は少し首を傾げたが、それ以上は気にせず、翼をたたみなおした。
***
飛鳥は草の上に膝を抱え、高台から、じっと村を見下ろしていた。
木立の間に隠れるように広がる小さな村。
その広場の隅に、ロメラの姿があった。
ボロボロのレザージャケットに、乱れた紫の髪。ギターを抱えて、木箱の上に腰を下ろしている。
飛鳥には、音までは聴こえなかったけれど、彼女は歌ってた。
口元が動き、時に笑い、時に手を振る。
道を行き交う大人たちが、足を止めて振り返る。
子どもたちも、興味深そうに近づいてきて、少し離れたところで輪を作る。
お金を入れたらしい袋が、小さく揺れたのも見えた。
ひとりの男性が何か話しかけ、ロメラは陽気に肩をすくめながら応えている。
(ロメラ、すごいなぁ)
飛鳥は、その様子をニコニコと見つめながら、目を細めた。
服装も、髪も、喋り方も。
どこを取っても目立つはずのロメラが、村人たちに自然に混ざっていた。
その時、ロメラがちらりと高台の方に視線をやる。
——目が合った気がした。
ちょっとだけ、翼を振ってみる。
彼女は、ニッと笑い、ギターの音に合わせて右足で軽くリズムを刻んだ。
飛鳥は思わず、小さく笑ってしまった。
見えてるわけがない距離なのに。
でも、ちゃんと気づいてくれた気がした。
***
草の匂いと、石畳を叩く靴音。
ロメラは村の広場に置かれた木箱の上に腰をかけ、ギターの弦を軽く爪弾いた。
「Alright, kiddos. リクエストあるかぁ?」
笑い声が広がる。
「なんかヘンな言葉!」
「それ、楽器?弦、いっぱいあるねー!」
わらわらと集まってきた子供たちに、ロメラはにやりと笑いながら、親指でギターの弦をピンッと弾いた。
「コレはオレの魂、My Heartstrummerさ。じゃ、今日はおまえらに捧げるスーパーチルなやつを一曲!」
そう言って、軽快なリズムを弾き始める。ギターの音は決して大きくはないが、妙に耳に残るメロディが、広場の空気を和らげていく。
小さな足音が、石畳の上で弾み始める。手拍子の輪が自然に生まれ、ぎこちない踊りと笑い声が、次第に広がっていった。
村の大人たちも遠巻きに立ち止まり、その様子を微笑ましく見守っていた。
***
「……あっ、戻ってきた」
飛鳥は風に耳をすませながら、そっと目を細めた。
高台から伸びる小道の先、森の木立を抜けるようにして、ロメラが相変わらずの足取りで、草を踏みしめているのが見えた。
胸の奥がふっと緩む。無事で、何事もなく帰ってきたことに、思わずほっと息が漏れた。
だが、そのすぐ後ろ。
草の間を、そろそろと揺らすように——小さな影が、いくつも、ついてきていた。
「……え?」
飛鳥は思わず姿勢を正し、目を凝らす。
ロメラの背後に、ひっそりと続く小さな足音。
子どもたちだった。
さっき村の広場で、ギターの音に笑い、声を上げていた、素朴な服の子たち。
そのうちの何人かが、ロメラにそっとついてきていた。
距離を取りながらも、子どもたちは彼女の背中から目を離さずにいた。
草の間をそろそろと進む足取りは慎重で、けれど、好奇心のままに前へと向かっているのが伝わってくる。
ひとりが立ち止まれば、もうひとりが先に進み、またすぐに追いつく。
言葉は交わさずとも、彼らの視線はロメラに向いたままだった。
飛鳥は、少し離れた岩陰から、そっと様子を伺っていた。
ゆるやかに戻ってきたロメラの後ろを——数人の子どもたちが、距離を取りながらもついてきている。
どうやら彼女が演奏していた広場で出会い、後を追ってきたらしい。
ロメラは振り返りもせず、けれどまるで気づいていないはずもなく、ニヤリと口元だけで笑っている。
(……なんで、連れてきちゃうの……?)
飛鳥の心臓が、どくんと跳ねた。
そして、子どもたちの先頭のひとり——褐色の肌にバンダナの少年が、
小さく草をかき分け、飛鳥の姿を見つけた。
「……うわっ!な、なんだ!?こいつ!」
彼の声に反応して、後ろにいた子どもたちも顔を出す。
鳥の翼。羽毛のついた腕。桃色の鱗に覆われた足。
ほんの一瞬、場の空気が凍りついた。
「な、なにあれ……」
「ひと、じゃない……?」
「こわ……っ」
子どもたちは一歩、身を引いた。
飛鳥は、動かなかった。
ただ翼を体に巻きつけるように抱き、じっとその目を見返していた。
(……そっか、そうだよね。びっくり、するよね……)
川のほうで、ぴちゃり、と水の跳ねる音がした。
ふと視線を向けると、少し下った小さな泉の水面が、ほんの少し波打っている。
——そこに、アクウェリーナの姿はなかった。
透き通った水に、溶けるように同化して、気配を消していた。
(アクウェリーナ……)
飛鳥は、心の中でそっと礼を言った。
それでも、ロメラは笑っていた。
「ほら、驚くのも無理ねぇか。
けど、こいつはオレの相棒だ。名前は——」
「……飛鳥、です」
飛鳥が、彼女より先に口を開いた。
声は少し震えていたけれど、逃げるような後ろ姿はどこにもなかった。
「……えっと、その……ごめんね、驚かせて。
でも、危ないことはしないから……」
子どもたちはまだ、草の向こうで身を寄せあっていた。
ロメラが、ひとりの子に目を留める。
「おいおい、そこのちっこいの。オレのライブで、手拍子してくれてたろ?
あの“パタパタのリズム”、よかったぜ」
「えっ……う、うん……」
飛鳥は、もう一度子どもたちに視線を戻す。
そして——翼を、そっとほどいた。
草の上に、羽根のきらめきが広がる。
「……ほんとに、なんにもしないよ。だから……」
ひとりの子が、一歩だけ前に出た。
そして、もう一歩。
その子の後ろから、他の子たちもつられるように近づいてくる。
誰かが、ぽつりと呟いた。
「きれいだね、その羽」
飛鳥の目が、ぱちりと瞬いた。
ロメラに促され、子どもたちは草の上に思い思いに腰を下ろして彼女のギターを囲んだ。
飛鳥はその真ん中、ぎこちなく座ったが、ふいにロメラに目で促された。
「なぁ、ハッチー。こいつら、歌が好きみたいだし……」
ロメラが、軽くギターを鳴らす。
「得意のVocalize、聞かせてやりなよ」
「ええっ!? で、でも...」
ロメラが、パチリと片目をつむる。
飛鳥は、迷いがちに口を開いた。
小さく、ためらいがちな声。
けれど、翼に触れた風のように、澄んでいて、あたたかい。
ロメラのギターがそれを優しく支える。
風の音、葉擦れの音、子供達が息を呑む音。
そのすべてと一緒に、飛鳥の声が空に溶けていく。
誰もしゃべらなかった。
子どもたちはただ、目をまあるくして、じっと彼女の歌を聴いていた。
***
飛鳥の歌が静かに終わった。
しばしの沈黙のあと、小さな手が、そっと彼女の羽に触れた。
「……ふわふわ、してる……」
最初に声をかけたのは、一番幼なそうな少女だった。触れたあと、少し驚いたように笑い、隣の子にそっと耳打ちする。すると、他の子たちも、そろりと近づいてきた。
「さっきの歌つくったの、飛鳥?」
「う、うん……下手じゃなかった?」
「ううん、すごく、きれいだったよ」
そう言った少年が、照れたように笑う。
その声に続くように、少しずつ、距離が縮まっていく。
ただ座っていた輪が、いつの間にか半径を狭めていた。最初に腰を下ろした場所よりも、今の方がずっと近い。誰もそれを意識していないふうで、でも確かに、そこには“受け入れられた空気”が満ちていた。
ロメラはその輪の端で、ギターを弾きながら、あえて何も言わなかった。視線だけで「やるじゃねぇか、ハッチー」と伝えてくる。
飛鳥は、まだ少し戸惑っていた。
けれど、子どもたちの何気ない言葉や仕草が、その胸の奥に静かに染み込んでくる。
(……怖がられると思ってたのに……)
翼が、かすかに震えた。
——どこか、懐かしい感覚だった。
肩が触れそうな距離で笑い合う子どもたち。 その中に自分がいる。
これを確かに、昔感じた事がある。そんな気がした。
誰かが「もう一曲、歌って!」とねだると、別の子が「今度は一緒に歌う!」と声をあげた。
飛鳥は、ゆっくりと頷いた。
そのとき、丘のふもとの泉が、そよ風にさざめいた。
子どもたちの誰かがふと気づき、囁くように言った。
「……あれ、水、なんか……動いた?」
その声に、全員の視線が泉へと向く。
水面が、ふるりと揺れた。
次の瞬間、静かに、ゆっくりと——
まるで霧が水から形を得るように、ひとりの少女の姿が現れた。
濡れた白い肌。流れるような水色の髪。
そして——尾鰭。
「なっ……え……!?」
小さな驚きの声が上がった。
ひとりの女の子が飛鳥の後ろに隠れ、もうひとりはポカンと口を開けて立ち尽くす。
飛鳥は静かに一歩前へ出て、穏やかに口を開いた。
「この子は……わたしたちの仲間だよ。怖くないの」
ウェーリーは無言のまま、尾鰭をそっと左右に揺らす。
頬をなでるように風が吹いた。
その時——
「……っ、でっけ……」
ぼそりとつぶやいたのは、少し年上の男の子だった。
顔を赤くしながら、ウェーリーの胸元から目を逸らせずにいる。
「な、なんか……すごく……やわらかそうっていうか……」
「バッカじゃないの!?」
隣の女の子が、肘で軽く突く。
ウェーリーは一瞬だけ首を傾げて、少年の方に目を向けると——
ふわりと尾鰭を揺らし、やんわりと水しぶきを跳ね返した。
「うわっ、濡れたっ!」
「自業自得でしょ……!」
そんなやり取りが生まれたその場には、もう、最初の緊張はなかった。
子どもたちはおそるおそる、けれど確かに、ウェーリーの方へと歩を進めはじめる。
泉のきらめきの中、尾鰭が優しく揺れ、彼らを受け入れるように輪を描いた。
飛鳥は少しだけ肩の力を抜いて、笑った。
(……ああ、ちゃんと……伝わった)
***
やがて、山の稜線が夕焼けに染まりはじめた。
あたたかい橙と、ほんの少しの寂しさが混ざる時間。
「そろそろ帰らないと……」
誰ともなく、ぽつりと声が漏れた。
「晩ごはん遅れると、またおこられる……」
「うちのばーちゃん、日が沈んだら門閉めるの」
「うわー、やっべ!オレん家、鐘鳴ったらもうだめなやつー!」
立ち上がった子どもたちの顔には、ほんの少し名残惜しさが残っていた。
けれど、それでも——誰ひとりとして、もう飛鳥の姿を怖がってはいなかった。
「また来ても、いい?」
女の子が、そっと飛鳥の翼に触れながら、見上げた。
「……うん。いつでも」
飛鳥が頷くと、子どもたちは嬉しそうに顔をほころばせた。
「ねえ、明日また来ようよ!」
「今度、あのギターの人にも歌ってもらおう!」
「しっぽの子は……どうしようかな……でも、すげー綺麗だったよな」
ちらちらとウェーリーを振り返りながら、子どもたちは丘の下へと駆けていく。
その足取りには、もう不安も怯えもなかった。
飛鳥は、その背中を見送りながら、小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
それは、彼らに対してというより――
この出会いすべてに対する、感謝の言葉だった。
***
夜が訪れ、星がまたたき始める。
焚き火がぱちぱちと音を立て、まばらに虫の声が響いていた。
飛鳥は一人、泉のそばに腰を下ろしていた。
草の匂い、風の音、そして……静けさ。
今日一日のことが、少しずつ胸の中で、温かい余韻になって広がっていく。
その傍らでは、ウェーリーが泉に半分くらい体を浸しながら、何も言わずに尾鰭をゆらしていた。
まるで、飛鳥の心に波を立てぬように、静かに、そっと寄り添うように。
(……ちゃんと、伝わった。怖がられなかった)
火の明かりが、飛鳥の羽根の縁をやさしく照らしていた。
やがて、少し離れた場所から、ギターの低い音が風に乗って届く。
「ロメラ……」
飛鳥は顔を上げた。
夜はまだ終わらない。
そして、この夜は——確かに、温かかった。
——つづく




