第二部 第五章 ―金色の祈り―
飛鳥たちが森を抜けると、視界が一気に開けた。
そこには、なだらかな丘に囲まれた草原が広がる。
森の緑が途切たそのほとりに——
一軒の家が、静かに佇んでいた。
白い塀と、蔦の絡まる門扉。咲き乱れる花々のアーチと重なって、石畳のアプローチが庭の中央に続いている。
屋敷の壁は新しいものではなかったが、手入れが行き届いており、どこか古い絵本の中の“お姫様の家”を思わせる佇まいだった。
「……わあ……」
最初に声を上げたのはヴェルミアだった。
小柄な身体にロリータドレスをまとい、八つの瞳をきらきらさせて、蜘蛛の足で花壇の間を無邪気に駆ける。
ロメラはギターを担ぎ、やや遠慮がちに歩く。
「Man, feels like walkin’ into a damn fairytale palace…(おとぎ話のお家かよ...)」
ウェーリーは、水滴を纏いながらふわりと浮かび、青く半透明な尾鰭を揺らしながら、どこか落ち着かない様子で水鉢に触れていた。
飛鳥は一歩遅れて、そっと門をくぐる。カワセミ色の翼を小さく畳み、鳥の脚で、柔らかな芝を踏みしめる。
「すごく……きれい...」
九重は、狐面を後ろに下げて、朱色の袴の裾を払いながら静かに微笑む。
「ほれ、みんな、そないに見とれて立ち止まっとらんと、家主にご挨拶しよし」
花々に囲まれた小道の先、一人の女性が、静かに立っていた。
淡い金色の髪を、三つ編みを何本も束ね、まるで王冠のように、後ろで大きく丸くまとめた髪型。
白くてフワリとしたドレスが、光のヴェールの様に、全身を包んでいた
腰からふんわり広がるオーバースカート。
——いや、よく目を凝らせば、それは巨大な蛾の翅。
腰から直接生えた翅が、彼女が人では無い事を伝える。
目を上げると、端正な面立ちが写る。
柔らかな輪郭、目尻が下がった青い瞳は大きく、艶やかに潤んでいる。
——そして、
その瞳の上、眉の代わりにあるのは、紫色の大きな蛾の触覚...
それは、まるで細やかなレースのように繊細で、ふわりと左右に広がる。
顔の幅ほどにもなるそれは、誰の目にも明らかな“異形”
しかし、それは、彼女の美しさに自然と溶け込んでいる様にも思えた。
まるで最初から、そこにあるべきかのように。
そこから、少し視線を落とす。
胸元が大きく開いたドレスは、その下の柔らかな谷のような曲線を、ためらいなく見せていた。
しかも、その双丘は、
なんというか——
——とにかく……
(……...すごい)
飛鳥は、無意識に胸元に吸い寄せられていたた視線を、慌ててそらした。
九重がそっと扇子を鳴らす。
「……この重たげなもん下げとるお姫はんが、金色姫や」
「ふふ〜、ココは、変わりませんねぇ〜」
その言葉に、金色姫はふわりと微笑んだ。
「改めまして、金色姫と申します。ようこそ、わたしの小さな家へ〜」
***
「さぁ、こちらへ...旅のお疲れ、少し癒していってくださいね」
その手招きに導かれ、飛鳥たちは玄関の中へと足を踏み入れた。
白い漆喰の壁に、ガラス細工のランプが下がる。
暖炉の火がほのかに甘い香りを立てている。
「どうぞ、楽にしてくださいねぇ」
彼女は微笑みながら、暖炉の前にあるソファへと手を差し伸べる。
その手には、湯気の立つハーブティーと、
焼きたてのスコーンが載せられた銀のトレイ。
促されるまま、飛鳥たちはソファに腰を下ろした。
ヴェルは、ふわふわのクッションに顔をうずめて
「ふかふか……」
と小さな声。
ウェーリーは、尾鰭を静かにパタパタと揺らしながら、暖炉の火をじっと見つめている。
九重だけが、相変わらず涼しい顔で扇子を畳み、隅の椅子に腰を下ろした。
金色姫は、まるで古い友人をもてなすような仕草で、一人ずつ丁寧にお茶を手渡していく。
ゆったりとした動きに合わせて、彼女の豊かな胸元が柔らかく揺れる。
ロメラがヴェルの耳元で囁く。
「あのおっぱい、触ったら溶けちまうんじゃねぇか?」
***
全員にハーブティーを配り終えると、金色姫は湯気の立つ自分のカップを両手で包み、やさしく微笑む。
「さぁ。せっかくですからぁ、皆さんのお名前、
教えていただけませんか?」
その言葉に、飛鳥は少し息を呑む。
こうして、ひとりの存在として、正式に「名乗る」ことを求められる——
それだけで、胸がじんわりとあたたかくなった。
飛鳥は、胸に手を当て静かに口を開く。
「……飛鳥です。飛ぶ鳥って書いて、飛鳥っていいます」
金色姫は、ふわりと深く微笑む。
「飛鳥ちゃん……素敵なお名前ですねぇ」
続いて、ロメラが軽く肩をすくめながら言う。
「ロメラだ。オレのことは好きに呼んでいいぜ。……ま、こっちは気分次第で呼び方変えるけどな」
金色姫は、くすりと唇の端を上げる。
「ふふ〜、ロメラさん。好きな呼び方で、呼び合いましょうね」
ヴェルは、ちょこんと飛鳥の隣に座りながら、ちいさな声で言った。
「……ヴェルミア...です。えへへ……」
金色姫は、その小さな自己紹介にも変わらぬ優しさで頷いた。
「ヴェルちゃん。ようこそ、我が家へ」
ウェーリーが、
ぴょこりと尾鰭を揺らした後、
ピンッと尾鰭を高く立ててからゆっくり前に倒した。
"しっぽ語"の「はじめまして、よろしくお願いします」だ。
「あっ、こっ、この子はアクウェリーナって言います!」
飛鳥が付け足す。
「ウェーリーさん。初めまして。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
最後に九重が、扇子で口元を隠したまま、涼やかに名乗る。
「九重どす。ようしておくれやす」
金色姫はそれに、ウフフと子供の様に笑った。
「ココ、久しぶりっ。
貴女はほんとに、変わってないですねぇ」
九重は、少しだけ、懐かしそうに目を細めて、微笑んだ。
ひとりひとりに、等しく、あたたかく。彼女は、飛鳥たちをまるごと迎え入れた。
不器用さも、強がりも、
臆病さも、皮肉も、
すべてをそのまま、優しく抱きしめるように。
***
「ふふ、こうして賑やかなお客様をお迎えするのは、久しぶりですねぇ。
なんだか、心までぽかぽかしてきます」
金色姫が、そっとカップを持ち上げ、白く細い指で唇に運ぶ。
ロメラがぽつりと呟く。
「Hey、Shiny Belle(きらきら姫)。ここで一人暮らしか?
まぁ、オレが言うのもなんだが、寂しかねぇの?」
金色姫は少し目を伏せ、優しく微笑む。
「寂しい、ですか……うふふ。どうかしらぁ?
けれど今は、こうして皆さんとお話できて幸せですよ?」
飛鳥は、そんな彼女の答えに、
胸の奥がふわりと温かくなる。
けれど同時に、自然と口をついて出た言葉があった。
「……あのっ」
唐突な飛鳥の声に、場の空気がやんわりと静まった。
金色姫は驚いた様子も見せず、ただ、にこやかに首を傾げる。
「なんでしょう?」
「あの...金色姫さんは……その、自分がどうしてこんな...
人間じゃない姿になったのか、覚えてますか……?」
金色姫は、ふわりと金色の三つ編みを揺らし、
微笑みを少し崩して、九重に目配せする。
「ココ、この娘...
飛鳥ちゃんにはどこまで...?」
九重は、わざとらしく肩をすくめてから答える。
「ウチからは、まだなーんも」
ロメラが、ソファの背にもたれかかりながら口を挟む。
「ま、そろそろいい頃合いだろ。
……っても、オレはほとんど知らねーし、ぶっちゃけ興味もねぇけどな」
空気が、ほんの少しだけ、深く沈んだ。
金色姫は、カップを持ったまま、手を膝に降ろし、ゆるやかに語り始めた。
「そうですねぇ...わたしたちは、ある人の、
"願いのために作られた存在"……と言うのが、わかりやすいかしら」
飛鳥は、静かに息を呑む。
「……願い、のために……」
いつかの温室で、フィロレーナに聞いた言葉を思い出す。
——『君は私の願いを叶える花になる』
「......それ、フィーちゃんも...言ってた...」
金色姫は、その顔に再び微笑みを宿し、続けた。
「......そうね、あの子、レーナも同じね」
「ある人が、自らの最愛の人……
"精霊"になってしまったその人を、この世界に取り戻すための」
精霊——廃村の墓所でみた、光たち。
——『死者の魂が溶けて、そうなる事もある』——
「その憑代になるため。
もしくは、その方法を探すために、造られた……それが、わたくしたち」
金色姫の言葉に、九重とロメラは無言で目を逸らす。
彼女は、青い瞳にわずかな悲しみを湛えて続けた。
「そうですね...精霊を受け止める、“魂の器”を造るための...人造の生命。
あの人は、"器造型"と、そう呼んでいます。
ロメラさんやレーナ......ヴェルちゃんも多分そうね」
「わたしやココ、ウェーリーさんは、"改霊型"。
......死者の魂や霊的存在を改造・転用し、自我を持つ存在として形を留めたもの...」
飛鳥は、思わずみんなの顔を見渡す。
九重とロメラは目を逸らしたまま。ヴェルは不安げに金色姫を見つめ、ウェーリーも静かにその言葉を受け止めていた。
「金色姫さんと九重も...アクウェリーナと一緒なんですか?」
「そうね、契約や術で姿を固定して、仮初の身体を得ている存在。それがなければ、溶けて精霊に戻ってしまいます」
「...あたしは......あたしはどっちなんでしょうか?」
小さな声で、飛鳥がぽつりと呟く。
九重が、金色姫の言葉を継ぐ。
「それが、ウチらにも、よう分かれへんの。
飛鳥には、しゃんとした身体がある。でも、その自我...あんたの心は、後から造られたものでは無い...そんな気配がする」
「...じゃあ、あたしが...人間になれるかどうかは...」
「ウチらにも、わからへん...」
——飛鳥の表情が、暗く沈む。
金色姫は、そんな飛鳥にふわりと微笑む。
「……そう、“わからない”ということは
……可能性を捨てていない、ということです」
翅がゆっくりと揺れる。飛鳥の表情が、少し緩む。
「...せやけどな、飛鳥。あんたは、これまでの旅で色んな娘を見てきたはずや」
九重は、真っ直ぐに飛鳥を見ていた。
「この旅の先に何があっても......いや、あんたのこの先の人生全部。選ぶのは、あんた自身や」
飛鳥は、九重の言葉が上手く飲み込みきれず、自分の翼や脚を見下ろす。
ヴェルが、隣でそっと彼女の羽毛を撫でていた。ウェーリーも、いつの間にか飛鳥に身体を寄せ、ロメラも、目を逸らしたまま、飛鳥の真後ろの背もたれに腰を掛けていた
飛鳥は、彼女達のぬくもりを、確かに感じながらも、胸の奥の「自分の異形」という重たい思いに沈んでいた。
***
金色姫は、手に持ったカップをテーブルの上に置き。胸の前でパンッと手を叩いた。
「は〜い、難しいお話は、ここまでぇ〜!」
軽やかな音と声が部屋に弾む。
「さあ——せっかくですもの、今日は楽しい話もいたしましょう?ねぇ、ココもロメラさんも、皆さんも!」
彼女は目を細め、微笑みを浮かべる。
「ほら、続きは美味しいお菓子と可愛い女の子たちに囲まれた、“女子会”と参りましょ〜う」
飛鳥は、先ほどまでの胸の重みがほんの少しほどけるのを感じて、不思議と肩の力が抜けていく――。
金色姫の声が、とろけるような艶を帯びて続く。
「女の子同士でしか話せないこと、いっぱいありますものねぇ……
うふふ、どこから参りましょうかぁ?」
***
金色姫の館は、暖炉の火も落ち、静かな眠りに包まれている。けれど、飛鳥はまだ、まぶたを閉じることができなかった。
胸の奥が、ずっとざわざわしていた。温かくて優しい時間だったのに、どうしてか少しだけ、息が詰まりそうだった。
ふと、夜風が窓を揺らした。
そっと寝台を抜け出すと、翼で肩を抱きながら廊下を歩き出した。
飛鳥には大きすぎるパジャマがヒラリと揺れるたび、太ももがひんやりと夜気に撫でられた。
大きく開いた肩口は、翼を通すのにちょうど良いが、襟ぐりは鎖骨までずり落ち、胸元は大胆に開いてしまっている。
扉を開けると、夜露に濡れた石畳が、静かに月光を受けている。冷たい空気が、熱の残った頬を撫でていった。
庭の中央、イングリッシュガーデンの、月の小道の先に、金色姫の姿があった。
短いベビードールの下から、鱗粉を散らす大きな蛾の翅が垂れている。
三つ編みをほどいた金の髪が背中を流れ、紫色の触覚もふわふわと夜気に揺れる。
ショートパンツの裾から覗く脚、ふっくらとした胸元。そのすべてが、上品で美しい。
「……眠れなかったんですか?」
声をかけると、金色姫は静かに振り返り、やさしく微笑んだ。
「ふふ〜……ココたちも、ぐっすりですしぃ。
わたくしも、こうして、夜の空気を楽しんでいたんですぅ」
金色姫がふと、目を細めて空を見上げた。
「……今宵は、月が綺麗ですねぇ」
飛鳥も、そっと夜空を見上げた。
そこには、深い藍に浮かぶ、やわらかな金の月。
飛鳥は、そっと彼女の隣に並ぶ。
小さな飛鳥が姫の隣に並ぶと、ふたりの背丈も、胸のボリュームも、あまりに違って見えた。
ぶかぶかのパジャマに埋もれながら、飛鳥はそっと自分の翼や脚に視線を落とす。
肘の先に広がる、青くギラギラと光を反射する羽根。
ぬらりと光る桃色の鱗と、鋭い爪。
胸の奥が、つかえるように痛んだ。
「……あの、金色姫さん」
声は、夜風に溶けそうなほど小さい。
「……わたし、この身体を、どうしても好きになれなくて...
綺麗って言ってくれた人も居たのに、やっぱり、醜いって思って...」
ぽつり、と、心の奥から零れ落ちた。
「……ロメラも、おんなじって、元気に言ってくれて……
フィーちゃんも、優しく受け止めてくれたのに、どうしても……どうしても...」
そのまま唇を噛みしめ、目尻がじわりと熱くなっていく。
「…………九重も、ヴェルちゃんも、アクウェリーナも、
みんな、"大丈夫だよ"って、色んなやり方で、伝えてくれてるのに。
...それは、わかってるのに。
どうしても...自分のこと、ちゃんと好きになれなくて……」
飛鳥は、自分で発した言葉に、自分で押し潰されそうになる。
涙を堪えきれず、声を震わせてうつむいた。
金色姫は、静かに頷いた。
そして——
彼女は黙ったまま、一歩、夜の庭へと進んだ。
金色の月の光が、金色姫を照らす。
その身体に落ちる陰影がゆるやかな輪郭を描き、長い髪がふわりと風を受けた。
腰のあたりが、わずかに震える。
腰から生えた翅が、夜の静寂を割るように、ゆっくりと大きく広がっていく。
金と紫が溶け合い、淡い光を纏ったその色彩は、幻想的な揺らめきを描く。
まるで、月の光を受けて目を覚ました幻想の生き物のように、その翅は息をするように震えていた。
金色姫は、そのまま重力から解き放たれるように、ふわりと宙に舞い上がった。ベビードールの薄布とショートパンツが重力に逆らうようにひらりとふくらむ。
彼女は優美な翅を揺らしながら夜空を漂う。
丸い金色の月が、金色の髪と重なりまるで彼女の一部となったかの様な錯覚を覚える。
そして、やがて、月の光をまとったまま、そっと飛鳥の前に降りてくる。
その動きにつられて、柔らかな裾の奥――胸元がふんわり持ち上がり、滑らかな双丘の下部、豊かな曲線の素肌が、露を帯びて浮かび上がる。
飛鳥は、息を呑んで見つめていた。
——その姿は、美しかった。
ただ顔立ちが整っているとか、体のラインが綺麗だとか、そういうことじゃない。
異形の翅も、額を飾る大きな触覚も、柔らかな布の服も、すべてが一つになって、ひとつの“美”をつくっていた。
「……この翅は、わたくしの“呪い”であり、そして“誇り”でもあります」
やわらかな声。その指先が、そっと飛鳥の頬に触れる。
温かい手だった。けれど、それ以上に——安心する香りがした。
金色姫の声は、夜に溶けるように、静かだった。
「あなたが、自分をきらいになりそうな夜には——
そのきらいな部分を、わたしに、見せに来てくださいな」
微笑む。
その唇は、月の光を受けて、ほのかに輝いていた。
飛鳥は、胸の奥で何かがふわりとほどけていくのを感じた。
涙ではない。
けれど、それにとてもよく似た温かいものが、胸に広がった。
***
金色姫が部屋へ戻った後、飛鳥はそっと門を開けて、外に出た。
金色姫から借りたパジャマは、彼女の背丈には大きすぎて、胸元も裾もふわりと風をはらんで揺れる。
天上には、金色に輝く月が浮かんでいた。
風が、緩やかに、けれど確かに草原を撫でていった。
飛鳥は、草を踏みしめ、小高い丘の上まで歩き、ふと立ち止まった。
思い出す。
想い出の湖畔。ティロと別れた日。
街の人々と、そして、ティロの両親から向けられた無数の怒りと、恐怖と、憎しみ。
異形であるというだけで向けられた、排除の意志。
自分は、化け物だった。いつからそうなのかはわからない。ただ気付いたときから、そうだった。
けれど——
ティロは、そんな自分を「綺麗だ」と言った。
金色姫は、異形のままで、誰よりも美しかった。
もしかしたら、と思った。
人間になれなくても、この翼も、この足も、
“わたし”そのものかもしれないと——
そのとき、強い風が丘を吹き抜けた。
反射的に、飛鳥は両腕——大きな翼を広げた。
ブカブカのパジャマの裾がふわりと大きく膨らみ、風と一緒に柔らかな布が体を包む。
風が翼を掬い上げる。
空気が身体を持ち上げる。
ふわり。
足が、地面を離れた。
驚きに目を見開く間もなく、身体は丘の斜面を滑るように、スーっと進んでいった。
夜空の下、月光に照らされ斜面に落ちた、自らの影をみる——
あの時見た、森を自由に翔けていたカワセミと自分が重なった。
脳裏に浮かぶ、湖畔の水面が足元を流れていく景色。水面に映る自分の姿。それは小さな鳥の形——
それはかつて自分が見た景色だと、不思議な確信があった。
そして、重力に引かれるまま、丘の下へと柔らかく着地する。
振り返れば、丘の頂には、まだ風が吹いていた。
不思議と、心は静かだった。
それはまるで、自分には飛ぶ事ができて当然だったかの様に。
飛鳥は、胸の奥に手を当て、そっと小さくつぶやく。
ほんの短い距離。ほんの短い時間。
「……わたし、飛べたんだ……」
***
夜が明けた。
金色姫の館の上に、澄み渡った朝の光が射し込む。
庭には、夜露をはらんだ花々が、ひっそりと顔を上げ、
新しい一日を迎えていた。
館の玄関先。飛鳥たちは、それぞれに荷物を整え、
これから続く旅の準備を終えていた。
金色姫は、変わらぬ優しい笑みをたたえながら、玄関の柱に寄りかかって彼女たちを見守っている。
ヴェルは、小さな背中に荷物を背負い、きゅっと拳を握っていた。
ウェーリーは、尾鰭をゆっくり揺らしながら、その隣で静かに佇んでいる。
ロメラは、ギターケースをブンッと回し、背中に掛けた。
そして、飛鳥も——
胸の中に、ほんの小さな緊張を抱えながら、朝の冷たい空気を吸い込んだ。
そのとき。
九重が、扇子を肩にかつぎながら、歩み寄ってきた。
「……ここいらで、ウチは別行動やな」
ふっと笑いながら、それだけを告げる。
飛鳥は、一瞬きょとんとした。
ヴェルが、きゅっと飛鳥の袖を掴む。
ロメラが、眉をひそめた。
「Huh? Why? (なんでだよ?)」
九重は、扇子を一度、手の中で開いてみせた。
「用事があるんや。ヒメには言うたやろ。
ウチ、あんたらの子守専門やあらへんのや」
口調は飄々としている。
けれど、その目の奥には、確かな信頼とほんのわずかな寂しさが滲んでいた。
「……ウチが居らんでも、あんたら、やっていける」
ぽん、と扇子の先で飛鳥の頭を軽く叩いた。
飛鳥は、目をぱちぱちさせたあと、思わず小さく笑った。
金色姫が、そっと歩み寄り、九重に言う。
「気をつけてくださいね、ココ。
……また、いつでも帰ってきてくださいなぁ」
九重は、肩をすくめる。
「……気が向いたらな」
二人の別れの言葉は、それだけだった。
九重は、そのまま背を向け、草原の向こうへと歩き出す。
朝の光の中で、その白いポニーテールが風にふわりと揺れていた。
飛鳥たちは、小さく手を振った。
それぞれの胸に、新しい覚悟を抱きながら。
——つづく




