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君は、風に還る。  作者: 矢崎 那央
第二部
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20/58

第二部 第四章 ―霧の湖の声なき魂―

挿絵(By みてみん)


雨上がりの森の小径を、撫でるように爽やかな風が吹いていた。


飛鳥(あすか)は、小さく歩幅を刻みながら進んでいた。

桃色の鱗に覆われた鳥脚が落ち葉をやさしく撫で、

肘から先の大きな翼が、そよ風にふわりと揺れる。


「あ、また風がっ」


短いスカートの裾がひらりとめくれそうになり、飛鳥は慌てて翼で押さえる。


その後ろから、からかう声が飛んだ。


「おやおやぁ、ハッチー。チラ見せかい?

Teasin’ a gal like that, you naughty chick!(オレを誘惑するなんざ、罪な小鳥ちゃんだ)」


「ち、ちが……!」


「へいへい、怒んなって。ちゃんと見てたから安心しな」


「み、見ないでよっ!」


飛鳥が赤くなって抗議すると、ロメラは舌を出して笑いながらギターに目を落とす。

そのままペグをひねりながら歩いていると


——ズボッ。


「うわっ、ちょっ‼︎」


泥の中に片足がずっぽり。前のめりに水たまりに突っ込んだ。


「ロメラっ!」


飛鳥が駆け寄って心配そうに見下ろすが、ロメラは水たまりに突っ伏したまま、片手でギターを高々と掲げた。


「ハッチー、オレはいい……

My soul guitar’s still breathin’, darlin’!!

ギターは……無事だ!」


「う、うん、それはよかったけど……体中泥だらけ……」


「Tch! Damn it‼︎ 自然ってやつは!」


ロメラが怒鳴りながら水たまりから這い上がり、袖の泥を払う様子を、その隣でヴェルミアがじっと見つめていた。


「……ロメラちゃん、かっこいい……でも、ちょっとドジ」


「言うな!」


ヴェルは、八つの目をぱちぱちと瞬かせながら、笑った。


そして、音もなく、すっと飛鳥のすぐ隣に近づく。

距離、ゼロ。ほっぺたとほっぺたが触れそうなほど近い。


「飛鳥ちゃん……歩くとき、ふわふわしてる……

さっきの、チラッてなったとこ……アタシも、みてた。すごく、よかった……」


「そんな、ヴェルちゃんまでっ!」


顔を真っ赤にして翼でスカートを隠す飛鳥。


その隙に、ロメラは座ったまま、ジャケットの袖で泥のついた頬をぬぐおうとしていた。


「ったく、ギターは無事だったけど、顔面はセーフじゃねぇな」


飛鳥はロメラの隣に腰を降ろし、片足を使って器用にポーチからハンカチを取り出す。


「……ごめんね、羽根だと上手に拭けないから」


そう言いながら、鳥の脚を使ってやさしくロメラの顔に布をあてた。


「悪ぃな、ハッチー。こうして拭いてもらうの、なんか……」


「お母さんみたい、って思った?」


「いや、どっちかって言うと、奥さん……かな?」


ロメラは、そう言ってニカッと笑う。


「っ!?」


飛鳥が頬を赤く染める——その瞬間だった。


「……ずるい……」


ヴェルの蜘蛛脚がぬるりと地を這い、飛鳥の座る位置へ滑り込んでくる。

そのまま長い脚で包囲するように、距離ゼロでにじり寄る。


「……飛鳥ちゃん……ヴェルも、拭いてほしい……

さっき、転びそうになったとき……ここ、汚れちゃって……」


「え? そ、そうなの?」


と言いながら、飛鳥は立ち上がる。


「……うん、ここ……」


指さすのは——明らかに汚れていない胸元。


「……おねがい、しても……いい?」


ぐいっ。


「きゃっ」


ヴェルのちっぱいが、飛鳥のちっぱいに押し付けられる。

ロリータドレス越しに、控えめな膨らみが柔らかく押し寄せてきた。


「……うれしい……飛鳥ちゃん、やさしい……すき……」


「ま、まって、ヴェルちゃん、ちょ、ちか……っ」


さらに——するり。

蜘蛛の脚がなめらかに、音もなく、飛鳥の脚の間に滑り込む。


「えっ……! だ、だめ、そこ、は……!」


飛鳥の声が上擦り、翼がばさりと跳ねた。


「……飛鳥ちゃん……こわくないよ……?

ヴェルね、飛鳥ちゃんがここにいるの、ずっと確かめてたいの……くっついてたら、大丈夫でしょ……?」


「ヴ、ヴェルちゃん……っ……あ、あの……!」


——その時だった。


「はいはい、ヴェルも飛鳥も、そこまで」


九重(ここのえ)の涼やかな声が、森の空気を裂いた。


「そろそろ、目的地も近づきますえ?

遊んどるのは構いまへんけど、旅の足を止めてどうしますのん?」


ぱたん、と扇子が閉じられた音に、動きがピタリと止まる。

ヴェルの八つの目がぱちぱちと瞬き、蜘蛛脚がすうっと飛鳥の足元から引いていった。


「……はーい」


しゅんとした声で離れていくその姿は——甘えたがりの末っ子そのものだった。


一方、飛鳥はというと——


「……あぅ……」


顔を真っ赤にして、翼で自分の胸とスカートを必死に隠していた。


「ふふ、やんちゃな妹たちに囲まれて、旅も華やぐ言うもんやねぇ」


ロメラが、泥だらけの顔のままぼやいた。


「……しっかし、GGはすっかりハッチーにベッタリだな」


「ふふ、よう見ときなはれ、ロメラ。

愛されるコツは、素直さと距離感どすえ?」


「いや、流石にあれは距離感バグってんだろーが」


静けさの気配が、少しずつ、空気の中に滲み始めていた。



***



いつのまにか、霧が森を覆っていた。

厚く、白く、ぬるい霧。

風も音も閉ざされ、世界がぼんやりと滲んでいく。


ヴェルは、飛鳥のすぐ後ろを、ちょこちょこと付いてきていた。

小さな手で飛鳥の服の端をつまみ、はぐれないようにしている。

蜘蛛の脚も、小さく折りたたまれていた。


飛鳥は、ふふっと笑った。

少しだけ、重い空気が和らいだ気がした。


前を行く九重が、足を止めた。


「……そろそろやなぁ」


森を抜けると、開けた視界の先に、鏡のように静まり返った湖面が広がっていた。

濃い霧がゆるやかに流れ、その縁をなぞるように湿った風が頬を撫でる。


その中心に、小さな島がぽつんと浮かんでいる。

島には、古びた石碑と、枯れた大樹が一本だけ立っていた。


飛鳥は足を止め、そっと翼をたたんで見つめた。

薄曇りの空から差すわずかな陽光が、水面に青白い光を落とし、

深く、底知れぬ揺らぎを湛えている。


「Damn mist’s so thick I could cut it with a knife…

(ナイフで斬れるくらい濃い霧じゃねぇか)」


ロメラが肩にギターをかけ直しながら、岩に腰をかける。——が、ふと手が止まる。


「……おい、あれ……誰か、いるか?」


その視線の先——湖の中央付近に、ゆらりと波紋が広がった。


霧の中から、何かがこちらを見ている。


「……!」


飛鳥が思わず翼を広げかける。


霧の切れ目、水面から——“顔だけ”が、そっと覗いていた。


長い水色……いや、半透明の髪が、水に浮かび、揺れている。

透き通るような肌。目元は冷たくも、美しい少女の顔。


「……人魚……じゃないよね?」


水面の存在は、しばらくじっと飛鳥たちを見つめていたが——

やがて、ゆっくりと動き出した。


静かに、まるで水そのものになったかのような、滑らかな動きで。


するり——と。


長くしなる半透明の尾鰭が、まず水を割った。

それは、まるで水で造られた巨大な魚類を思わせる半身。

少女の下半身は、正に人魚と言った様相だった。


続いて、全身が水面から姿を現す。


細く、白いというよりも半透明の腕。

滑らかな曲線を描く首から腰の肌は、青白く、だが内側にぬるく血が通っているような、生々しさを湛えていた。


彼女は、水際の岩に静かに這い上がると、

ゆっくりと体を伏せて、うつ伏せになった。


胸が、岩に押し付けられて、柔らかく潰れていく。

しなやかな胴体と岩に挟まれたそのかたちが、その豊かさを余すところなく伝えていた。


ヴェルミアは、一歩だけ前に出て、八つの瞳を大きく瞬かせた。

その仕草には、羨望とも好奇心ともつかぬ、複雑な感情が浮かんでいた。


「……きれい……」


その湖の精は、ゆっくりと振り返った。

潰れていた胸をそっと浮かせ、尾鰭をくねらせながら再び水面へと滑り落ちる。


そして——


ひと跳ね。


水しぶきを上げて、全身が弧を描くように跳ねた。

豊かな双丘と、それとは対照的に細いウエストが、シルエットとしてくっきりと浮かび上がる。


そして、静かに着水。


ロメラが、ぽかんと口を開けたまま呟いた。


「なんだよ、あれ……

Some kinda water goddess now or what?(水の女神様かなんかか?)」


「……おそらくやけど、あれは——ウンディーネやな」


九重は扇子を閉じながら、湖にじっと目を向けた。


「Undine? なんだそりゃ?」


「水の性質と結びついた、精霊の分類の一つや。

本来は、この辺りには居らんのやけど……まあ、例によって“連れて来られた”んやろなぁ」


「精霊って、もっとこう……自我も形もAmorphous(ぼやけてる)だろ?

あんなはっきり“女の子”してる奴、初めて見るぜ?」


九重は、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。


「そのとおり、精霊ちゅうんは、現象そのものを擬人化して呼んどるだけどす。

風や水、火や霧。人間が名をつけたとて、そこに自我なんてあらへん、ただの自然現象。

でも……ウンディーネはちょっと特殊でな、条件が揃えば“かたち”を得てしまうことがあるんよ」


「……その条件って?」


「伝承では、“人間の男と恋をすると、魂を得る”とか言われとるなぁ」


「ほんまのところは、人間の強い精神エネルギーの発露...

その自我や意識が精霊に焼き付いて、あたかも人間の様な……

そういう性質を持つのが"彼女達"や」


九重はひとつ息を吐いて続けた。


「……たぶん、そういう性質を利用されて、自分を持ってしまった、いや...持たされてしまった存在。

今のあの子は、そういうモノなんやろね」


ロメラがぼそりと吐き捨てた。


「……まあ、どこのクソ野郎がやったかは察しがつくぜ。

こんな寂しい場所に一人で居る理由も……

ゾッとしねぇ話だけどな」


九重は扇子を胸元に戻し、湖を見つめたまま呟く。


「だから、ウンディーネは……本能的に、人間の思いに惹かれる。

詩的に言うなら——“愛されることを求める”存在や」


九重は仮面の下で、眉をひそめる。


「それが、こんな場所で一人きり……

ほんに、残酷な話やわぁ」


その間に、彼女——ウンディーネは、

尾鰭をしならせながら、飛鳥のいる岸の近くまで寄ってきていた。


水面から、上半身を静かに出す。


間近で見ると、柔らかな胸の曲線をなぞるように張りつく、濡れた半透明の水色の髪。

細くくびれた腰のラインをなぞる水滴は、どこか官能的な色気を帯びていた。


飛鳥は、そっと湖の縁へと近づく。


「……ねえ」


ヴェルが、不安そうに小さな手を伸ばしたが、

飛鳥はやさしくそれを振りほどき、一歩、前に出た。


足元の岩に、片膝をつく。


「……ひとりで、ここにいたの……?」


ウンディーネは、何も答えなかった。


けれど、瞳が揺れた。ほんの少しだけ、まぶたが震えた。


飛鳥は、その静かな仕草に、ふと——自分自身を重ねていた。


(……鳥籠の中で……あたしも、一人だった。

九重が鍵を開けてくれなかったら、きっと、あのまま……)


ウンディーネは、何も語らない。

あまりにも静かで、それでいて、あまりにも孤独だった。


彼女は、浅瀬に静かに立っていた。

水滴が頬を伝い、無表情のまま、ただじっと立ち尽くしている。


ロメラが、まだ得体の知れない、

その精霊と飛鳥のあいだに立とうと近づくが——

飛鳥は振り返ることなく、そっと翼をたたんで制する。

そして、ただ、彼女に向き合う。


スカートが濡れるのも構わず。

飛鳥は、ザブザブと水の中を前へと進んでいく。


ウンディーネは、微かに尾鰭を震わせた。


ぱしゃり、と、かすかな水音。


それは——

戸惑いと、期待と、恐れが入り混じった答えだった。


飛鳥は、にっこりと微笑み、腕——いや、翼を差し出した。


「……いっしょに、行こう?」


一瞬、彼女の肩が、わずかに揺れた。


その後——

水音もなく、静かに、その羽根を取った。


飛鳥の翡翠色の羽根と、彼女の透明な指が重なる。


それは、ほんの一瞬の沈黙の中で交わされた——

精霊と少女の契約だった。

飛鳥たちの旅に——

新たな、静かな仲間が、加わった。



***



湖を背に、飛鳥たちは静かに歩き始めた。


霧の中を進みながら、

飛鳥はふと、後ろを振り返る。


無言でついてくる少女——


半透明の、淡い水色の髪が、霧の中で静かに揺れていた。

水滴をまとって、空中を泳ぐ様に浮かぶその姿は、まるで湖の霧そのものが形を持ったかのようだった。


飛鳥は、歩みを止めた。


「……ねぇ、あなた、名前……ないんだよね?」


振り向いた飛鳥に、

少女は、無言で小さく瞬きを返す。


飛鳥は、じっと彼女を見つめた。


——この湖みたいに、

静かで、でも確かにそこにある。


飛鳥は、胸の奥でそっと言葉を探した。


そして、見つけた。


静かに、しっかりと告げる。


「……アクウェリーナ(Aqua-lina)。

“静かな水の女神”って意味だよ。

あなたに、ぴったりの名前だと思う」


透けるような水色の髪の少女——アクウェリーナは、

小さく尾鰭を跳ね上げた。


それが、彼女なりの「うれしい」の返事だったのかどうかはわからない。


後ろで、ロメラが口笛を吹いた。


「Hoo girl, that’s a mouthful.(ったく、舌噛みそうだな)

じゃあ、いつものオレ流の洗礼、いっちまうか!」


「えーと……水も滴るいい裸(Dripnude)、ノーブラ人魚(No Bra Mermaid)、

いや、全裸スプラッシュ(Full Frontal Splashie)もアリだな……でも……」


「や、やめて……!」


飛鳥が焦って羽をばたつかせる。


「Just kiddin’.(冗談だっての)

じゃあ、Dripsy(雫ちゃん)って呼ぶわ」


「ドリプシー……? へ、変な意味じゃないよね……?」


飛鳥が不安げに尋ねる。


「だいじょーぶ。“GG(Girly Girl)”よりマシだろ?」


「……それは、確かに……」


と、ぼそりと呟くのはヴェルミア。

少し拗ねたように飛鳥に寄り添いながらも、新しい仲間をじっと見つめていた。


九重は、微笑みながら、静かにアクウェリーナを見つめる。


「……ほな、うちは“ウェーリーはん”て呼ばせてもらいまひょ」


アクウェリーナ——ウェーリーは、

小さく尾鰭を揺らして、応えた。


それは、

たしかに、彼女なりの

受け入れのしるしのように思えた。


こうして、

声なき少女は、ようやく名前を得た。



***



焚き火の灯りが、ぽうっと揺れていた。


夜の森は、湿った静けさに包まれている。

火のはぜる音と、誰かのくしゃみ、そしてロメラのギターだけが、小さく響いていた。


飛鳥は、湯気の立つカップを両翼でそっと持ち、慎重に膝に下ろそうとした。


——が。


「わっ……あ、あぅっ!」


ぽちゃん。


お茶の半分が、脚にこぼれた。


「……あああ……」


急いで拭くも、チュニックの裾は濡れてしまい、飛鳥の目元がうるんとする。


「おお……せっかくのハーブティーが……

ハッチー、ドンマイ」


「だ、だって、ちょっと重かったの……うぅ……」


しょんぼりと肩を落とす飛鳥。


そのときだった。


——ぴと。


何かが、そっと肩に触れた。


「……え?」


それは、ウェーリーの尾鰭だった。


湖のような艶めきを持つ、その大きな尾鰭が、

「ぐるん」と円を描きながら、やわらかく肩に触れた。


まるで、「気にするな」とでも言うように。


「……いま、気にしなくていいよって、言ってくれたの……?」


ウェーリーは無言のまま、尾鰭を一度ゆらし、

ぴょんと跳ねるように後ずさる。


飛鳥は目を瞬かせて、そっと微笑んだ。

ほんの少しだけ、高揚した表情で。



***



翌朝。


「ちょっとロメラ、やっぱりあの“ぐるぐる”って、意味あると思うの!」


「お、来たなハッチーのしっぽ研究。いいぜ、オレが思うにだな……」


ロメラはギターを肩にかけたまま、指でくるくると空をなぞる。


「あのぐるぐるは、“I’m on fire, baby!(サイコーにノってるぜ)”って意味だな。

オレがギター弾いてると、よくやってくる。つまり、観客の反応よ!」


「……それ、たぶん“騒音耐性がある”って意味じゃ……」


「Shut up, GG!!(うるせぇぞフリル娘!)」


「ヴェルちゃんは、あれ、どう思う……?」


飛鳥の問いに、ヴェルミアは首をかしげ、八つの目を同時に瞬かせた。


「……尾鰭? ただの運動反射だと思う……けど……

飛鳥ちゃんが気にしてるなら、ヴェルも、調べてみる……」


——すでに、ちょっと気になっていたらしい。



***



森の中、朝の木漏れ日が足元の草をゆらしていた。


いつものように、九重に導かれるように歩く飛鳥とロメラ。

そのすぐ後ろを、そっとついてくるアクウェリーナ。


彼女は、言葉こそ発さないが、尾鰭の動きがとてもにぎやかだった。

ぐるぐる、ぴょこん、ふるふる。

まるで、彼女なりの「会話」を、背中越しにしてくれているようで。


「……ふふ。うれしいの、かな?」


飛鳥がそう呟くと、尾鰭がぴょこっと跳ねた。

答えるように、何かのリズムで——


ぐるん。ぐるん。ぴた。


「……うん。やっぱり、うれしいんだよね」


少し前を行くロメラが、その様子をちらりと振り返る。


「Heh, look at ‘em go.(あのふたり、仲良さげじゃねーか)」


「……嫉妬かえ?」


九重が扇子を小さく揺らしながら、視線を流す。

ロメラはむくれた顔で鼻を鳴らした。


「別に。……ただなぁ、ハッチーってばちょっとチョロすぎじゃね?」


「うふふ。惚れっぽいのは、若さの特権どす」


「お姉さんぶんな!Velvixen!」


——そのころ、さらに後ろでは。


「……ねぇ、飛鳥ちゃん」


ヴェルミアが、飛鳥の袖をそっと引いた。


「……あの子、尾鰭ばっかり動かして……ずるい……」


「ず、ずるい……?」


「……ヴェルも、ぐるぐるしたい」


「えっ、えっ?」


飛鳥が戸惑っていると、ヴェルの蜘蛛脚がスルスルと動き、

飛鳥の脇と脚に巻き付く。


「ほら……こう、ぐるぐる……って……」


「それ“回転”って意味じゃないよね……!? や、やめ……!」


ヴェルは、ぐるぐると回転しながら、腕を飛鳥の肩に回し、

上半身をピタリとくっつけてくる。


「……うふふ……しっぽ語の“いっしょにいて、うれしい”って、意味……だよ……?」


「い、意味わかんない……っ」


それを見たロメラが遠くから叫ぶ。


「Hey‼︎ GG‼︎ おまえのは尻尾じゃなくて脚だろがーッ!」


そんな騒がしさの中、アクウェリーナは——


少し後ろで静かに歩いていた。


彼女の尾鰭は、とてもおだやかに、左右にふるふると揺れていた。

まるで、音のない笑い声のように。


飛鳥は、ノートを取り出し、器用に脚で鉛筆を持って書き込む。


《アクウェリーナのしっぽ語メモ》

•ぐるぐる:うれしい、なごみ

•ぴょんぴょん:笑ってる

•ピンと立てる:警戒してる?

•左右にゆっくり:ねむい……?

•水を跳ねるみたいに:びっくりしてる

•片方だけくいっ:……怒ってる?


「……なんとなくだけど、分かってきたかも」


飛鳥は、ノートをそっと閉じた。



***



陽が高く昇り、森の中にも、昼のぬくもりが差し込んでいた。


一行はちょうど小川のそばで腰を下ろし、休憩を取る。

ロメラはギターを膝に乗せながら、パンをかじっている。


飛鳥は、保存の効く硬いパンに、フィーちゃんにもらったピクルスを挟んだだけの、質素なサンドイッチをポーチから取り出した。


両の翼の間でサンドイッチを大事そうにほぐしてから、隣に座るアクウェリーナに差し出す。


「……これ、食べる……?」


尾鰭が、ぴょこん。


アクウェリーナは、ゆっくりと手を伸ばし、受け取る。

だが——


ぱく。


もぐもぐ。


……ぴた。


ふるふる……ふるっ。


尾鰭が、あきらかにテンポ速めで左右に揺れたあと——ぴた、と止まった。


「……え? あ、あの、どうしたの……?」


アクウェリーナの顔には表情が出ていない。

でも、尾鰭がじわじわと下がって、ついには地面にべたんとついた。


「も、もしかして……それ、苦手だった……?」


「……」


尾鰭、ぴくぴく。


「おいおい、マジで?!」


ロメラが、パンを持ったまま駆け寄ってくる。


「ハッチーの力作サンドイッチが、まさかのNot Yum?」


「そ、そんなこと言ってないよ……!

ね、アクウェリーナ、美味しくないなんて事は……なかったよね……?」


尾鰭、そっと「ぴこっ」と一回だけ跳ねる。


「……“悪くはなかった”ってことかな……?」


「そっちのほうがダメージでかくねぇか?」


そこに、ヴェルがぬるりと登場。


「……何食べてるの……? ねぇ、飛鳥ちゃん、ヴェルにも……」


「え、まだあるけど……ヴェルちゃんには、たぶん食べられないよ? これ……」


「……ヴェルは、飛鳥ちゃんが“おいしいって思うもの”なら、何でも好き……」


「そう?……じゃあこれ、はい……」


飛鳥は、ヴェルの鼻先にサンドイッチを差し出す。


「……ん、いい匂い……」


尾鰭:ピン!(アクウェリーナが反応)


「今、嫉妬反応出たね! 尾が立った! わかりやすッ!」


ロメラがゲラゲラ笑っていると——


九重が、湯呑で白湯を口にしながら、しれっと言った。


「ふふ……あの子、ほんまによう動きなはるわぁ。

言葉はあらへんけど、尾で喋る精霊……面白おすなぁ」


そのあと、飛鳥はちっちゃなノートの端に書き足す。


【しっぽ語・補足】

•尾がだらーん:苦手

•左右ぶんぶん:なにこれ!?

•ピンと立てる:反応・警戒・嫉妬?

•一回だけぴこっ:意思表示・たぶんYes


「……これで、また少しだけ、わかってきた……かも」


尾鰭が、ぐるりと一周。


「……うん、たぶん、今のは“そのとおり”って……」


と、そこへロメラが大声で言う。


「Hey、Dripsy‼︎ 今度から食えないもんあったら、事前に言っとけよな!」


アクウェリーナ:尾鰭ふるふる。


「そのふるふる、今のは“わるいね”か? “やだ”か!?」


尾鰭:ぴたっ(沈黙)


「……くっそ、わかんねぇ! しっぽ語、難しすぎるッ!」



***



ある昼下がりの林道。


ロメラはいつものように、ギターの弦をつまびきながら歩いていた。

目線は完全に指板。もちろん、足元なんて見ていない。


「……って、うおっ!? わわっ、あああああッ——!」


ぬかるみに足を取られた次の瞬間、

彼女の身体はまるでギターごと前転でもするかのように、派手に吹っ飛んだ。


泥と葉っぱと音が、同時に弾ける。


「ほんに、腐りん坊は反省せえへんなぁ……」


九重が扇子で肩をトントンと叩きながら、呆れていた。


「ちくしょう……Goddamn muddy-ass trap?!(泥んこトラップだと!?)

誰だよ、ここに罠仕掛けた奴は……!」


ロメラは顔を真っ赤にしながら、体の内側で庇って泥まみれを回避したギターを抱きしめ、悪態をついた。


そのときだった。


すぐそばにいたアクウェリーナの尾鰭が——


ビタンビタンビターンッ!


水面でもないのに跳ね回るように暴れ出した。

ぐるんぐるんと円を描きながら、ぴょこぴょこと上下に跳ね上がり——

しまいには、ふにゃりと地面に倒れ込むように、ぐったりと波打つ。


あまりにも分かりやすい“爆笑”だった。


飛鳥が口元を押さえてぷるぷると震え、

ヴェルは無言で、ロメラの泥まみれの肩をはらっている。


「……おいおいおい、オレにも分かるぞコレ。盛大にバカにしてやがるな!? なぁ!?

今の絶対“ぷぎゃーwww”って言っただろ、お前のしっぽ!!」


ウェーリーは何も言わず、尾鰭でペチンとロメラの泥だらけのジャケットを一発叩いた。


ロメラは唇をとがらせながらも、吹き出して笑った。



***



夜。

焚き火の火は小さくなり、あたりはしんと静まり返っていた。


九重は、微かに扇子を仰ぎながら木にもたれ掛かり、

ロメラは焚き火のそばでギターを胸に抱いて、ポツリポツリと静かにコードを鳴らし、それを譜面に書き込んでいる。


ヴェルは、逆さに張った糸の巣の中で丸まって、小さな寝息を立てていた。


飛鳥は、肩に小さなブランケットを掛けて翼を抱きながら、目を閉じていた。


しかし、薄く閉じた瞼の奥に、夢の名残がちらついていた。

森の中で引き絞られた弓。人ならざる者に向けられる目。

翼に刺さる矢尻の痛み。

頭と心がどよりと重く、瞳の奥が熱を帯びている。


「……だいじょうぶ、だよ……」


誰に言うでもなく、呟くように声を落とした、その時——


すぐそばに、もうひとつの気配があった。


アクウェリーナだった。


声をかけることはなかった。

でも彼女は、焚き火の残り火を越えて、すっと隣に座った。


飛鳥の視線が向く前に——

尾鰭が、ゆっくりと、波を描く。


ゆらり。ゆらり。ふわり、ぴと。

その尾の先が、飛鳥の翼に、そっと触れた。


「……」


言葉はない。


けれど、飛鳥には、わかった気がした。


「……だいじょうぶ、だよ。って……言ってくれたの……?」


アクウェリーナは、ただ、尾をふわりと一回だけ、揺らした。


まるで肯定するように。


飛鳥の唇が、ふるえていた。

けれど、それを見られたくなくて、翼を顔の横にそっと寄せる。


「……ありがとう。ね……アクウェリーナ」


火が、ぱちっ、と小さくはぜた。

アクウェリーナは、その音にも反応せず、ただ隣に寄り添っていた。


沈黙は、怖くなかった。

言葉がなくても、伝わるものがある。

それを、初めて——心から信じられた気がした。


そして、旅はまた歩き出す。


風に濡れた尾をたなびかせ、

静かに寄り添う“精霊”をひとり、仲間に加えて——


四人と一尾の旅路は、深い森を抜け、

やがて、ひらけた草原へと至る。


——澄んだ空に、風が戯れ、次なる出会いへと導く。


それは、森のほとりの草原に、花々に囲まれてまるで夢の名残のように、ぽつんと佇む小さな屋敷。


そして、その扉の奥で彼女たちを待つ、

微笑みを湛えた、金色の姫君。



——つづく


《ウェーリーのしっぽ語・観察メモ》

    ——観測者:飛鳥(翼タイプ)


⸻


◯きほん

•ぐるぐる:

 → ごきげん/なごみ中/安心してるときによく出る

 ※反応速度と軌道が早いと「テンション高め」?

•ぴょんぴょん:

 → 楽しい、笑ってる感じ

 ※たまに“わたしも!”って言いたい時にも跳ねる

•ふるふる:

 → 共感/同意/やさしい励まし

 ※「だいじょうぶだよ」って言ってくれるときの定番

•ぴたっ(停止):

 → 考え中 or 微妙な気持ち or 拒否気味?

 ※ロメラには“無言のノー”として効くらしい…


⸻


◯きもち?

•ピンと立てる:

 → びっくり/警戒/嫉妬/集中モード

 ※だいたいヴェルちゃんが怪しいときに反応する

•くいっ(単発):

 → 軽いツッコミ/やる気表明/挑発?

 ※ロメラに向けてよく使う

•ぐる→止→ぴょん:

 → “わたしも一緒にいたい”って意味かも

 ※今日覚えた新しい組み合わせ!


⸻


◯ちょっと難しい...

•背中さすり(なでなで風):

 → 慰め、安心、なかよしモード

 ※落ち込んでるとき限定。あれはズルい。

•びたんびたんびたーん(暴走):

 → 笑ってる!たぶんめちゃくちゃ笑ってる!

 ※ロメラがすっ転んだ時、地面でもないのに跳ねまくってた


⸻


◯現在研究中

•水しぶきみたいな跳ね方:驚き or 興奮?

•片方だけピコッ:意味不明(たぶんYESだけどたまにNO)

•地面にぺたんと落ちる:不満 or 苦手 or ごめんね…?


⸻


「……言葉がなくても、ちゃんと伝わるんだね。

でも、わたしも——もっと、伝えられるようになりたいな」


── 飛鳥著・しっぽ語ノート その1より抜粋

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