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君は、風に還る。  作者: 矢崎 那央
第二部
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第二部 第三章 ―籠る糸とほどける声―

挿絵(By みてみん)


森を歩く道は、しだいに狭く、暗く、湿ってゆく。


空は厚い雲に覆われ、風も通らぬ木々の合間から、ぼんやりと薄明かりが差し込んでいた。

ぬかるんだ地面に、飛鳥(あすか)は小さな鳥の足で慎重に足を運ぶ。翼は肩にすぼめ、息を整えながら、二人の背を追っていた。


先頭を行くのは、狐面の巫女——九重(ここのえ)。

そのすぐ後ろを、紫がかった乱れ髪の少女——ロメラが、ギターを背負って、ぶつくさと文句を言っている。


「ったく、どこまで歩かせんだよ……オレ、meltin’ out here.(ここで溶けちまうぞ)」


「まあまあ。腐りん坊さんが溶けても、拾い上げる手間が省けて、よろしおすなぁ」


九重は、扇子をあおぎながら、悪びれもせずにそう言った。


「Ha ha. Very funny.(うけるわー)」


ロメラがむすっとした顔で、肩のギターを背負い直す。


そんなふたりのやりとりを、飛鳥は少し後ろから見守っていた。濡れた枝をよけるように鳥脚で歩きながら、思わず、くすりと笑みをこぼす。


(……こうして歩くの、悪くないな)


——こうして、三人で歩いているだけなのに、どこか、胸があたたかくなる気がした。


それでも、空気は重かった。木々の影は濃く、陽は差しているはずなのに、薄暗さが肌にまとわりつくようだ。


ふと、九重が足を止めた。


扇子で口元を隠したまま、わずかに森の奥を見やる。風もないのに、木の葉が一枚、ふわりと舞い落ちた。


「……そろそろ、着きますえ」


その声は穏やかで、まるで道案内のようだった。


飛鳥は、小さく喉を鳴らした。


ロメラがギターを背にずり直し、前を歩く九重をちらりと見る。


「ハッチー、気ぃつけとけよ。うちのVelvixen(お上品狐)は、笑いながら矢の雨の真っ只中に誘うタイプだからな」


「まぁまぁ。案内役の義務やさかい。“危なうない”とは言うてへんけどなぁ」


九重は意味ありげに扇子をひと振りし、また歩き出した。その背を追うようにして、三人はさらに森の奥へと踏み込んでいった。



***



しばらく進んだ先——


空気が変わった。


気配が、妙に静かすぎる。虫の声も、風のざわめきも、何ひとつ聞こえない。空間が息を潜めているような、そんな感覚があった。


(……なんだろう、この感じ)


飛鳥は、無意識に足を止め、辺りを見回した。


湿った土の匂い。絡みつくような沈黙。

そして、遠くに——何かの気配。


奥へと進む九重の背中が、ふと止まる。


その先に、唐突に、視界が開けていた。


古びた石造りの門。

崩れかけた壁。

絡まる蔦と、煤けた窓枠。

その奥に、森の影に溶けかけたような、大きな建物が見えた。


屋根は崩れ、塔は傾き、天井からは、白く乾いた蜘蛛の糸が、無数に垂れ下がっている。


それは、朽ちた洋館だった。


「……Terror storyの舞台みてーだな」


ロメラがぽつりと呟く。ギターのネックを軽く叩いて、肩をすくめた。


九重は、なにも言わなかった。ただ、微笑んだだけだった。


飛鳥は、息を呑んだまま立ち尽くしていた。胸の奥に、ざわざわとしたものが湧いてくる。


(……この場所……なにかが、いる)


根拠のない予感。けれど、確かに胸を騒がせるなにかが、そこにはあった。


重たい扉が、ぎぃ、と音を立てて開かれる。


闇の中へと続く、静かな空間——

それは、まるで「待っていた」とでも言うように、三人を迎え入れた。



***



中は、異様だった。


床板は黒ずみ、あちこちに穴が開いている。壁を飾る肖像画や彫刻も、埃にまみれ、誰の顔かもわからない。

高い天井には、繊細な彫刻の施されたシャンデリア——

それすらも蜘蛛の巣に包まれ、ぼんやりと白い影に沈んでいた。


もとは豪華だったのだ。この洋館は、確かに、誰かの誇りだったのだろう。


だが今は、すべてが朽ち、蜘蛛たちの巣窟と化していた。


飛鳥は、湿った空気の中で息を潜めながら、ぼろぼろの廊下を慎重に進んでいた。


(……なんだか、何かの気配がする……)


空気のどこかに、熱のようなものが潜んでいる。

まるで、暗がりのどこかから、誰かがじっとこちらを見ているかのような——

そんな、奇妙な緊張感。


「おい、止まれ。今、なんか……動いたな」


ロメラが低く呟く。


その直後——


ばさり。


古びたカーテンの裏から、何かが走り去った。


「ッ——!」


飛鳥は思わず一歩退き、翼を広げそうになるのを抑えた。

かすかに見えたのは、黒と黄色の縞模様。

人間のものとは思えない、丸い胴と、細長い脚——


それは、廊下の奥へと素早く滑り去っていった。


「いまの……なに?」


「わかんねーけど、何か、居たな。......行ってみるか」


ロメラの声に押されるように、飛鳥たちは後を追った。



***



辿り着いたのは、洋館の一室。

重く閉じられた扉を押し開くと、ひんやりとした空気が流れ出す。

埃を吸った空気の中、光もなく、沈黙だけが支配していた。


そして。


天井の隅——


ひときわ暗い梁の影に、白く霞んだ巨大な蜘蛛の巣が張りめぐらされていた。

その巣の奥深く、ほとんど闇に溶け込むようにして、“何か”が静かに吊られている。


淡い光がかすかに揺れて、その輪郭だけが浮かび上がる。

うずくまった男性一人分ほどの大きさの、球状の丸い塊——そこから、手でも足でもない、異様に細く長い脚が四方へと伸び、蜘蛛の糸に絡みついていた。


そして、ゆっくりと、その中心の大きな丸いものから生えた何かが、静かに重力に引かれて下向きに伸びていく。


飛鳥は、思わず小さく息を呑んだ。


——女の子だ。


それは、可憐に着飾った、小柄な少女の上半身だった。


黒とオレンジのゴシックロリータドレス。

ふわりと広がるスカートの裾、肩から腕にかけて巻きつくようなリボン飾りが、逆さの姿勢でふわりと垂れ下がって揺れる。


その姿勢のせいで、ドレスは重力に引かれ、胸元が大きく開かれていた。

そこから覗く肌は、ほんのり赤みを帯びた、やわらかく健康的な色合いを放っている。


細い鎖骨から、驚くほど華奢なウエストラインまでがなだらかに浮かび上がり、花の茎のようにくびれた腰へと繋がっていた。


胸元には——小さな膨らみ。

年相応に控えめながらも、逆さまに吊るされた姿勢のせいで自然と引き寄せられ、柔らかな輪郭を形作っている。

大きく開かれた服とふくらみの隙間に、赤みを帯びた頂がほんのりと見える。


だが——その顔には、明らかな“異質”があった。


髪は濃いオレンジ色。

高く結い上げられたツインテールが、重力に従って逆さまに揺れている。

その髪の毛の間から覗く顔は、人形のように整っていた。


顔の中央には、人間らしい愛らしい瞳。

だがその上、眉のあたりには、そこに本来あるはずのなもう一対、瞬きする目。

さらに頬から顎にかけて、ちいさな眼が左右に二対並び——


合計、八つの目が、こちらをじっと見つめていた。


その目のすべてが、同時に瞬きをし、同じように、怯えた光を湛えている。


その姿は、美しい。

しかし同時に、どこかおかしい。

まるで、絵画の中から抜け出したような造形と、現実味のない異様さが、同時に漂っていた。


「……なっ……」


ロメラは思わず飛鳥の前に立ちふさがり、ギターを背に回した。


だがその瞬間——


その“影”が、ビクリと震え、小さく呻いた。


「……こわい……たすけて……」


その一言が落ちた瞬間、ロメラは飛鳥を後ろへ制したまま、更に一歩前へ出た。

その目は、警戒から一瞬で柔らかさに切り替わっていた。


「Easy there, lil’ one(安心しな、ちびっこ)、オレらは敵じゃねぇ」


飛鳥もそっと前に出る。

怯える少女——彼女を、助けたい。

そんな気持ちが、自然に湧き上がった。



***



怯えた少女は、巣に身を隠すようにしながら、じっとこちらを見つめていた。八つの瞳に宿る震えた光が、薄暗い館内にかすかに揺れる。


「オレらは、敵じゃねぇ。なあ、ハッチー」


ロメラが飛鳥に目配せをする。


「……うん。あたし達、怖いことなんかしないよ」


飛鳥も、できるだけ柔らかい声で言葉を紡ぐ。


怯えた少女は、逡巡するように体を震わせながら、ゆっくりと、蜘蛛の巣から降りてきた。

ドレスのフリルが巣を撫で、しゃらりと乾いた音を立てる。


おそるおそる、少女が口を開いた。


「……ほんとうに……こわく、ないの?」


「ほんとだよ」


飛鳥が優しく微笑みかけると、少女の顔に、わずかに安心の色が滲んだ。


——そのときだった。


崩れかけた廊下の奥、割れたガラス窓から夕方の光が差し込む。


その光が、ふと少女の脚元を照らし出した。


黒とオレンジのドレスの裾から——

黒と黄色の縞模様を持つ、艶やかな丸い胴体が、くっきりと姿を現す。


少女の腰から下。

そこに続いていたのは、蜘蛛の腹だった。


甲殻のようなつややかな質感。

腹部は丸く、しっとりとした膜で包まれているようにも見え、かすかに呼吸に合わせて上下していた。

その左右から、六本の細長い脚が静かに伸びている。

床を滑るように動くその姿は、まるで音すら吸い込むようだった。


——異形。


あまりにも、あからさまな、異形の姿。


飛鳥の動きが、わずかに止まる。


ロメラも、つかの間、目を細めたまま固まった。

九重は表情を変えないまま、扇子の動きをぴたりと止めていた。


誰も、何も言わない。


ただ、短い沈黙が、室内に流れた。


その沈黙を破ったのは、少女だった。


「……あの……やっぱり……へんなの、かな……?ワタシの身体...」


ぽつりと、落ちるように出た言葉。


八つの瞳が、不安げに揺れていた。

その姿は、どうしようもなく、普通の女の子と変わらなかった。


飛鳥は、視線を少女の脚に——その異形の胴体に落としたまま、そっと翼を動かした。

逃げることも、目を逸らすこともしたくなかった。


だから、飛鳥は一歩、前に出た。


「……へんじゃないよ」


小さな声。でも、まっすぐだった。


少女が目を瞬かせる。

ロメラは小さく肩をすくめ、ギターをつま弾いた。


「ハッチーがそう言うなら、オレらも同意ってことだな。な、Velvixen?」


当然、と言う様に、九重が扇子をふわりと広げる。


少女の口元が、そっと緩んだ。安堵の息が漏れる。

その表情は、まぎれもなく——誰かに受け入れられた子供のものだった。


ロメラが、しゃがみながら声をかける。


「Hey, lil' one.(なぁ、ちびっこ)、オマエの名前、教えてくれるか?」


少女は、しばらく逡巡した。

そして、細く震える声で、名乗った。


「アタシ……ヴェルミア、です……」


ヴェルミア。

その名を、少女はまるで宝物を差し出すように、小さな声で告げた。


飛鳥はぱあっと顔を明るくした。


「ヴェルミアちゃん……」


少女——ヴェルは、ほんのわずかに、コクリと頷いた。


その様子を見て、ロメラがニヤリと口角を上げる。


「ヴェルミアかぁ、huh? Too fancy(なんか気取ってんな) 。Guess オレはオマエのことGirly Girl(フリル娘(むすめ))、略してGGって呼ぶわ!」


「Girly Girl……?」


ヴェルが首を傾げる。


ロメラは親指を立て、からかうようにウインクした。


「Yeah, fits ya like a damn glove‼︎

似合ってんぜ、バッチリな!」


飛鳥はくすりと笑いながら、そっとヴェルの手を取った。


「じゃあ、あたしは……ヴェルちゃんって呼ぶね!」


ヴェルは、少しだけ戸惑いながら、でも嬉しそうに小さく微笑んだ。


その様子を見ながら、九重は扇子を静かに畳み、柔らかな京都訛りで、ふわりと声をかけた。


「ほなウチも、ヴェルはん、て呼ばせてもらいまひょ。

……どうぞ、よろしゅうなぁ」


飛鳥は、ヴェルに笑顔を向け、握手を求める様に、折りたたんだ翼を差し出した。


ヴェルは、おずおずと、その翼を握り返した。


その手は小さく、指先は少しひんやりしている。

でも、しっかりと掴んでくる感触に、飛鳥の胸がふっと温かくなった。


(……この子、ほんとうに……ひとりで、ここにいたんだ)


そんな想像が浮かんだ瞬間、飛鳥は思わずもう片方の翼でヴェルを包み込むようにして、そっと引き寄せた。


「……さみしかった、よね」


ふと、ヴェルの長いまつ毛が震える。

八つの目が、ゆっくりと閉じたり開いたり——人間の瞬きとは少し違うその仕草も、今はもう怖くなかった。


「……うん……さみしかったの……でも、もう、だいじょうぶ……」


その声は、小さな囁きだった。


ロメラが立ち上がり、手を腰に当てて「よっしゃ」と言う。


「とりあえず、まずは腹ン中あっためっか。なぁ?」


「うん……そうだねっ」


「……せやなぁ。誰も、お腹減った言うてへんのに……ロメラは、よう気が回るわぁ」


九重の口元に、ふわりと微笑みが浮かぶ。ロメラがニヤリと笑って肩をすくめた。


「勘ってやつよ。仲間のことは、ちゃんと見りゃ分かんの」


ヴェルは、困ったように笑って首を傾げる。


「ごはん……? なにか、居るの……?」


その問いに、飛鳥が笑った。


「うん。一緒に食べよ。……ヴェルちゃんも、ね?」


ヴェルは、少し考え込むように眉(のような目元)を寄せたが——やがて、とても小さく、でもはっきりと頷いた。


「……うん。……みんなと、いっしょに……」


蜘蛛の脚が、音もなく床に触れた。

黒とオレンジのドレスの裾がふわりと広がり、彼女は静かに、けれど確かな足取りで飛鳥たちと歩き出す。


ひとりでは届かなかった場所に——

ほんの少しだけ、近づくように。



***



洋館の一角、暖炉のある部屋を見つけて、ロメラが手早く火を焚べる準備を進めていた。


廊下で拾った折れた椅子の脚や乾いた蔓が、ぱちぱちと小さく火花をあげて燃えていく。

天井の隙間から差し込む光が、炎の赤と混ざり合い、室内に柔らかな陰影を落としていた。


飛鳥は、ヴェルの隣に腰を下ろしていた。

翼をたたみ、足を折りたたむように座りながら、ヴェルの様子をちらりと見る。


ヴェルはというと、ぎこちなく座っていた。

黒とオレンジのドレスの裾を両手で膝に乗せ、蜘蛛の脚は器用に背後へ折り畳まれている。

少しでも目立たぬように、と気をつかっているのが、ひしひしと伝わってくる。


ロメラが焼き果物を一つ差し出しながら言った。


「まずはこいつだな。甘くて腹にたまる。ほら、食ってみ」


「……でも、わたし……食べられるかな……?」


ヴェルは不安そうに言った。

ロメラは一瞬、口を開きかけて、そして少しだけ表情をやわらげる。


「食えなくても、かまわねぇよ。無理に食わせたりしねーからな」


「でも」とヴェルが続ける前に、飛鳥がそっと口を挟んだ。


「匂いをかぐだけでも……一緒にいる感じがするよ」


その言葉に、ヴェルははっとして、暖炉の方を見つめた。

果物の焼ける香りが、ほんのり甘く鼻をくすぐる。


「……いい匂い……」


ヴェルの八つの目が、順に瞬きを繰り返す。

ふわりと浮かぶような笑みが、唇の端ににじんだ。


九重が扇子をたたみ、しっとりとした声で囁くように言った。


「火を囲むいうのはな……お互いの温度を、ひとつの真ん中に集める、ちいさな儀式や」


「儀式……?」


ヴェルは、小さく呟いた。


「せや。仲間になるんは、血を分けるでも、契約交わすでもあらへん。

ただ、ひとつのお鍋から、同じ湯気を吸う……それだけで、ええんどす」


暖炉の明かりが、四人の影をゆらりと揺らす。


ふとした間に、ヴェルの蜘蛛の脚が、ほんのすこし、飛鳥の足に触れた。

飛鳥は驚かず、ただそっと目を伏せて、静かに受け入れた。


こうして、

小さな異形たちは——静かにひとつの輪になった。



***



暖炉の火は落ち着き、果物の焦げた甘い香りが部屋に満ちていた。


ヴェルは、小さくちぎった果物を指先に乗せてじっと見つめていた。

口に運ぶことはない。ただ、じっと。

その表情は——どこか、うっとりとしたものだった。


「きれい……」


ぽつりと、ヴェルが呟いた。


飛鳥は翼を動かしかけて、そっと彼女の隣に座り直す。


「……何が?」


「この……焦げた色。すごく……静かで、優しくて……

なんだか……さっき、死んじゃってた鳥さんと、似てるの」


その言葉に、ロメラの手が一瞬止まった。


「鳥……?」


「うん。裏庭に、昨日、落ちてきてて……

もう動かなくなってたんだけど……

目を閉じてて……羽が、すごく綺麗だったの……

だから、ちゃんと取っておいたの。ぐしゃってならないように、糸で……」


淡々と語られるその声に、部屋の空気がわずかに変わった。


ヴェルの八つの目が、くるくると動く。

それは、誰かの反応を探るようでも、何も気にしていないようでもあった。


「ねえ、飛鳥ちゃん……

動かなくなったものって、どうして、こんなに静かで綺麗なんだろう……?」


飛鳥は、答えられなかった。


その問いが、怖かったからではない。

——あまりにも、真っ直ぐすぎたからだった。


「うん……なんでだろうね……」


ようやく絞った声は、かすかに震えていた。


ロメラは肩を回し、いつものようにニヤリと笑って流した。


「ま、そいつは哲学の時間だな。今は腹ごしらえに集中集中っと」


ヴェルは「ふふっ」と笑って、また焼き果物を見つめた。


目は、笑っていなかった。


火がぱちりと爆ぜ、四人の影を揺らす。


九重は黙って扇子を畳みながら、ただ、静かに——

ヴェルの後ろ姿を見つめていた。


(この子は……)


その思いの先に言葉はない。

だが、心の底に、小さな棘のようなものが、確かに残った。



***



ほんの数日。

飛鳥たちとヴェル——GG(フリル娘)との、共同生活が始まった。


朽ちた洋館の中。

蜘蛛の巣が絡む古びた調度品たちの隙間に、暖炉の火と、ちいさな笑い声が灯る。


ヴェルは、最初はおずおずと。でもすぐに、子犬のように懐きはじめた。

飛鳥の隣をぴったりくっついて歩き、ロメラの後ろをちょこちょことついて回り、九重の持つ扇子に目を輝かせた。


「すごい……きれいです……」


ヴェルがぽわんとした顔で扇子を覗き込み、九重は苦笑しながら、それを軽く振ってみせた。

そのたびに、ヴェルのツインテールがぴょこんと揺れる。蜘蛛の脚も、ふわりと控えめに動くのが見えた。


——微笑ましい。

本当に、微笑ましい。


だけど。


時折、ヴェルは無邪気な声で、奇妙なことを言った。


ある朝、ヴェルはうっとりした顔で、壁に飾られたぼろぼろの絵画を見つめていた。


「……きれい。

こんなふうに……お友達も、飾れたらいいのに」


飛鳥もロメラも、一瞬だけ硬直した。


だが、ヴェルの顔には悪意どころか、ただ純粋な憧れしかない。まるで「お花を飾りたい」と言う子供のような、無垢な表情だった。


だから、飛鳥も、ロメラも、九重も——

その違和感を、心のどこかに押し込んだ。


「オレら、壁に張り付けになんのはごめんだわ」


ロメラが軽口を飛ばし、ヴェルは「えへへ」と嬉しそうに笑った。


お昼を回り、四人で食糧を探しに洋館の裏へ回ったときのこと。

ヴェルが小さな穴を見つけ、巣のような中を覗き込む。


「……あ、ねずみの赤ちゃん……まだ、動いてる……」


「連れて帰って……飾ってあげるの……」


その声に、飛鳥が顔をこわばらせて駆け寄った。


「……放してあげよ?」


ヴェルは一瞬、不思議そうな顔をして——

それから、にこっと微笑んだ。


「うん、わかった……また、あとで会えるよね……?」


手のひらから、白く細い糸がふわりと消えた。



***



夜。


焚き火が小さくはぜる音を聞きながら、飛鳥たちは寄り添うようにして、眠りにつこうとしていた。


ヴェルは、飛鳥の隣に、小さく丸まっていた。


黒とオレンジのドレスに包まれた小さな体。ドレスの裾から、黄色と黒の縞模様の胴体が、かすかに覗いている。


けれど、それすらも、今は怖くなかった。


飛鳥は、ヴェルの温もりを感じながら、目を閉じた。

ただ、胸の奥で。誰にも言えない、小さな棘だけが、じわじわと、刺さり続けていた。



***



夜の帳が、さらに深く降りた。焚き火は小さくなり、かすかな赤い光だけを残していた。


飛鳥は、ぼんやりとしたまどろみの中で、微かな気配を感じた。


「……ヴェルちゃん?」


声をかけても、返事はなかった。


扉がわずかに開いている。冷たい夜風が、かすかに吹き込んでいる。


飛鳥はそっとその扉を押し開き、館の外へと出た。


月も隠れた曇り空の下。裏手の古い庭園跡には、奇妙な静寂が広がっていた。


足元に絡む蔦を避けながら、飛鳥が奥へ進むと——

そこに、それはあった。


壊れた温室の骨組みを使って作られた、白い巣のドーム。

細い糸が幾重にも編まれ、光を含んで淡く浮かんでいる。


その中に——


羽根を閉じた鳥。

丸まった子兎。

脚の長い小鹿。


どれも、蜘蛛の糸で編まれたレースで飾られ、丁寧に並べられていた。


無数に張り巡らされた白い糸。その中心に、花束のように飾られた小動物の骸たち。


そして中央で、それをうっとりと見上げている少女。


「……できた……これで、さみしくない……

みんな、ちゃんと、ずっといっしょ……」


その声は、とても幸せそうだった。


飛鳥は、声を失った。


冷たい夜気の中で、ただ、心臓だけが、やけにうるさく脈打っていた。


ヴェルが、無邪気に振り向いた。

八つの瞳が、嬉しそうに輝いていた。


「ねえ、飛鳥ちゃん。見て……!

きれいでしょ……?

これで、もう、さみしくないの……!」


飛鳥は——


何も、言えなかった。


震える羽根で、ぎゅっと胸元を掴む。


胸の奥に、どうしようもない恐怖と、どうしようもない哀しみが、ぐちゃぐちゃに絡まり合って広がっていった。

ヴェルの“きれい”という言葉に、飛鳥の胸がきゅっと締めつけられる。


あたしが、かつて大切な人から貰った言葉——

誰かを見て、憧れと愛しさをこめて、口にする言葉。


けれど今は。


その言葉が、どうしようもなく、


——こわかった。



***



「——ハッチー!」


背後から、声が飛んだ。


振り向けば、ロメラが、駆け寄ってきていた。

その顔は険しく、そして、戸惑いに満ちていた。


少し遅れて、九重も歩み寄ってくる。扇子を閉じ、静かに景色を見据えていた。


飛鳥は、ふらりと後退りながら、声にならない声でロメラを見上げた。


ロメラも、ヴェルの作った"飾り"を見た。


そして、顔をしかめた。


「……これは……ちょっと、シャレになんねぇな……」


呟くような声。


九重も、その言葉に、扇子で口元を隠して視線を伏せる。

ヴェルは、そんなロメラたちを見ても、悪びれる様子はなかった。ただ、心の底から嬉しそうに、両手を広げる。


「すごいでしょ? すごいでしょ?

これで……これで、ぜったい、さみしくない!」


八つの瞳が、キラキラと輝いていた。


あまりにも無邪気だった。


だから、余計に——

痛かった。


飛鳥は、ギュッと胸を抱きしめた。ロメラも、歯噛みするように唇を噛み、九重は、目を伏せたまま何も言わなかった。


(——この子は)


(この子は……なんにも悪くないのに)


(なのに、こんなにも...こんなにも怖い)


言葉にできない思いが、飛鳥の中で渦を巻く。


ヴェルは、笑っていた。


世界で一番、

純粋な笑顔で。


ロメラが、低い声で尋ねた。


「なぁ、ハッチー……オレら、どうする?」


その問いは、あまりにも重かった。


飛鳥は、震える手で、ヴェルを見つめた。


ヴェルもまた、飛鳥を見つめ返していた。

小さな手を広げて、今にも飛びついてきそうな勢いで。


(この子を……)


(この子を、置いていける?)


飛鳥は、震える声で——

けれど、はっきりと答えた。


「……一緒に、行こう。

一緒に、行こうよ、ヴェルちゃん」


ヴェルは、ぱぁっと顔を輝かせた。


蜘蛛の脚をふわりと広げて、飛鳥に駆け寄ろうとする。

だが、その一歩を、ロメラがすっと横から受け止めた。


「よしよし、GG、ちょっと落ち着けな」


ロメラは笑いながらヴェルの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

その仕草には、まだ警戒と優しさが混じっていた。


九重は、少しだけ遠い目をしながら、静かに呟いた。


「……覚悟、決めはったんどすなぁ」


飛鳥は、ぐっと頷いた。


たとえ、どれだけ怖くても。


たとえ、どれだけ異常でも。


この子は、飛鳥たちに「救って」と手を伸ばしてきた。


なら——


応えるしかない。



***



夜明けが近づいていた。

森の中に、ほのかに青白い光が満ち始める。

暖炉の火はとうに消え、古びた洋館の中にも、静かな冷気が流れ込んでいた。


飛鳥たちは、出発の支度を整えていた。


九重が静かに荷をまとめ、ロメラは口を尖らせながら、ヴェルに簡単な道具の持ち方を教えていた。


「オレら、んなに荷物多くねーからな。しっかり持てよ、GG」


「はいっ!」


ヴェルは、小さな手で包み込むように荷物を抱える。蜘蛛の脚も器用に動かして、バランスを取った。

その姿は、どこか微笑ましかった。


——もし、

あの夜の光景を知らなければ。


飛鳥は、ヴェルの後ろ姿を見つめながら、小さく、深呼吸した。


大丈夫。あたしたちは、きっと、大丈夫。

たとえ心に棘を抱えても、たとえ、ほんの小さな不安が疼いても。


ヴェルは今、必死で飛鳥たちについてこようとしている。


それだけで、今は、十分だった。


「……さぁ、行きまひょか」


九重が、静かに言った。


「行くぞ、GG! ハッチー! ついでに九重はんもな!」


ロメラがにかっと笑い、親指を立てた。


「はいっ!」


ヴェルは、嬉しそうに飛び跳ねた。

ふわりと揺れる黒とオレンジのドレス。

黄色と黒の蜘蛛の胴体も、軽やかに弾んだ。


飛鳥は、ぎゅっと拳を握る。


前を向く。


この旅が、何を連れてくるのかなんて、まだ知らない。

それでも、進むしかない。

自分の正体を知るために。この世界に、自分の居場所を探すために。


飛鳥たちは、ぼろぼろに崩れた館を後にした。


朝靄の中、四つの影が、森の奥へと消えていく。

蜘蛛の巣に覆われた古びた洋館だけが、ただ、静かに、静かに、その背を見送っていた。



——そして、風はまた、そっと背を押す。


けれどその行き先は、言葉の届かぬ深い霧のほとり。

朝露の匂いが濃く、風すら囁きを潜める湖の岸辺。


その水面に、ゆっくりと姿を現すのは——

蒼の尾を引いて佇む、無言の“異形”。


そこに棲まうのは、誰とも言葉を交わさぬ、静謐の住人。

言葉を持たず、ただ水と共にある精霊。



——つづく

―夜這い未遂事件―


『……さみしくないように、ずっと……そばにいるね』


夜更け。焚き火はすでに消えかけ、

森の中には虫の声すら届かない静けさが満ちていた。


飛鳥は、翼をたたんで丸くなりながら寝息を立てていた。頬はほんのり赤く、まぶたはわずかに震えている。汗ばんだ額には、旅の疲れが滲んでいた。


その隣で、ヴェルは、起きていた。

じっと、飛鳥の顔を見つめていた。


八つの目が、同じリズムでゆっくりと瞬きを繰り返す。

胸の前で手を組み、ふわりとドレスの裾を整えながら、

声もなく、するりと身体を傾けていく。


「……飛鳥ちゃん……」


囁く声は、吐息まじりで甘く、とろけるようだった。


そっと、片膝をついて身を屈める。

ドレスの襟元が少しずれて、白い鎖骨が月明かりに浮かび上がる。柔らかな髪がさらりと落ちて、飛鳥の頬をくすぐった。


「……だいじょうぶ……ヴェル、いるよ……」


飛鳥が寝返りを打つ。

ヴェルは、すん、と息を止めたまま、そっと、飛鳥の羽根先に触れる。


でも——

その羽根の温もりに、なぜか涙が出そうになる。


「……さみしいの、いやだよ……」


その声とともに、ヴェルの蜘蛛脚がわずかに広がる。

飛鳥を包むように——いや、守るように。

あるいは、そのまま“糸で繋ごう”とでもするように。


だが——


「……ヴェル、ちゃ……ん……?」


飛鳥のまどろみの中の声が、ヴェルの動きを止めた。


ぱちり、と八つの目がすべて閉じられる。ヴェルは何も言わず、そっと指をほどいた。


「……ううん、なんでもないの……おやすみ、ね……」


そう言って、飛鳥の翼の横にちょこんと丸まり、静かに、呼吸を合わせた。


けれどその心の中には、たしかに“何か”が芽生えていた。


「触れたい」でもなく、「壊したい」でもなく——

     “このまま、ずっと一緒にいたい”——それだけ。


ただ、それだけだったはずなのに……


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