第6話 選ばせる
翌朝、店へ入ると、ミナが作業台の端へ本当に椅子を一つ増やしていた。脚の長さが揃わず、座れば右へ傾く古椅子だったが、畳んだ布を挟んで高さを直してある。私のために誰かが場所を空けたのは、婚礼の日以来だった。
「朝は食べました? 爺さんの粥、薄いですけど、食べないよりは腹にいます」
ミナは返事を待たず、麦粥の器を置いた。縫い目は速く揃うのに、話す言葉は糸玉のように次々転がる。上衣の裏へ絹を使っていることと座り方を見て、私が貴族家の出だと初日に見抜いていたらしい。
「奥様ではないなら、何なんですか」と訊かれ、私は匙を持ったまま考えた。
「今のところ、試しに使われている者です」
「じゃあ、あたしと同じですね。あたしは三年、試されてます」
奥でケルナーが咳をし、ミナは笑いながら糸を巻き始めた。彼女の針目は私より速く、生地の厚みが変わっても間隔が乱れない。ただし、縫い目の下を走る術式は読めなかった。文字として型を覚え、同じ形を写すことはできても、その線が着た人の身体でどう動くかは分からないという。
「入口と出口を先に探してください。術式は、入った魔力をどこかへ出さなければ、布か人の中へ溜めます」
昼までに、古い火除け前掛けを裏返して流路を描き、二つある逃がし口へ赤い糸印を付けた。ミナは私の説明をそのまま書き取らず、「片方が詰まったら、もう片方から逃げる。台所に扉が二つあるのと同じ」と自分の言葉へ直した。そのほうが客には伝わるだろう。
昼過ぎ、扉を半分だけ開けて、中年の女性が入ってきた。冬の水仕事で手が赤く腫れ、爪の脇には細い血が滲んでいる。ベルタと名乗った彼女が抱えていたのは、昨日ケルナーに読ませられた深緑の子供用外套だった。
「右の肩が、また焦げまして。三日前にここへ出したばかりなのに、昨夜、娘が熱いって泣いたんです」
包みの底には、ケルナーが書いた受取札が皺になって入っていた。ベルタは近所の者に読んでもらい、肩がまた切れるかもしれないことは知っていたという。
「でも、相談する衣装師も、そのお金も書いてありませんでした。昨日は冷えて、これを着せずに学校へやるものがなかったんです」
警告は届いていた。選べる道まで届かなかったため、母親は危険を承知で同じ外套を着せた。紙へ事実を残すだけでは足りない場合があることを、私の最初の客が教えていた。
外套を広げると、二度の繕い跡のすぐ隣で銅糸が切れ、裏地には硬貨ほどの焦げができていた。八歳の娘マリカの肩も赤くなったが、朝には引いたため医者には行っていないという。診察代を惜しんだのではなく、今夜の食事とどちらかを選んだのだと、包みに入った銅貨九枚を見て理解した。
右肩へ布を当て、新しい糸を選びかける。流路が曲がる箇所へ、目立たない逃がし口を一つ開ければ、少なくとも今冬は焼けずに済む。術式を縫い替えるのは禁じられているが、三針ほどなら誰にも分からない。
「手が、もう縫っているぞ」
ケルナーの声で、指が空中に針の軌道を描いていることへ気づいた。
「開ければ、この子は焼けません」
「あれは、いい三年だったか」
六十九着を黙って閉じた時間が、右手の痺れとともに戻った。救えた人はいる。けれど私の名も、型紙の欠陥も、助けられた人自身の選択も残らなかった。
「いいえ」
「なら、勝手に最善を縫うな。言って、あとは客に決めさせろ」
私は針を置き、ベルタの正面へ座った。説明を始めると、彼女は代金を訊くときより強く外套を抱えた。
「選べる方法は三つあります。一つ目は、切れた肩を今と同じように繕うこと。銅貨十枚ですが、流路の曲がりは残るので、また切れます。いつ切れるかは分かりません」
紙へ外套の肩を描き、急に折れる線を示す。ミナが隣から、客へ向けて図を回した。
「二つ目は、新しい生地で肩を裁ち直し、この布を袖と裏へ回すことです。暖かさを保ち、五年ほど着られます。生地を含めて銀貨八枚」
ベルタの指が、銅貨の包みを押さえた。八百枚に相当する額を、払えるかと訊く必要はなかった。
「三つ目は、暖の術式をすべてほどくことです。普通の外套になるので今より寒くなりますが、術式が暴れて焦げることはありません。ほどいた銅糸はお返しします。代金は銅貨五枚です」
「先生なら、どれにしますか」
答えはあった。金があるなら仕立て直すのが最善で、この母子にはその金がない。だからこそ、私が代わりに選べば、貧しさまで私の都合のよい物語へ変えてしまう。
「三つとも、失うものが違います。暖かさ、お金、安全。どれを失ってよいかは、私には決められません」
ベルタはその場で決めなかった。外套を持ち帰り、娘と相談して明朝もう一度来るという。扉を出る前に、「決めてくれない先生は初めてです」と言われた。
「申し訳ありません」
「褒めてはいません。でも、怒ってもいません」
どちらでもない答えを抱えて、その夜は宿へ戻った。いつもなら、布の内側で熱がどう巡るかを考え続けるのに、ベルタの家で交わされているはずの会話ばかりが頭に浮かぶ。マリカが寒さを嫌がれば、母親はまた繕う道を選ぶかもしれない。それも私が訂正してよい答えではなかった。
翌朝、ベルタは娘を連れて来た。マリカは外套を着ず、赤い毛糸の肩掛けへ顎まで埋もれている。右肩には薬草油を塗った麻布が当てられ、服の襟が触れないよう、古い肌着を片側だけほどいてあった。母親が針仕事を知らないのではない。知っている手で、今できることをした形だった。
「暖かいのを全部、ほどいてください。よい選択じゃないのは分かっています。でも、この子にもう一度着せて、今夜切れるか春まで切れないかを待つほうが怖い。寒い日は、私の肩掛けを中へ着せます」
「マリカさんも、それでよいですか」
母親ではなく本人へ訊くと、少女は肩掛けの房を指へ巻いた。知らない大人に答えを求められるとは思っていなかったらしく、ベルタの顔を見上げる。ベルタは「先生に言いなさい」と急かさず、黙って待った。
「暖かいほうが好き。でも、夜に脱げないくらい熱くなるのは、もっと嫌」
「普通の外套にすると、朝の道は寒くなります」
「母さんの赤いのを中に着てもいいんでしょう。学校で、男の子に変だって言われるかもしれないけど」
「言われたら、どうしますか」
私が重ねて訊くと、マリカはしばらく考え、肩掛けを胸の前で結び直した。
「肩を見せます。火傷より変じゃないって言います」
八歳の子に強い言葉を言わせて満足してはいけない。その強さが必要になったこと自体は、大人の作った衣装と値段の結果だ。それでも、母親が安全を決め、娘は従った、という一枚の話へ閉じることもしたくなかった。
「分かりました。では、二人が選んだと記録します。途中でやめたくなったら、ほどき終える前なら止められます」
「承りました」
術式は縫った順序と逆に、出口から入口へほどく。袖口の意図された開きから銅糸を拾い、一針ずつ抜くたび、残っていた魔力が指へぬるい熱となって逃げた。ミナは隣で抜いた糸を絡まないよう巻き、途中から私より先に次の出口を見つけるようになった。
肩の折れ目では、同じ穴へ太い針を三度通してあり、毛織が硬く潰れていた。銅糸を引くだけでは布まで裂けるため、裏から小さな木べらを差し、繊維を起こしながら半寸ずつ戻す。ミナが糸を引く力を強めるたび、私は手首へ指を添えて止めた。
「速く抜くと、何がいけないんです」
「糸に残った熱が一度に出口へ集まります。縫うときほどではありませんが、指を焼くことがあります。それに、布穴が広がれば、普通の外套としても風を通します」
魔法をなくす仕事にも、服を残す技術が要る。ミナは三度目には自分から力を緩め、抜いた穴を指の腹で左右から揉んだ。毛足が戻ると、深緑の表には銅糸の跡が淡い線として残るだけになった。
焦げた裏地には、普通の布を当てる必要があった。同じ深緑なら跡は隠せるが、手元にあるのは鼠色と、ベルタの肩掛けに近い赤だけだった。マリカへ見本を当てると、少女は迷わず赤を選んだ。
「隠すと、また同じのを買う人がいるかもしれないから」
表へは出ない小さな当て布でも、着る本人には毎朝見える。私は赤布の角を丸く裁ち、魔力を通さない木綿糸で留めた。傷をなかったことにせず、次に袖を通すための修理だった。
ベルタは縫い上がった裏を指で撫で、硬い角が肩へ当たらないことを確かめてから、娘へ渡した。
「この糸を縫った人が悪かったんですか」
作業を見ていたベルタが訊いた。私は揃った針目を光へかざす。
「縫い手は上手です。布を節約する裁ちと、術式を縫う仕事は別の人でしょう。安く作れと言われ、安く作った。その結果を知っていたかは、この外套だけでは読めません」
「同じ外套、近所に四着あります。三年前、市でまとめて安売りしてました」
それなら、同じ角度で曲がる肩がほかにもある。私は新しい紙を出し、購入時期、売り場、三度の断線、マリカの火傷を書いてよいか尋ねた。
「書いて、あの子の肩が治りますか」
「治りません。次に同じ場所が焦げたとき、一着だけの偶然ではないと示せます」
ベルタはすぐに感謝しなかった。赤く割れた指で娘の外套を撫で、やがて「うちの名前も書いてください」と言った。署名は文字でなく、墨をつけた親指の印だった。マリカも自分の欄が欲しいと言い、名を書くには大きすぎる筆で、母親の印の横へ自分の名の最初の一字を残した。
私はその下へ二つ目の署名欄を作り、空けておく。ミナが「誰の欄ですか」と訊くので、同じことが起きた人が名前を足すためだと答えた。
「二人目が来なかったら?」
「空いたまま残します」
暖かさを失った深緑の外套と、巻き取った銅糸をベルタへ返し、銅貨五枚を受け取った。自分の仕事に対して客から金を受け取るのは初めてだった。術式をほどくのに使う魔力は、縫うときの十分の一ほどで済む。指の紋をほとんど減らさず、相手が選んだ仕事を終え、その結果を紙へ残せた。
ケルナーは直し帳の形式にない二人目の欄を見たが、消せとは言わなかった。ただ、店の棚の一番下から空の綴じ表紙を出し、私の椅子の横へ置く。
「溜まったら綴じろ。空欄も、そのままな」
一枚目の記録を綴じたとき、店の外をベルタが通った。娘の身体には少し大きい深緑の外套の下へ、母親の赤い肩掛けが重ねられている。暖の光はもうなかったが、マリカは自分の足で歩き、母親と同じ速さで角を曲がっていった。




