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「愛することはない」と言った旦那様と離婚して、王都一の魔導衣装師になりました  作者: 星舟能空


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第5話 直し屋ケルナー

 川沿いの宿で最初の夜を過ごし、翌朝から仕事を探した。部屋は寝台と水差しだけで一杯になり、窓を開ければ魚市場の声と鱗の匂いが入ってくる。朝の薄い粥は宿代に含まれていたが、昼と夜まで食べれば銀貨は試験より先に尽きるため、アンナの黒パンを一日二切れずつに分けた。


 大きな衣装工房から順に七軒を訪ねた。資格を持たないと答えれば、受付の者は申し訳なさそうに目を伏せる。伯爵家で四十七着を管理していたと付け加えると一度は興味を持たれたが、なぜ辞めたかを説明したところで顔が曇った。婚家の欠陥を公衆の面前で示した無資格者は、腕があっても、工房へ面倒を持ち込む女だった。


 術式に触れなければ、生地を裁つ、糸を巻く、床を掃く仕事はできる。けれど、そうした席には見習いの娘がすでに何人も並んでいた。貴族の上衣を着た二十三歳の女より、十三歳の娘のほうが給金は安く、言われたことを覚える時間も長い。


 五軒目の工房だけは、店主が私の肩と腰を測った。働き手としてではなく、試着台にするためだった。貴族の娘とほぼ同じ丈で、礼装の重さにも耐え、術式を通した経験がある身体なら、春まで食事と寝床を付けるという。


「火傷が出た場合の治療費は、どちらが持ちますか」


「よほど運が悪くなければ出ないわ。慣れているのでしょう?」


「出た場合を訊いています」


 店主は巻尺を畳み、契約前から面倒を言う者は向かないと告げた。腹の減った身体は、食事と寝床という言葉に遅れて反応したが、私は頭を下げて店を出た。八歳の私にはなかった退出の扉を、二十三歳の私が使わない理由はない。もっとも、その選択によって黒パンが増えるわけではなく、正しさは空腹へ何の味もつけてくれなかった。


 六日目、私は衣装工房だけを目指すのをやめ、南区の路地を端から歩いた。生地屋、染め屋、刺繍だけを請け負う店、古着商。その中に、資格を持たずとも丈詰めや裏地の交換を扱える直し屋がある。安い衣を長く着る人ほど、傷んだ術式を抱えて店へ来るのだと考えた。


 夕方近く、洗濯物の間に一枚の古い看板を見つけた。表には「直し ケルナー」。その下の一行は黒い塗料で潰されていたものの、雨で薄れた塗料の向こうに「元一級型紙起草師」と読める。


 一級起草師は、既存の型紙を縫う衣装師とは違い、術式の並びそのものを作れる。王都にも二十人とはいないはずの者が、なぜ資格の要らない直し屋をしているのか。完全に消す気なら板を削ればよいのに、文字の輪郭を残して塗った理由も分からなかった。


 扉を押すと、乾いた紙と、蒸気を当てた羊毛の匂いがした。細長い店の両壁は天井まで棚で埋まり、反物、畳んだ衣、型紙の筒が、外からは規則の分からない順序で詰め込まれている。入口の作業台では、焦茶の髪を一つに括った若い女性が、裏地へ待ち針を打っていた。


「いらっしゃいませ。あ、裾ですか、それとも袖――」


「働き口を探しています」


 彼女の手が止まり、針山を落としかけた。背後の棚へ肘が当たり、糸巻きが三つ転がる。拾うのを手伝おうと屈んだ私へ、店の奥から低い声が飛んだ。


「うちは人を雇わん」


 声の主は、長い台のいちばん奥に座る老人だった。白髪を短く刈り、背の高い身体を猫のように丸めている。右目は白く濁り、鋏を持つのは左手。右手は台へ置かれたままで、指が不自然な角度に固まっていた。


「ケルナー様ですか」


「様は要らん。看板を読めるなら、用件も終わったはずだ」


「ヴェレナ・ノルデンと申します」


「知らん名だ」


「知られていません」


 若い女性が、落ちた糸巻きを胸に抱えたまま、こちらと老人を見比べた。老人は濁っていない左目で、私の上衣、靴、左腰のほどけた裾飾りを順に見る。値踏みよりも、傷んだ衣の状態を確かめるときの目に近かった。


「何ができる」


「布が読めます。誰が着たか、どこを繕ったか、魔力がどちらへ流れたか」


「針は」


「普通の縫いなら、人並み以上に。術式は、無資格です」


 私は鞄から灰色の布片を出した。宿へ戻ってから、傷みかけた自分の上衣の袖口を三種類の始末で縫った見本である。表から糸を見せないまつり縫い、擦れやすい箇所を支える返し縫い、生地を足さず縫い代だけを広げる継ぎ。貴族家の名も、読めるという特殊な手も、普通の針が扱えなければ給金にはならない。


 ケルナーは布片を左手で曲げ、爪の背で縫い目を擦った。二つ目の角を強く引くと、糸は切れず、余分に取った縫い代だけがわずかに開く。


「人並み以上と言う者は、たいてい人並みを知らん」


「この店の人並みを教えていただければ、明日からは比べられます」


「口は、針より少し遅いらしいな」


 褒められたのかは分からなかったが、布片は突き返されず、深緑の外套の隣へ置かれた。


「見えるのと、直せるのは違う」


「はい」


「直せるのと、直していいのは、もっと違う」


 答えるまで一拍かかった。婚家を出た理由を、初対面の老人に言い当てられた気がしたからだ。


「……はい」


 ケルナーは背後の棚から子供用の外套を引き出し、台へ広げた。深緑の毛織で、肩から袖へ安い銅糸の暖術式が走っている。長く着継がれたため毛足は寝て、袖口だけが二度折り返されていた。


「四つ言え」


 断りを入れて掌を置くと、布に残った三人分の体温が重なった。最初は肩幅の広い男児、次は腕の細い女児、今の着用者はさらに小さい。術式の熱は右肩で渦を巻き、同じ場所に二度の繕い跡を残している。


「一つ目。右肩の術式が二度切れています。糸の傷みではなく、斜めに裁った肩で流路が急に曲がるのが原因です。同じ形で繕えば、三度目もここから切れます」


 老人の左手が、鋏の柄を一度撫でた。


「二つ目。この外套は三人が着ています。裄を詰めたのは二度で、どちらも家庭の針です。今の子は袖を折って着ています」


「三つ目」


「暖の環が袖口で切れています。ここを繋がなければ、手へ熱が届きません」


 ケルナーは表情を変えなかった。私は肩の薄くなった生地を光へ透かし、最後を続ける。


「四つ目。右肩だけをもう一度繕っても、長くはもちません。流路をまっすぐ取るよう裁ち直すには新しい生地が要る。この布だけを直し続けることには、意味がありません」


「三つ目は違う」


 言われて袖口を見直した。糸が切れたのではなく、端を裏へ返して始末してある。子供の外套では、体温が急に上がったとき熱を逃がすため、環を閉じきらない古い型がある。私は近年の成人服の常識を当てはめ、意図して開けた出口を欠陥だと読んでしまった。


「申し訳ありません」


「知らん型を知らんと言わず、欠陥にした。それは覚えておけ。謝罪は客に誤った説明をする前に済ませたから、今回は安い」


 顔へ集まった熱が、耳まで上がる。三つを当てたことより、一つ間違えたことのほうが鮮明だった。ところがケルナーは、外套を畳みながら隣の女性へ言った。


「ミナ、明日から椅子を一つ増やせ」


「増やす場所、あります?」


「お前が糸箱を積むのをやめればある」


「あれは積んでるんじゃなくて、すぐ使う順です」


 二人のやり取りを聞いても、自分が何を許されたのか分からずにいると、老人がこちらを向いた。


「日に銅貨十五枚。昼の粥は出す。うちは人を雇わんから、試しに使うだけだ」


「いつまでが、試しでしょう」


「使えなくなるまでだ」


「それでは長く働けるよう努めます」


「給金は六日ごと。休んだ日は出ん。客の布をお前の判断で捨てたら、代金から引く」


「私の判断でなく、客が捨てると決めた場合は」


「記録があれば引かん」


 短い雇用条件には、働かなければ受け取らず、失敗は負うという責任がある一方、客の選択を私の過失へ数えないという境界もあった。私はその場で日付と金額を書き、ケルナーにも左手で印を入れてもらった。


 ミナが吹き出した。彼女は二十歳で、この店に三年いるという。私より三つ年下なのに、糸巻きを棚へ戻す手には、誰かの家に庇護されて働く娘ではなく、自分の給金で暮らす人の速さがあった。


「一つ条件がある」


 ケルナーは動かない右手を左手で台の下へ移し、深緑の外套を私へ返した。


「ここでは術式を縫うな。読んで、客へ説明するのは構わん。普通の針で布を直すのもいい。だが、お前の魔力を糸へ通すな」


「なぜですか」


「それを訊いたから使うことにした」


 答えにはなっていなかった。しかし、理由を知らないまま従うことと、理由を訊いたうえで答えを待つことは、同じ形ではない。私は外套を畳み直し、明日座る場所を作るため、ミナと一緒に糸箱を下ろし始めた。


 深緑の外套は、私が来る前に二度目の繕いを終え、受け取りを待っていた品だった。ケルナーは「右肩は再発の恐れ。術式衣装師へ要相談」と受取札へ加え、閉店前に来た近所の使いへ、札と一緒に渡した。相談先も費用も示さない警告が、着る者へどこまで届くのか。私は気になったが、会っていない客の代わりに答えを作ることもできなかった。


 積まれていた箱の下から、裾を踏み破った男物のズボンが出てきた。ミナが「急ぎです」と青ざめ、ケルナーは私へ顎を向ける。採用試験が終わったと思ったのは、私だけだったらしい。


 破れは踵から掌ほど上まで斜めに走り、泥が乾いて布目へ入り込んでいた。汚れたまま針を入れれば砂粒が糸を削るため、まず濡らした麻布で裏から泥を押し出す。裂け目の端を無理に寄せず、似た厚みの端切れを裏へ置き、歩いたとき膝から伝わる引きに沿って細かくかがった。表だけ美しく閉じれば、次は布そのものが裂ける。


「縫い目を消さないんですね」


 糸箱を片づけながらミナが訊いた。


「消すと、持ち主が前と同じ幅で足を開きます。ここを補ったと分かれば、少し気をつけるかもしれません」


「客は、跡がないほうを喜びますよ」


「では、受け取りのときに選んでもらいましょう。目立たない糸へ替える余地は残してあります」


 ミナは縫い跡を鼻先まで寄せて見たあと、受取札へ二種類の仕上げを書き加えた。私の考えをそのまま採ったのではなく、客が読める言葉へ直したのだ。この店では、間違いを見抜く老人だけでなく、説明を外へ渡せる人からも学ばなければならない。


 六日間、どの店でも見せる前に断られた手を、ケルナーは誤りまで見たうえで置いてよいと言った。雇われたとはまだ呼べない。それでも翌日の行き先があるだけで、宿の鍵は昨日より少し軽く感じられた。


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