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「愛することはない」と言った旦那様と離婚して、王都一の魔導衣装師になりました  作者: 星舟能空


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第4話 試着係

 誓約庁を出ると、ノルデン家の古い箱馬車が待っていた。塗装の剥げた扉に家紋だけは丁寧に描き直してあり、御者は私を見るなり「旦那様がお呼びです」と告げた。父が私の居場所を調べ、わざわざ迎えを寄越すのは初めてだったが、娘を案じたのではないことくらい、扉の家紋を見れば分かる。


 王都の西へ向かうあいだ、私は濡れた袖口を手巾で押さえた。灰色の上衣は三年着ても傷みにくいよう自分で選んだものの、袖の内側には上等な絹を使っている。伯爵夫人らしさを求められた名残で、外から見えないところだけが贅沢だった。今後の暮らしに合わないなら取り替えればよいのに、まだ鋏を入れる気にはなれなかった。


 ノルデン子爵家の王都邸は、坂を上り切った日当たりの悪い場所にある。灰色の壁を蔦が半分覆い、雨樋は途中で継ぎ足されていた。手入れを怠っているのではなく、蔦を剥がし、石を洗い、一本の雨樋を新調するだけの金がないことを、私は八歳のころから知っている。


 玄関で「長女のヴェレナです」と名乗るまで、わずかに時間がかかった。三年前に嫁いでから使わなかった身分である。通された先が家族の食堂ではなく客間だったので、この家が私をどちら側へ置いたかは、それ以上訊かずとも分かった。


 壁にあった祖父の肖像画は、森の風景画へ替わっていた。額縁だけが以前と同じで、祖父の名を刻んだ真鍮板を外した穴が残っている。肖像は売ったのだろう。見慣れた長椅子の肘掛けにも、新しい布を張らず、擦り切れた箇所を似た色の糸で繕った跡があった。


「昨夜のことは、朝には王都中へ広がっている」


 四半刻待たせて入ってきた父は、挨拶より先にそう言った。濃紺の上着は肩がわずかに窮屈で、腕を背へ回すたび襟が持ち上がる。仕立て直しを勧めても、まだ着られる、と拒んだのは二年前だった。


「百人の前で裾を引く必要があったのか。家の中で話せば済んだだろう」


「家の中で話した三年前には、済みませんでした」


「済んだ。お前は伯爵夫人になった」


「閉じない裾を上衣で隠して、そう呼ばれていただけです」


 父は暖炉の前で手を後ろへ組んだ。子供のころ、叱る前にはいつもその姿勢を取った。声を荒らげる前に自分を大きく見せたいのだと、今なら分かる。


「裾など誰も見ない。三年隠せたなら、あと三十年も隠せただろう」


「私も、そう思っていました」


 言い返すより、その事実を認めるほうが父には効いたらしい。背で組まれた指が動き、話題はすぐ金へ移った。


「持参金は戻るのだな。金貨四百二十枚だ」


「返還を請求する権利は生じます。ただし、ハーロウ家の手元金は金貨十一枚です。訴えれば年月も費用もかかり、そのあいだ両家の名が公文書へ残ります」


「なぜお前が向こうの手元金を知っている」


「帳簿をつけていたのは私ですから」


 夫の家に嫁いだ娘が金を管理していたことには驚き、自分の娘が妻として扱われなかったことには驚かない。その順序も、この家では昔から変わっていなかった。


「フローリアの縁談があるのだぞ」


 ようやく本題が出た。二十歳になる妹には、コルヴィス侯爵家の次男ユリアンとの縁談が進んでいる。二階級上の家との婚姻は、古い屋敷の雨樋だけでなく、ノルデン家が百年抱えてきた借財まで直せるものだった。


「侯爵家は、ハーロウとの縁を見て話を進めた。婚姻がなかったなどと広まれば、格が釣り合わないと判断される。妹の将来を壊して平気なのか」


「フローリアの婚礼衣装は、どちらの型紙で作るご予定ですか」


 父は返事をする前に、窮屈な上着の前を引いた。銀鼠色の裏地が一瞬のぞき、脇の縫い代へ濃い糸を重ねた跡が見える。母が亡くなる半年前に直した箇所だった。身体が太ったのに表地を足さず、裏の余りだけで広げたため、もう指一本ぶんも逃げがない。肩が上がらないのは年齢のせいだと父は言うだろうが、衣服は、持ち主が口にしない不自由を先に告げる。


 以前の私なら、帰るまでに同じ濃紺の端切れを探し、誰にも知られず縫い代を作っていた。今日は言わなかった。本人が不自由を認めず、直してほしいとも言わない衣装を、娘の務めという名で直すことはしない。父の肩に食い込む布を見たまま、答えを待った。


 父は口を閉じた。問いを重ねず待つと、暖炉で薪が崩れ、裾の裏側へ熱が触れた。


「……ハーロウ家のものだ。使用料はもう払ってある」


「返してもらい、別の型を探してください。あの型紙には第十二条がありません。使えば、フローリアの裾も閉じません」


 父の顔に浮かんだのは驚きではなかった。聞かなかったことにしようとする、平らな表情だった。三年前の婚礼の朝、私が足りない条項のことを告げたときと同じである。


「お父様は、ご存じだったのですね」


「何を根拠にそのようなことを。型紙は伯爵家が保証している」


「では、今知りました。今度はフローリアにも伝えてください」


「余計なことを言うな。あの子は式を楽しみにしている」


 父が恐れているのは娘の失望ではなく、娘が知ったうえで断ることだった。知らない者は、用意された衣装へ腕を通すしかない。私も、かつてそうだった。


「私が八歳の冬を覚えていらっしゃいますか。シュヴァルツ男爵家の婚礼衣装を、式の三日前に着た日です」


「古い話だ」


「十四歳までの六年間で、三十四着を着ました。何着だったか、ご存じでしたか」


 父は答えなかった。私は上衣の襟元を緩め、左の肩を出した。鎖骨から肩先へ、掌より少し小さな白い引き攣れが走っている。十二歳の冬、火の祝い術式が縫い目から漏れ、薄い肌へ張り付いた痕だった。


「仮縫いでは、術式を安定させるため、生きた身体へ必ず一度魔力熱を通します。熱そのものは全員が受ける。そのうち、流路の漏れが大きいおよそ十人に一人が、皮膚へ火傷を負います。私の場合、三十四着のうち四着が、赤みだけでは済みませんでした」


「危険があるとは聞いていなかった」


「聞こうとなさらなかったのでしょう。一着につき銀貨十五枚。子供は身体が小さく、食事代も安く、親が承知すれば本人は断れません。子供でなければ試せない技術ではありません。いちばん安く、拒まれにくかっただけです」


 最初の一着は、赤い婚礼衣装だった。八歳の私には胸が余り、背中を紐で寄せても、重い裾が足首へ巻きついた。大人の花嫁が流すはずの魔力を子供の身体へ通すため、職人は私の手首へ補助環を結び、「少し熱いだけです」と三度言った。熱くない者は、熱さをいつも小さな言葉で呼ぶ。


 術式を通した瞬間、肩から腰まで火の筋が走った。布を脱がされ、冷水を浴びせられ、私は二日寝込んだ。五歳だったフローリアは寝台の脇へ頬を膨らませて立ち、「お姉様だけ昼まで眠れて、ずるい」と言った。私は妹を泣かせたくなくて、仕事だったことも、起き上がれなかったことも話さず、次に買ってもらえる飴を半分あげると約束した。


 あの子が何も知らなかったのは、幼かったからだけではない。私が黙って、父が黙らせ、家じゅうが銀貨十五枚を何の代金とも呼ばなかったからだ。


 肩を隠してボタンを留める。布に残った魔力を読めるようになったのは、火傷が才能をくれたからではない。何度も別の術式を着せられ、焼けた夜には母の型紙帳を開いて、どこから熱が漏れたかを自分で探したからだ。傷が教えたのではなく、傷を繰り返さないために読み続けた。


「そのおかげで、今のお前には人にない力がある」


 父は皮肉でなく、本気でそう言った。四着の火傷と三十四着の恐怖を、得られた技能と差し引けば利益が残ると思っている。私は怒鳴る代わりに、上衣の襟がきれいに戻ったことを指で確かめた。


「そうですね。そのおかげで、ハーロウ家の型紙が欠けていると見抜けました」


「ヴェレナ」


「そして、今度は黙りません。フローリアには、私からも伝えます」


 父は客間の扉を開け、「この家へ戻るつもりなら、口を慎め」と言った。私は持っていた鞄を膝から下ろし、立ち上がる。


「戻るつもりで来たのではありません。私は今夜から、自分で宿代を払います」


 廊下へ出たところで、階段の踊り場に水色の衣装が見えた。フローリアが手すりを両手で握り、顔を強張らせている。冬には淡すぎる色だったが、侯爵家の使者に会うため仕立てたのだろう。腰にはまだ裾飾りがなく、その空白が目についた。


「お姉様」


 三年ぶりに聞く妹の声だった。私は足を止めたが、父が客間から名を呼ぶと、彼女の唇は閉じてしまう。


「昨夜のこと、本当なのですか」


 閉じかけた唇から、細い声がこぼれた。父がもう一度名を呼ぶ。フローリアの水色の袖には、真珠色の試し糸で寸法の印が打たれていた。まだ完成した礼装ではなく、侯爵家の前で家柄と身体の形を確かめられるための仮衣装だった。肩幅は合っているのに、胸元だけ指二本ぶん強く絞られ、息を深く吸えば小さな皺が放射状に走る。よく見せようとして、本人の呼吸を削った仕立てだった。


「私の婚姻が、最初から成立していなかったことは本当です。あなたの型紙にも、同じ欠けがあります」


「でも、ユリアン様は――」


 そこで彼女は父を見た。夫となる人が優しいのか、侯爵家との話を壊したくないのか、あるいは自分だけは違うと思いたいのか。最後まで言葉にされなかったので、私は勝手に続きを縫い足さなかった。


「型紙を替えれば、婚礼そのものをやめる必要はありません。魔法のない衣装で誓うこともできます。けれど、何を着るかは、欠けを知ったあなたとユリアン様で決めることです」


 フローリアの指が襟元へ上がり、きつく絞られた胸の布を一度だけ引いた。父の前ではしなかった仕草なのだろう。衣装に隠された息苦しさを、本人が初めて確かめるような動きだった。


「春の衣装を着る前に、型紙を十二まで数えて。数え方が分からなければ、私を捜してください」


 返事はなかった。けれどフローリアは、逃げずに私の左腰を見た。ほどけた裾飾りの二つの端を、父が一度も見なかった場所を。


 坂を下り、途中で一度だけ振り返ると、踊り場の窓にはまだ水色が残っていた。妹は何も選ばなかったのではなく、父のそばで黙ることを、今は選んだ。その選択を私が代わりに変えることはできないが、知らないまま衣装を着せる手伝いだけはしないと決めた。


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